伊予山崎のお山
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鹿島山へ
距離 約400m
標高差 約80m
国道・県道
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
見晴らしあり

国道56号線を中山方面へ向かい、伊予IC入口を過ぎると、
右前方にお山が見えてきます。
次に目指す鹿島山、城の台がある山塊です。
病院の看板で鹿島山山頂が隠れてしまいました (^_^;)

でっかいバナナのモニュメントが目印の、
仙波青果バナナ館の先にある-

  

向井原交差点を「長浜→」方面へ右折します。



  

国道378号線と合流、左折して150m。
豊永橋を渡ってすぐに右折します。



  

森川沿いに100mも走れば鹿島山の登山口がある法寿院です。
川側に墓参者用の駐車場があります。

墓地を抜けると-

本堂。
鹿島城の城主・左近衛中将藤原盛保を弔う、
白木づくりの位牌が安置されてるそうです。

鹿島山へは境内右奥の塀が壊れてるところからも行けるけど、
それはちょっと失礼なので、表の道まで戻り-

お隣の鈑金屋さんとの間の小道へ。
ここが正しい入口です。

突き当たりを右折し、右下に供養塔を見ながら、
竹林の脇を登ります。
ご覧の通り、道は明瞭です。



左にくぃっと折り返し、
緑のトンネルを抜けてゆきます。



  

竹林をZ字に折り返し登って-



  

果樹園の棚がある、尾根の鞍部に出ます。
山頂は右上方向、右折します。

右に曲がってすぐ、貯水槽が二つあります。
貯水槽の上側は道と段差があまりないので、
よそ見してたら踏み外して落っこちるかも。

頭を覆う丈のササ・ゾーンを抜け-

緑の土手が左に現れたら-



鹿島山山頂に到着しました!
春は桜咲き誇る山頂も、初夏ともなると緑一色です。

鹿島山城址の様子。
登山道でたどり着く場所は右上の“II”、
二の郭です。

山頂に三角点はありません。
あったのは道路公団の標石。

隣に果樹園があるためか、お花見用か、
蛇口がありましたけど、水は出ませんでした。

  

ここから見えた北向きのパノラマです。
霞んでますけど、海上に興居島の小富士、
海岸線には伊予、松前から垣生にかけての工場地帯、
街並みの奧に高縄山。
城砦があった頃もここから下界を睥睨してたんでしょうか。

東側の木陰から。

  

写真左奧のお山は障子山、
真ん中付近に平岡山、右に森山です。

桜の木の間を抜けた一段高いところが山頂、
一の郭です。



山頂の様子です。
冬枯れた時ならもっと景色が拡がるんでしょうけど、
新緑以降は木漏れ日の山頂です。
一番高いところに-

四角い石積みがありました。
城址ではなく後世に積まれたもののようです。

南側にも郭跡の平地があります。
立木に囲まれた石塔が見えます。
降りてみると-



それは城主・藤原盛保のお墓でした。

お邪魔してます、合掌。
「法寿院殿保養元盛大居士尊儀」
「當鹿島山之城主前周頭・左近衛中将藤原盛保墓」

二の郭に戻り、
西へ続く踏み跡をたどると-



ビワの畑をガードする柵がありました。
右のビワの奧に-

開けた空き地がありました。
“Ⅲ”の郭跡かな。

  

雑草生い茂るこの場所も北向きに開けていて、
道後平野を見通すことができました。

ひとりごと

ずっと以前から、この辺り、大平界隈のお山には興味がありました。
大洲や南予方面へ行く時、お山を見上げて、登れるのかなぁ?とか あのピークはジャングルみたい、この道はどこまで続いてるの?
みかん畑を登ったら行ける?、などなど、想像を膨らませていました。
と同時に、地図を見たり、古い資料に目を通して、名前の付いたお山がないか、名前が“付いてた"お山がないか、探したり。
三角点はたくさんあるんですが、地図に山名が載ってるピークはほとんどありません。
でも、城址があるお山はいくつかあることがわかりました。
城址なら、登山道がある可能性も高いので、今回は4ヶ所、ピックアップして訪ねてみました。

鹿島山は、山頂にビワの畑があったり、お花見山だったりするので、道がしっかりしてて楽に登れました。
夏になれば道の脇の草木が元気になってもっと迫ってくるとは思うけど。
虫除けの蚊取線香ぶら下げていけば、パノラマ見物中も安心。

鹿島城址は7アールほどの面積の中に3段ほどの郭、東、西、北の三方に防御用の空堀が築かれています。
河野氏系の支城だったとみられています。
山頂にお墓や麓の法寿院に位牌がある城主・左近衛中将藤原盛保ですけど、詳しいことはよく分かっていません。
そのほかの歴代の城主のことも明らかになっていません。
藤原盛保は、『御替地古今集』には左近衛中将藤原“助安"と記されています。
『大洲秘録』では、
“中村鹿島の城と云う城跡有り、東、西、北に横四間余り、深さ三間斗のから堀有り、南に天主と見えて高き所あり、
城主前左近衛中将佐安と云う、鹿島山法寿院に位牌あり、法名法寿院殿玄清居士と云う、寺は城山の麓に有り、
右鹿島城の麓の辰己(東南)に当りて矢の窪と云う所あり、此所に昔より矢の根多く有りと云う”
と記録されています。
法寿院の位牌には、
表 “法寿院殿前周頭左近衛中将 藤原盛安保養元盛大居士”
裏 “文化五年 戊辰天 五月中旬 現住法印 実由立之”
文化5年は1808年、江戸時代。
ちなみに、“左近衛中将"という役職は、禁門の警衛、天皇の侍衛を担当。
平安時代は藤原一族のみがなれるような職種だったようですけど、そんな偉い人が伊予で何してたんでしょう。

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