山頂いっぱいに木のデッキが拡がる展望台と東側には東屋があります。
東屋の横には淡路ヶ峠の解説と、
「淡路ヶ峠 海抜二百七拾参米」と刻まれた石柱が立っています。

2013年再訪時、東屋の裏の様子です。
砂防ダム奥ルートが開通、東屋裏まで繋がったことから、
雑木林もすっかり整理され、奥道後方面の山並みを望めるようになりました。

淡路ヶ峠

標高275mの淡路ヶ峠は、東方に金毘羅街道・四国の霊峰「石鎚山」、南に土佐街道・久万山、南西には、大洲街道・伊予地区、西方はるか瀬戸内海の島々、北方には高縄連山を展望する位置にあり、また眼下には松山城を中心に、県都松山が展望できるすばらしい景観の山頂である。
400年程前の天正年間(1573~1587年)道後湯築城の砦で「淡路城」と呼び、城主は河野道直の家臣林淡路守通起(明治の元勲、伊藤博文11代目の子孫)であった。
「淡路ヶ峠」の山麓に展展開する桑原地区は、古来豊かな歴史と数々の文化財に恵まれている。

古墳時代の県指定史跡「経石山古墳」。
中世伊予の豪族河野氏の重臣の一人出雲房宗賢が居住し地名を姓として桑原城を築き、その子孫の桑原通興が主家の命により東予の鷺森城に移った後、松末氏が統治し今から四百余年前、9ヶ年の歳月をかけて湯山から三町まで約4kmの市乃井出水路を建設した井出若狭守の遺跡。
松山藩主 松平定行公が隠居所として万治2年(1659年)3ヶ年かけて、御殿・庭園・茶室・観音堂を東野から畑寺に及ぶ広大な台地に構築した県指定史跡「東野お茶屋跡」。
後世ここを訪れた正岡子規や高浜虚子の句碑など多くの歴史的文化遺産に恵まれ、また明治後期より村丸寿平翁(元桑原村長)など先駆者により山麓一帯に早くから果樹園が行なれている。
第二次世界大戦後は、県下各地から来住する方も多く、松山市のベッドタウンとなり、現在豊かな歴史文化の栄える文教地区として発展している。

平成10年2月 淡路ヶ峠ハイキングコース整備工事完成に当たりて記す。


2013年時、こちらにも赤青看板。

東屋から見たデッキ。
展望台の前の木がまだ低いので、
西向きに180度の大眺望が楽しめます。
なのに、いつ来ても誰もいなくて、
クロアゲハのカップルがいちゃいちゃ翔んでるくらい。
おかげでパノラマを独り占めです。

靴底が当たるとトコトコ音がする木のデッキに上がると-

  

文句なしの大パノラマ、松山平野を一望できます。
パノラマ・スポットはいろいろありますが、
ここ、淡路ヶ峠が一番だと思います。
噂によると、夜景も綺麗だそうです。
真っ暗な山道を歩く勇気がないので、僕は見たことないけど。
デッキチェアでも持ってきてゆっくり眺めていたいパノラマです。

山頂はいつも風が吹いています。
帽子など飛ばされないように。

  

南の方、砥部・伊予市方面の山並みをアップで。
(写真左から)引地山から三坂峠を挟んで黒森山、上尾峠の凹みの左に北ヶ森、
右に水梨山、コクゾ峰、頭ひとつ高い障子山、
その前に伊予市の前山連山の白滝山、ひばりが峰。
行道山、谷上山、牛ノ峯、明神山、
双海の海岸線にそびえる壺神山、滝山などなど、
空気が澄んでたら長浜まで弓なりの海岸線もばっちり。

  

北西方面、城北寄りをアップで。
(写真左から)松山城、沖に興居島の小富士、太山寺山塊の岩子山、経ヶ森、
奥には中島、手前に御幸寺山、姫原丘陵。
写真右寄りの小さな森は道後公園の湯築山。
茶色いマンションがやたら目立ちます。

  

上の写真より北寄り、伊台方面を中心に。
道後温泉のホテル・旅館街から右へ、道後山、国見山、高塔山、勝岡山、手前に石手寺の愛宕山、巨大お大師さん像がいらっしゃる常光寺山。
写真左奥にそびえるのは高縄山、大月山。
写真中央から左に延びる緑の筋は石手川。
眼下は東野、石手、溝辺町、この辺りもすっかり宅地開発されて田畑はあまり見えません。

