伊予山崎のお山
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城の台へ
距離 約150m
標高差 約40m
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所

鹿島山の前の道を海に向かって西へ。

山裾をなぞるように進むと-



  

写真の三叉路は左の道へ曲がり、
次の分かれ道は登らない右の道へ。
カーブミラーのある右へ曲がると、
“しおさい公園”方面になります。



  

次に迷いそうなこの三叉路は左です。
左の建物は公民館、右は扶桑会館といいます。
左に曲がると急に坂道になります。
道なりに上って海側へ向かうと-



写真の左カーブを曲がれば-

  

城の台の登り口です。
右のガードレール越しに海が見える場所です。
近辺に駐車スペースはありません。
1m幅くらいの小径が登山道です。

右の家は真新しそうだけど無人っぽいです。

ノイチゴの季節でした。



  

小径の先は小さな祠がある広場です。
ちゃんとした道はここまで、ここから山頂までは道無き道状態です。
お堂と電信柱の間を入って行きます。

すぐにササのヤブが待ってます。

右に左に避けてもヤタケが混んでるので、真っ直ぐかき分けていった方が早いです。
そんなに深いヤブではありません。



  

ササ、ヤタケが終わるとちょっと小休止。
今度の邪魔者は-

  

群れて生えて木みたいになってるカヤ。
左下の間隙を、地面に手をついて抜けました。

山頂が近づくと、
このような段差地形が右側に現れました。



高くなると森の主役が木が変わり、
ヤブも落ち着いてきます。
目印や踏み跡は無いに等しいので、
とにかくまっすぐ登って下さい。



石積みが現れたら、城の台山頂です!
この石積みは古いもののようでもあるし、
果樹園として開墾された時に積まれたもののようでもあり。

城址の図面です。
図面の上(北)の方から登ってきました。

山頂の様子です。
城砦跡らしい平かなさですけど、なにも残されていません。
木が混みに混んで、すぐそばにある海も見下ろせませんでした。

登山口の道路まで帰ってきました。
いらかの波の向こうは森の大谷海岸です。
ヤブで疲れたので、リフレッシュしに行って見ました。

とりあえず、公民館のある三叉路まで下り、海岸端へ。



防波堤に沿って南へ。
さっき登った城の台が左から見下ろしています。
改めて見ると小さなお山だから、
道がちゃんと拓けてたら3分くらいで登れちゃうのになぁ。



愛媛県指定文化財 有形文化財(天然記念物)

扶桑木

森の大谷海岸にあって1800メートルにわたって第三紀層(6500万年前~165万年前)に属する粘土質岩が露出している。
この地層から埋れ木がみられ、これを古来から扶桑木と呼んでいる。
この扶桑木は、一般的に珪化木と呼ばれ、メタセコイヤ、トガサワラ、オオバラモミ等の古代植物が長期間地中にあって炭化・珪化したもので、第三紀層研究の貴重な資料となっている。
以前には、波打ちぎわなどに横たわっているものがみられたが、現在は埋もれて、見えにくくなっている。

昭和31年11月3日 指定
伊予市教育委員会

行き止まりにある海の家みたいな所から海岸へ出ました。
五色浜同様、この浜も小石でできています。

ハマヒルガオの小さなオアシス。



この大谷海岸は“扶桑木”=木の化石、
通称“埋もれ木”が見られるので有名です。
こんな風に切り立った崖が延々とあって、
埋もれ木が露頭している…はずなんですけど、
見つけられませんでした。

  

