道後のお山
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湯築山・道後公園
距離 約300m
標高差 約30m

道後公園西口からスタート。
市電「道後公園」駅を降りた正面に、
「道後公園 国指定 湯築城跡」の大きな看板があります。

公園を取り囲む外堀。
浮き草の間から顔を覗かせる亀や群れる小魚がいつも見られます。

公園に入ってすぐ右は“いこいの広場”という名の庭園。

お花見頃は露店がずらっと並びます。



入口からまっすぐ山に向かって進み-

内堀を渡ります。

お堀では鳥がなにか狙っていました。

湯築城址の由来

この地は元伊佐庭岡と呼び、今から千三百余年の昔、聖徳太子が鶴駕を駐め、道後温泉碑を建てられた所である。
後建武年間に至り、河野氏はその居を高縄山麓の河野郷からここに移し、城を構へて湯築城と称した。
蓋し伊佐庭岡は湯築岡とも呼ばれたからであろう。
爾来同氏の本拠となっていたが、大正13年、豊臣氏の征討により滅土の悲運を見た。
それから多少の沿革を経て慶長七年、加藤嘉明が松山城を築くに当り、城址の礎石を勝山に搬び去って後は全く廃墟となり、藩政時代には修竹欝々たる烏鷺の棲みかと変りはて、世にお竹薮と称せられた。
然るに、明治21年、愛媛県はこれを公園とし、大に景観を整へ、花卉を植えて四民聚楽の所とした。
かくて昭和28年に至って県立動物園が設けられた。
思うに河野氏累世五十余代、その中には水軍の将として外冠を斥攘した武将河野通有や、念仏絶対主義の時宗を創めて衆生済度の実を挙げた聖僧一遍上人の如き偉人を輩出した。
共に我が郷土の栄誉と称すべきことである。

昭和34年12月 建立寄贈者一遍もなか本舗
一遍堂主 新田兼市

道なりに登ると曲がり角に東屋(休憩所)があって-

そこから広場を見ると-

いこいの広場の日本庭園風な姿を見られます。



ジグザグに登ると丘陵広場。
ここも花見の頃は-

桜がきれいです。
花見客でごった返す麓より人が少なくて-

野良猫も警戒弱めです。

道後公園

道後公園は全体で約8.6ヘクタールあり、外堀を含め南北約350m、東西的300mで、中央部は海抜的70m(比高約30m)の丘陵部となっています。
外周は外堀で囲まれ、丘陵を取り巻くように内堀があります。
明治19年に設置された道後動物園を前身とし、明治21年に県立道後公園となりました。
昭和62年の道後動物園移転に伴い、昭和63年から発掘調査を実施したところ、湯築城跡の遺構や遺物か数多く出土しました。
12年間におよぷ発掘調査によって、遺構として、道路、礎石建物、土塀などが検出され、遺物として、土師質土器、輸入陶磁器などの土器類や武具、建築用具の金属製品など
約25万点が出土しています。
湯築城跡の遺構は、全国的にみても.中世守護の城館としてまれに見る良好な状態で残っており、極めて貴重な遺跡であることが明かになりました。
この遺跡を保存・活用するため、復元区域では、武家屋敷や土塁などの復元、出土遺物・遺構の公開を行っており.散策・休憩しながら楽しく歴史を学べる場としております。   

湯築城跡

湯築城は、二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」の形態をなす中世伊予国(現在の愛建県)の守護河野氏の居城として、約250年間存続しました。
南北朝時代の初め頃(14世紀前半)、河野通盛によって築かれたといわれています。
通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信、13世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有がいます。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北条市)からこの道後の地に移りました。
築城に関する文献は残っていませんが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、忽那家文書の記述などから.遅くとも建武年間(1334年~1338年)には築城されたと推定されています。
河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、守護職とともに湯築城を奪い返しました。
しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめくる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。
天正13年(1585年)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、河野通直は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。