  

星岡山、天山、土亀山、東山。

  

垣生山、弁天山、大峰ヶ台、岩子山。
沖の小島は由利島、その右方の島影は山口県の屋代島。

  

松山城の周りはビルだらけ。

  

山頂に電波塔が立つ伊台の高塔山、奥は国見山。

  

中央の一番高く見えるピークが大月山。
高縄山は奥にあるので、大月山より低く見えてます。

繁多寺横の着水地を見下ろして。

畑寺交差点辺り。

  

展望台から少し南へ下った場所から見える石墨山。
計算上では石鎚山も見えるはずですが、
雑木が邪魔で困難です

  

三坂峠の奥に見えた大川嶺と笠取山。

  

上尾峠の左が向山、右が水梨山、その手前に千里城山。
手前のふたコブ山が大友山。
奥のかすんだ山並みは、小田・河辺の峠・笹峠辺り。

夕暮れ時に訪れるとこんな感じに。

黄昏色の砥部・伊予市境の山並み。

沈みかけた陽の光で海が黄金色に輝きます。

展望台西側の雑木林も整理されてました(2013年)。

2013年に再訪したときは少しモヤがかかってしまい、
海の方角が真白くなってました。
東野、畑寺辺りの田畑は以前に比べ、
宅地化が進み、緑が少なくなった気がします。

ひとりごと

淡路ヶ峠は何度登っても気持ちのいいお山です。
僕がこの「淡路ヶ峠へ行こう!」を初めて公開した頃は、インターネットで淡路ヶ峠と検索してもヒットするのは2、3つほどしか有りませんでした。
それがいまではブログを中心に数え切れないほど。
麓の桑原の皆さんが桜を植樹されたり、毎朝夕のお散歩健康登山コースになっていたり、案内板や道標の設置も進み、地元に愛されたお山となりました。
山頂には畑寺からの登山道を松山市が整備したに設置した立派な展望デッキがあります。
とっても気持ちがいい展望台ですが、麓から存在が見えないこともあって、展望台自体があることすら知らない市民も多いでしょうね。
ネット上に情報は増えましたが、淡路ヶ峠という名前もまだまだ、山頂まで登れることすら知らない人もずいぶん多いです。
松山市街の東の端にあって毎日、目に入っているはずなのに気にならないのも不思議なものです。

さて、淡路ヶ峠という名前でいまは通っていますが、明治時代の地図では「淡路山」という表記も見られます。
共通しているのは“淡路”の部分です。
これは、天正年間に山頂に設けられた「淡路城」もしくは「淡路ヶ峠城」、そして城主・林淡路守通起に由来します。
伊予を支配していた河野氏(当主は河野道直)が道後湯築城を防衛する一拠点として築城したものです。
当時の城は松山城にある天守閣などはなくて、小屋の周りを木の柵で囲った“砦”といった風情でした。
秀吉による四国侵攻で河野氏が滅亡、河野道直以下50余名が広島安芸の竹原に落ちのびますが、その中に林淡路守もいました。
それから約300年経った幕末に、林淡路守から数えて11代目の子孫として生を受けたのが伊藤博文です。
博文の幼名は林利助といいます。
林→伊藤のいきさつは、周防束荷村(山口県大和町)の貧しい農民だった父の林十蔵が39歳で妻子をつれ、長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、その武兵衛が安政元年(1854)に周防国佐波郡相畑の足軽・伊藤弥右衛門の養子となったため、伊藤姓を名乗るようになったのです。
伊藤になったと同時に、下級武士となり、吉田松陰の松下村塾に通ってその後の倒幕運動に加わって行くこととなります。
山頂の解説看板にもありますが、伊藤博文は明治42年(1909)春、道後温泉に来遊した際、淡路ヶ峠を仰ぎ見て、
「私の血の中には伊予人の血が脈打っている」「来年、再訪し、先祖の供養をしたい」と語ったと云われています。
3月14日、広島から軍艦淀号で三津浜に上陸した博文は、道後のふなや旅館に宿泊し、道後温泉を楽しみながら、松山近郊を訪ねたり、公共施設を見て回ったりして過ごしたようです。
16日には、道後公園にて市主催の“一市二郡官民有志合同伊藤統監歓迎会”が開かれました。
600人を越す出席者を前に演説した内容が、同年3月18日号の海南新聞に載っています。