弓なりに西へ延びる双海の海岸線です。
写真左から、牛ノ峯の西稜、本尊山、
その後ろに黒山、壺上山、滝山、足山。

北へ目を転じると、興居島の小富士が、
文字通り、富士山みたいに海に浮かんでいました。

ひとりごと

城の台はぷちジャングル状態でした。
入口こそ歩きやすくて、楽勝かな、と、思わせて、お堂から先がけもの道。
まるでウサギかタヌキになったような山歩きになりました。
ササやカヤをかき分けてる時は、なにか出てきそうでも不安だし、間違った道を進んでそうな気がして不安にもなります。
でも、終わって振り返ってみると、そんな時間はたいしてかかってないんですよね。
ほんの数分、ほんの数十メートル。
不安な気持ちが神経を高揚させて、数mが数十mに感じてしまい、1分が5分にも10分にも感じてしまう。
登りで苦労して拓いた道も、下りは意外になほどにあっけなく通過してしまったりする。
でも、ヤブや茂ってる所はあんまり通りたくないものです。
なのに、また、やってしまいました…、
落とし物。
ウエストポーチの小物入れポケットがいつのまにか開いてて、気づいた時には空っぽ! (>_<)
目薬、方位磁石、ホイッスル、毒を吸い出すポイズンリムーバー、いつも使わないけど、いるときはいる小物たち。
祠まで帰ってきた時に気がついたので、つまり、山の上に落として来たってことで、泣く泣く、探しに戻りました。
ヤブのまっただ中だったら、小物なんか、見つかりっこないと半ばあきらめて。
ササをかき分け、カヤの茂みをはってくぐって登り返し、下草が低くなった辺りで青いパックに入れてた目薬を発見。
続いて点点と落ちてた小物を全部、無事に回収できました。
青い袋や赤い紐、白い外観など、目立つ色だったのが幸いしました。
落とした時のことを考えると、色って大事なんですね。
また茂みを抜けて帰ったんですけど、さすがに4度も同じ場所を歩くとヤブでさえ我が庭のように慣れてる自分がいました。
さっきまでびびってた自分が可笑しくなってしまいました。

追記:このヤブのことは、数年経ってもトラウマのように覚えています。
歩けないほど混んだヤブ…、背が高くて周りが見えないヤブ…。
ヤブにもいろいろあるけど、ここのは、ホコリが凄いタイプのヤブ。
同じタイプの「ヤブ」は、砥部の大友山、新居浜の黒島もそうでした。
コナダニとか混じってそうな、吸い込んだらマズい系、服に着いたら痒くなりそうな系でした。

さて、城の台のこと。
地元の方は“しのんだ”と愛称されてるそうです。
ちなみに、“城山”は“しろやま”って訓読みしたくなりますが、地名的には“じょうやま”と呼ぶほうが多かったりします。
小さな城砦ですけど、いろんな書物に登場しています。
『大洲秘録』では、
 “森の城 久万権兵衛居城”
『大洲旧記』では、
 “森が城、熊権兵衛、伊予郡山崎庄とあり、天正の初めのよし”
『大除記』では、
 “同郡森之城 熊権兵衛”
『伊予古城砦記』では、
 “北山崎村森に在り、熊権兵衛の城地なり”。
『予陽大野軍談』では、
“伊与郡森城々主熊権兵衛、河野二郎親孝四男壱岐守康孝久万弥太郎庸綱・小太郎庸綱・小太郎安伸・又太郎安行・権頭六郎安清、左ヱ門大夫成清”
『伊予温故録』では、
 “森の城 森村に在り 天正の頃熊権兵衛これに居ると云う”
城主は、熊○○の、熊権兵衛、弥太郎康綱、小太郎安仲、又太郎安行、権頭六郎安清、左ヱ門大夫成清、
そのほか、熊○○じゃない人、河野壱岐守康孝。
城主の熊さんは“久万”に通じて、当時、久万を治めていた大野氏系列ではないかとも云われています。
秀吉の四国侵攻で愛媛の豪族が全部ひっくり返されるまで、大野氏は大洲の方まで掌握していたそうです。
道後平野までにらみをきかそうとした出城のひとつだったのかも知れません。
この場所からは海も見渡せます。
九州方面から出張ってくる輩を監視する目的もあったでしょう。
でも、畑として開墾されてしまったり、戦時中は軍事目的にも利用された形跡があるので、原型を留めてはいません。

続いて訪れた大谷海岸。
目的は埋もれ木探しでした。
もう20年も前になるかなぁ、埋もれ木探しに初めて来た時は、抱えきれないほど大きな木の化石がごろごろしてました。
枕くらいのお手頃サイズもいっぱい拾えました。
今回も当然あるだろうと浜辺を延々歩いたんだけど、まるっきり、ひとっつも、無い!
崖の下をあさって、ようやく見つけた石は、海で洗ってみたら、木目みたいに見えるただの岩でした。
遠足とか、体験学習なんかで来た人がみんな、拾って、持ち去っちゃったのかなぁ。
…と思っていたら、実はそうじゃなくて、度度崩れる崖の土砂で埋もれちゃったんだそうです。
伝説では、木が倒れた時、大分まで歩いて帰れたってくらい巨木だったそう。
木の化石がいま再び、土に埋もれて、地底に還ってゆく…。
今度、また、地表に顔を見せるのは一体、何年後?
もしかしたら、何万年後、だったりするのかな?

大谷海岸は上灘まで続いてます。
潮が引いた時なら上灘まで歩いて行けるのかなぁ?
地図で見かける度、歩き通してみたいなぁって、いつも思うんですよね。
初めて埋もれ木を見つけた日からずっと、夢想してます。

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