頂上はもう一段上にあります。

ジグザグ-

石段を登れば-



湯築山山頂に到着!
昭和っぽい展望台がお出迎え。

山頂にも桜。

展望台に上がってみます。

丸型の展望版がある展望台の上からは、
標高70mとは思えないくらい、
周りのビルに負けないくらいの景色が見られます。

  

北側、道後温泉街方面の山並みです。
写真左奥が松山城、
遠くに興居島の小富士を挟んで御幸寺山があり、
写真右に向かって道後の山並みが連なります。

  

南側には、皿ヶ嶺から三坂峠を間に黒森山があり、
大友山、水梨山と砥部の山並みに続いて、
障子山や秦皇山など、
伊予市の山並みへと移って行きます。



山頂に続いて麓を散策。
西口から入って右へ曲がったすぐに、
湯築城資料館と管理事務所。
資料館では靴を脱いでゆっくりと、
パネル展示などを見ることができます。

土塀が復元されています。

  

土塀

 土塀は川原石を使って0.7m幅(最大は1.0m幅)の二列の石列を作り、間に小さな石をつめて2~3段の高さの基礎を立ち上げます。
その上に粘土のブロックを積み重ねて、表面に壁土を塗り仕上げます。
調査では基礎石部分だけが検出されました。
各屋敷は14~15m間隔で土塀によって区画されており、道路側で土塀の切れている所を入り口としていました。


復元された武家屋敷その1を内側から。

  

武家屋敷1

 この屋敷は発掘された礎石の配置からみた間取りや当時の資料をもとに復元されました。
 礎石の間隔を測ったところ、柱間は全て均一で1.97メートル(6尺5寸)を基本とする礎石建物であることがわかりました。


内部には人形が当時の様子を再現中。

  

ある日の武家屋敷

 16世紀中頃、家臣が住んでいた武家屋敷のある日のようすを再現しました。
 主室では、武士や僧侶が集まり「連歌」を楽しみながら、教養をやしなうとともに仲間意識を強めています。
 連歌は、複数の人が一座に会して、和歌の上句にあたる5・7・5と下句の7・7を交互に詠み続け、百韻(100句)を完成させる形式が一般的です。
 ここでは、中央の上座に宗匠を指導者として招き、式目と呼ばれる約束事を教わりながら連歌の稽古をしており、手前右手の武士が採用された句を書きとめる執筆の役目を果たしています。
 挙句(最後の一句)が近くなり、みんな創作に苦心していますが、板間の台所では、使用人が連歌を終えた客人に茶を点てる準備をしています。


外には丸い穴が…。

  

円形石積遺構

 この遺構は、まず円形や楕円形の穴を掘り、河原でとれる拳から人の頭位の大きさの石を集めてきて、この穴の壁に積み上げて造ります。
 「井戸」や「便所」として使われたのではないかと想像しましたが、この穴の底は水の涌く層に達していないので井戸として使えません。
便所であれば寄生虫などの卵が必ず発見されるのですが、土を分析しても見つけることができませんでした。
 今のところ何の目的で造られたものかわかりません。
皆さんは何に使われたと想像しますか。



続いてもう一棟復元されてる武家屋敷2へ。

  

内堀・内堀土塁

 この城には堀が二重に巡らされています。
そのうち内側の堀を「内堀」といいます。敵が中央の丘陵に簡単に攻められないようにするために掘られたものです。
さらに守りを固めるため、堀を掘った時の土を掻き上げて土手を造っています。
これを「内堀土塁」と呼びます。
 内堀の規模は、幅11~12m、深さ3m、内堀土塁は基底幅7m、復元高2m程度です。

 内堀土塁が造られるより前の層(おおよそ14世紀)に躍り込まれた土坑(穴)が見つかりました。
土坑の中には石が4個と、大量の炭や焼けた土がつまっていました。
さらにその土に混じって人骨の小破片がたくさん見つかりました。
このことからここでは火葬が行われていたと考えられます。
4個の石は棺桶を置くための台であったのでしょう。


武家屋敷2へ。

  