予の祖先は当国より出でたる者にて、伊豫には予と同じく河野氏の末流多しと存ずるが、予の祖先は300年以前に於て敗戦の結果、河野一族の滅亡と共に中国へ移りたる者で通起と称し慶長16年5月26日に死歿したるが故に、明年にて恰も300年に相当す。
彼は「林淡路守通起」と称し、予は其れより第11代目に当れり。
通起は敗戦の後、毛利氏に頼りたるも、毛利氏もまた敗軍に属し、頗る艱難を極めたる時なるが故に、遂に村落に埋歿落魄して、真に僻遠なる寒村に居住し、其子孫此処に存続して、今や一族60余軒を算するに至れり。
予も即ち其一人にして、明年を以て齢70に達するが故に、恰も周防に移りたる通起の死後230年に出生したるものなり。
予が父母に擁せられて萩の城下に出でたるは僅に8歳の時にして、爾来幾多の変遷を経て、今日に及べり。
近来家系の事について当国の諸君が頗る調査に尽力せられたる結果、周防移住以前の事蹟、大に明確となりたれば、明年は周防において親族を集め、通起の為に300回忌を営む心算なり。
今次当地に於ては、諸君が頗る厚意を以て来遊を歓迎せられたるは、右の縁故に基くものとして、予は殊更に諸君に対して感謝の意を表する次第なり。
顧ふに古来成敗の跡に就て考ふれば、予が祖先は当国より出でたるものなれば、当国は即ち祖先の故郷なり。
今や祖先の故郷に来りて斯くの如く熱誠なる諸君の歓迎を受く。
胸中萬感を惹かざるを得ず。
加之、本日は諸君が我過失を論ぜずして、唯々微功を録せられたるに至ては、深く諸君の厚意を心に銘して忘却せず。

21日、大三島の大山祇神社を参拝、28日、松山を離れました。
その後、6月に朝鮮総督府統監を辞任し、枢勅院議長に復帰します。
10月、日露戦争で敗者となったロシア側と満州・朝鮮問題について非公式に会談する目的でロシア蔵相・ウラジミール・ココツェフと、表向きは外遊と称して訪れた満州のハルビン駅で会います。
その直後でした。
駅のホームで銃弾を受け、暗殺されてしまいました。

ちなみに、水呑百姓から総理大臣まで出世した伊藤博文は、関白まで成り上がった豊臣秀吉にならい“今太閤”などと陰口をたたかれたり、本当は捨て子だったとか、財力を使って家系を改ざんしたという悪口を叩く人もありました。
僕は、林淡路の子孫だという伊藤の言葉は本当だったと信じています。
明治維新に活躍した侍たちも維新後、士族という名の無職となり、大変困窮した者が続出しました。
維新を生き残り、新政府で成り上がった(と云われた)者たちは、恨み、妬みの対象になり、悪く云われることも多かったのです。

伊藤博文が暗殺されていなければ、博文との由来を刻んだ石碑なども建てられて淡路ヶ峠も注目度がアップしてたかも。
もしかしたら淡路ヶ峠の名が地図に載っていたかも知れません。

しばらく忘れ去られていたかのような淡路ヶ峠が平成の世になって登山道が整備され、展望台もできて、人気のお山になりつつあります。
淡路ヶ峠の魅力はなんと云ってもこの山頂からの眺めです。
これほど見事に松山市街を一望のパノラマが得られる場所は淡路ヶ峠のほかにいくつあるでしょうか。
夜景も見事だそうですが、登山道に灯りは皆無なので見に行く勇気はちょっと…(^_^;)
キレイな夕焼けでも僕は充分です。
春は新緑に希望を抱き、夏は心地好い風に吹かれて下界の猛暑を忘れ、秋は登山道沿いの紅葉を楽しみ、冬はやっぱり寒いけど、空気が澄んだ眺めは寒風に耐えるに足るものがあります。
おかげでいつも僕は山頂に立つ度、時を忘れて1時間は優に過ごしてしまいます。

麓の変電所から東へ延びる送電線を追いかける巡視路が淡路ヶ峠の裏の宝ノ谷から宝ヶ峯や芝ヶ峠、倉谷山、観音山の峰峰へと続いています。
巡視路をたどる探検の旅に出るのも面白いですよ。
帰りはどうするんだ?って云われそうですけど。

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