伊予山崎のお山
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平岡山へ
距離 約360m
標高差 約60m
国道・県道
一般道
徒歩
下記写真の場所
危険・行き止まり
  

国道56号線の大平交差点を左折し、
「←上唐川」の方へ向かいます。

県道53号大平砥部線に入り、南山崎小の横を通り-



  

写真の丁字路で右折し、県道225号中山伊予線へ。
正面に見える平岡山まで、県道を上って行きます

県道は近年、拡幅工事が行われ、1.5車線化。
離合しやすくなりましたけど、谷に入ってからは、
ブラインド・コーナーが多いので、ゆっくり走って下さい。



丁字路から1.2kmほどの所に-

中央構造線の露頭があります。

といっても、素人目にはただの崖が岩塊にしか見えません。

伊予市指定文化財 天然記念物

中央構造線ハノラ谷露頭A

 今から約1200万年前、数万年の間、日本中央構造線に沿った地殻の弱い地域に火山活動が断続的に起こった。
その状態をわが伊予市に見ることができる。
 障子山から明神山にかけての安山岩系の地層を連続して見られるのはそのためである。
 この地層断面はその一部で、A露頭は右の方一段低い所が緑色片岩層であり、左の高い方が噴出した安山岩層である。
 谷むかいのB露頭は、右の黄褐色部分が和泉砂岩層で、続いて黒色の部分が和泉砂岩層の破砕層で、その左が噴出した安山岩層である。

昭和52年2月19日 指定
伊予市教育委員会

何度もカーブを抜け上ると、
平岡地区のビワ畑が間近になってきました。

訪問当時はビワの実はひとうひとつ、
きちんと袋掛けされてました。

カラスが袋を破ってちゃっかり食べてました。
ずる賢いやつめ!



標高250mを越えると、山越しに海が見えてきました。

山口、広島の島々が幻想的に浮かんで見えました。

道幅が狭くなるこの場所から-

春は桜並木が始まります。

傾斜地に立っているけど旺盛な桜の木が多いです。

空と海と桜と山並み、こんな風景も楽しめます。
ブルーシートを拡げて宴ができるような場所じゃないけど、反面、静かに楽しめます。

下草を刈ったり、追肥したり、
地元の方々が大切に守ってこられた桜並木です。



ヘアピンカーブを抜けると-

右奥に明神山が見えてきました。

  

写真中央が明神山、左奧が牛ノ峯です。



  

平岡地区に到着です。
集落入口には道路開通記念碑が立っています。
白い家の左へ入り-

道なりに進んで-



  

奧にある天神社の麓へ。
ここから歩いて山頂を目指しました。
特別、駐車場はないので、地元の方に断って駐めましょう。

天神社の正面参道の階段は-

な、な、なんと、階段じゃありません
坂になってます!
まるで、階段が坂に変わるコントのセットみたい。

左の坂を登ると-

  

くぃっと折り返すように神社の裏道があります。

天神社の境内です。

合掌。



天神社の左の道をそのまま奧へ。
みかん畑の横を通り-

畑の小道を民家の突き当たりまで行き-

  

右折し、また、道なりに。

簡易舗装された小道が導いてくれます。



  

開けて、でも雑草が元気な原っぱを横切り、森の中へ入ると-



石畳の先に、石塔が現れました。

いわくありげな石積みが取り囲んでいます。

墓石のようです。

尾根を登るとすぐに-



また平ら。

ここの石塔は倒れたり、散乱したり。
ちょっと荒れてます。

塔婆が立ってたり、墓地のようですけど、
奧には共同アンテナが立ってます。

尾根を伝って山頂を目指そうとしたら、
右の崖、高さ5m程下に石積みを見つけたので、
降りて確かめてみました。



四畳半くらいの場所を四角く、
石を積んで囲んでいました。
城址由来か、それとも、後世の祠の跡かな?

崖の奧には人工的に切り欠いたような岩が、
ゴロゴロと積まれていました。

尾根に戻って山頂を目指します。
細い尾根は岩がガラガラ露頭しています。



右の崖は高さを増して危ないので、
左の竹林の中を登ります。

ヤダケのような細い竹が覆い始めると間もなく-



平岡山山頂です!
山頂は広くなく、すぐに下りになります。

右側は結構な高さ。
足元注意です。

城址の図面です。



南に下ると、段々の平坦地がありました。
このまま天神社まで下れるかなと、試してみたけど、
木が混んで傾斜も急になってきたのであきらめました。

帰路は来た道を忠実に戻って下さい。
北へ下る尾根に入り込みやすいので注意して下さい。

ひとりごと

平岡地区はお気に入りのお花見場所スポットです。
ここ数年、春になると必ず訪れたくなる場所のひとつです。
なにせ、訪れる人のほとんどはマイカー利用だから、無粋な酔客がほとんどいないからいいんです。

そんな平岡も初夏ともなれば新緑一色。
急傾斜に拓かれた果樹園には袋掛けされたビワが数多く実っています。
平岡や唐川のビワは美味しくて、産直所で見かけるとついつい手を伸ばしたくなります。

県道225号中山伊予線は、平岡地区が中山町から分離し、伊予市と合併する条件としてできた農道です。
昭和47年に県道に昇格しました。

平岡に着いたのは夕方の5時。
日も傾いてきたので急いで登りました。
墓石までは道が整備してあり、山頂までもそんなに標高差がないので、すぐに山頂に立てました。
急いで登ったせいか、“しろぬし”と呼ばれてる祠を見つけることができませんでした。

ここには釜野城(または平岡城)と呼ばれる城がありました。
平岡左衛門大夫、坂田右衛門、菊沢道廉の三名が城主として記録に残っています。
やはりこの城も長宗我部の侵攻によって落城しました。
当初は崖や急傾斜に守られ、難攻不落な様相を呈していました。
けれど、とある僧侶の手引きによってその急斜面の手薄さが逆に攻略の糸口となってしまいました。
その僧侶は地元民で告げ口したという説と、長宗我部軍内の僧侶だったという二説があるようです。
城主共々、城を落ちるわけですけど、その時、逃げ隠れた場所が“千人がくれ”という地名に。
千人は多分、オーバーです。
“千人”という単位は、“千人塚”とか、意外とあちこちで使われています。
千は、それくらいいっぱい、という意味で使われることが多いです。
身を隠したのも束の間、赤ん坊の泣き声で見つかってしまいます。
そして、半数が討ち取られます。
泣いた赤ん坊はコモに巻かれ、谷底へ投げ込まれてしまいました。
その谷は“菰が谷”と呼ばれています。
別の説では、赤ん坊は侍が背負って逃げたとも。
けれど、松前のあたりで、やはり、コモに包んで川に流してしまったそうです。
どちらにしても、悲劇。
城主は谷上山方向へ逃走を謀るも、下唐川で病死したそうです。

旧山崎周辺には、まだまだ数多くの城址があります。
時間を見つけてひとつずつ、訪ねておきたいと思っています。

一日中、登り回ってたので、とうとう、夕暮れに。
平岡から見る夕陽もビューティホー!

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