伊予山崎のお山
へ行こう!
お山について登山口・ルート登ってみよう!メールホームへ
森山へ
距離 約500m
標高差 約150m
国道・県道
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
  

国道56号線を大平方面へ再び向かい、
高速の高架をくぐり、麺関係のお店を通過する頃、
右側に次に目指す森山がはっきり見えてきます。

  

JRの高架をくぐって大平橋を渡り、
左にガソリンスタンド、右に児玉産業がある写真の場所に、
右折できる小道があります。



  

山裾の突き当たりが登り口です。
ふたつのカーブミラーの間に-

  

生活道みたいな小道があります。
20mくらい歩いたら、右に階段があります。

とことこと登ったら-



右に倉や石塔が並んでる所があります。
県指定文化財“石造層塔”がある場所です。

古そうな石塔です。
でも、これが文化財の石塔じゃありません。

この倉の中に納められてます。

愛媛県指定文化財 有形文化財(石造美術)

石造層塔

所有者 大平 玉井公明

高さ3.3m。
凝灰岩製五重の層塔で、造立当初は七重の層塔であったと思われる。
軸部四面には雄渾な筆文字で金胎両部の種子梵字・弥陀三尊・釈迦三尊はじめ計12の梵字が刻まれており、さらに軸部背面には連立年記銘が次のように刻まれている。

・・・・真為・・・・・
建治三年丁丑八・・・・・

願主の意趣等は石質が風化しているため読みとることができない。
建治3年(1277)の年記銘を有する地方色豊かな鎌倉時代の遺品である。
同じ年記銘は、廃寺多喜寺跡の五輪塔の残欠にも残っている。

昭和30年11月4日指定
伊予市教育委員会

かすれて読めません…。

倉の扉を開けてご対面。
“森山”って手書きされた提灯が横にいっぱい積んでありました。
いまでもお祭り(7月の第1日曜日)が行われてるんですね。

こんな梵字が刻まれているそうです。

石塔と反対の方に踏み跡があります。

たどると小さな公園がありました。
ボロっちいのでブランコも撤去されてる-

  

そんな公園に入ったすぐ右の斜面から取り付きます。
ここからはかすかな踏み跡があるだけです。

急な尾根をたどって登ります。

微妙に木が伐採されてます。
切り株を足がかり、手がかりに登りました。



汗と冷や汗をかいた頃、ネットが出現。
森山北麓にある伊予カントリークラブの防護ネットです。
傾斜も緩やかになり、ネットに沿って歩きます。

ゴルフ場の眺め。
ぱっと見、狭い山間だけど、ちゃんとハーフ回れるんですね。

時々、立木が伐採されたまんまになってたりします。

ふと、足下を見ると、もやし?みたいな、
にょろにょろ白いものがたくさん生えてました。
ギンリョウソウの群れでした。

あっちこっちにいっぱい。
気温が上がった午後だったので、
みんな、だら~となってましたけど、
何度見ても不思議な花です。



  

尾根から外れていくゴルフ場のネットとは早めにお別れして、
尾根をたどって行きます。



再びきつめの斜面。
落ち葉で滑ります。
とにかく真っ直ぐ登ります。



傾斜が落ち着いた頃、
セクシーにしなった木がありました。

山頂はもうすぐ。
木が混んでて終わりが見えないけど、
足元にはいつしか踏み跡が復活しています。

ツツジ咲いた木漏れ日の中を登り詰めていると-

踏み跡が枯れた巨木の脇へ消えて行きます。



  

(写真左の枯れた巨木の所から)森山山頂に到着しました!
祠がお出迎えしてくれた山頂は、
混んだ木に取り囲まれています。

お酒が祀ってある森山神社、合掌。

「森山神社」

城址は逆L字型をしています。
神社があるのは“II”の部分。
“V”まで行ってみます。

最高地点は南へ歩き出してすぐの所だけど、
特別凸ってるわけでもないので、シラっと通過。
たどってるうちにいつの間にか西に曲がっていて-



この辺りは平らというより、細い尾根状でした。
井戸跡のような凹地もあるようなんですけど、
城址通じゃないので気がつきませんでした。



“V”の部分に着きました。
この横長い平坦地も木立に包まれていました。
曽根集落の奧、林道の行き止まりにあるみかん畑から登って、
尾根伝いに来るとこの場所に出ます。

ひとりごと

森山に登る道が見つからず、1時間もうろうろ探してしまいました。
不審者に間違われちゃったかも (^_^;)
麓を行ったり来たり、林道を走ってみたり。
これだと思った山道やいまは使われてないモノラックをたどって行き止まってしまったり…。
曽根の山裾をホントにぐるぐる歩き回ってしまいました。
ちょうど帰宅してきた学生さんに訊いたけど、全然、知らない様子。
今時の子供は裏山に登って遊んだりしないのね(たまたま、そういう子に声をかけちゃったのかな)。
農家のおばさんに訊いても分からないって。
あーあ、もうダメかなぁ、と思った矢先、農家のおじいさん、発見っ!
丁寧に教えて頂けました。
登れないのも当然で、いまは道が無いからでした。
昔は山が手入れされてたから、(さっき挫折した)モノラック沿いの谷でも登っても行けたり、どこからでも登れたんだそうです。
尾根沿いが一番わかりやすくて、途中でゴルフ場のネットがあるとか、と教えてもらい、無事に登ることができました。
(下山後、ちゃんとお礼と無事の挨拶して帰りました。)

森山で一番の収穫(って、採ってないけど)は、ギンリョウソウ。
あっちにわっさー、こっちにわっさーって生えてて、驚きました。
以前、皿ヶ嶺連峰で見つけた時は、登山道沿いに2、3本、ちょろろって生えてただけだったから。
葉緑素を持たないから、白いガラス細工みたいな姿で、ユウレイバナとも云われます。
漢字で書くと“銀竜草”で、よく見れば、茎にウロコみたいな葉っぱ、花が竜(というか、タツノオトシゴ)の口みたいです。
花が咲いてる時期だけ地表に現れて、普段は地下茎で生きてるんだそうです。

おじいさんにルートを教えてもらってたので、ちょっとやそっとヤブっても平気。
城の台の時とはまるっきり違って強気でした。

森山山頂はいまでも城砦を築いた時のまま、平坦地が残っています。
何百年も残るものなんですね、不思議です。
城主は代々、森山伊賀守を襲名していたようです。
そうそう、森山城と天神山城、ふたつの名前があるんですけど。

手前に天神山城、トップが森山城という古い絵図もあったりします。
麓の五重石塔はお墓ではなく、供養塔のようです。
森山城はメジャーなお城だったようです。
掲載がある資料は、ざっと以下の通り。
『伊予古城砦記』『伊豫温故録』『河野家譜』『河野文書』『管見記』『吉川文書』『御替地古今集』
『小早川文書』『大洲旧記』『大洲秘録』『築山本河野家譜』『萩藩閥閲録』『予陽郡郷僅諺集』『豫章記』などなど。
城主の森山氏は、南北朝の時代から戦国時代の終わりまでの数百年の間、この地を守っていました。
出自など、詳しいことは分かっていません。
有力な部将であったことは間違いないようです。
細川氏が伊予を侵略した時、河野通堯とともに奮戦、退け、領地を安堵されたとか。
久万の大野氏と領地争いをしたり(後々、縁戚関係になった可能性あり)、河野氏の内紛に荷担して敗北したり。
数々の合戦に出陣、功績を挙げたり、討ち取られたりしています。
最後は、長宗我部氏の侵攻で滅亡したようです。
そのときの様が無様で、火を放たれて遂に落城したんですが、敵兵の足を滑らそうと敷き詰めた竹の皮に放火されたとか。
別の話では、元旦に雑煮餅を食べていたら、不意に長宗我部軍に攻められて陥落したとも。
それ以来、頭の悪い人は3年間、「元旦の日だけ雑煮餅を食べません」と言ったら、頭の悪いのが治る、なんて言い伝えられてるそう。

下唐川の馬場に伊予市指定文化財の五輪塔があります。
森山大膳の供養塔と云われていて、森山一族のひとりと見られています。
この森山大膳は剣豪だったらしい。
長崎谷の深い淵に棲んでいた大蛇を難なく大蛇を退治し、広く名を知らしめた、という昔話が残っています。

伊予市内でも大きい方の城址なので、登山道を整備して自由に散策できるようにしたらいいのに。
もったいないです。

ブログパーツ
     
inserted by FC2 system