武家屋敷2

 この屋敷は発掘された礎石の配置からみた間取りや、当時の資料をもとに復元されました。
 5個の礎石と2箇所の礎石抜き取り痕が発見され、これは建物の棟通りと考えられます。
 また西側の南北に並ぶ礎石は、他の礎石よりも小さいことから、この建物の西側には庇などがあったと考えられます。


中にはパネルや遺物などが展示されています。

木組みを積み木パズル見たく楽しめます。



土塁に沿う溝はただの溝じゃありません。
これも再現されたものです。

  

道路・排水溝

 外堀土塁の内側には道路と排水溝が巡っています。
道路の幅はおよそ3mです。
道路に接して流れている排水溝は、大小さまざまな大きさの川原石を積み上げて作られています
 城内には排水溝が折れ曲がり道路幅の狭くなっている所が数箇所ありますが、この場所は道路も排水溝も直線的に伸びており、これらの基本構造を最もよく表しています。


東半分は芝生が拡がり、
浅い池も復元された上級武士居住区。
東屋の下では遠足の園児らがお弁当タイム中でした。

  

庭園の池

 ここでは池が発見されました。3m四方に小石を敷き詰めた深さ0.3mの浅い池と、大きな石を周囲に配置した最長8m、最深部0.8mの池が一体化した形です。
 道路に沿って流れている排水溝から、細い溝をつないで池に水を取り込んでいます。
 池の周囲には建物の一部と思われる礎石があることから、池をのぞむ建物などがあり、庭園が造られていたと考えられます。


  

最大土坑

 この場所には、長さ6.8m、幅3.4m、深さ0.8mの、発見した中では最大の土坑があります。
 中からは土師質土器の皿が大量に出土しており、また、破損した陶磁器や魚骨、貝類などもみられ、ここがゴミ穴として利用されていたことがわかります。
 当時、土師質土器の皿は、儀式や宴会で使用された後に捨てられます。
近くにある庭園をのぞみながら宴会などを楽しんでいたのでしょうか。


昭和の頃、この場所は県立道後動物園として、
多くの動物が飼育されてていました。
芝生の緑と空の青さがまぶしい広場となった今、
動物園があったなんて遠い昔話のようです。

写真右、土塁に穴が開いています。
行ってみると-



土塁をくりぬいて内部が見られる、
土塁展示室があります。

  

外堀土塁

 外堀土塁は外堀を掘った時に出る土を盛り上げて造られており「掻揚げ土塁」と呼ばれています。
堀と一体となって城の領域を形づくり敵の侵入を防ぐことや、城内がどのようになっているのかを外から見られないようにする目的があります。
この付近の土塁が最も残りが良いので、断ち割って造り方をみることにしました。
 機械のない時代に多くの人々の手によって造られたこの大規模な土塁は、湯築城跡の中でも最も代表的な遺構です。


右側の壁は、
特殊な接着剤で固められた断面が展示されています。

  

湯築城の外堀土塁

外堀土塁の築造

 外堀土塁は、外堀を掘った土を盛り上げて造られた土の壁(土手)で、かつては城全体を取り囲むように築かれていました。
この外堀土塁の機能は、外堀と一体となって城内への外敵の進入を防ぐことや、外部から城内が見えないように遮るためのもので、湯築城における最も重要な防御施設のひとつでした。
 湯築城の外堀土塁は、断面が台形状をなし、規模は基底幅が約20メートル、高さが約5メートルと推察されます。
この外堀土塁の総延長は約900メートル程度あり、この土塁の築造には約300人で掘っても6ヶ月位かかる量の土が使われていたと推定されます。


外堀土塁に沿って歩きます。

  

道路・排水溝・外堀土塁裾石

 城内の南東角に当たる箇所です。
外堀土塁に沿って造られている道路や排水溝は、この場所で折れ曲がり、水はここから西に流れて行きます。
 また、道路に面して外堀土塁の裾に巡らされ
ている裾石は、ここが最も高く良好に残っています。



休憩にぴったりな東屋。
その手前の穴は昔のゴミ捨ての穴だそうです。

  

土坑(ゴミ捨て穴)

 土坑の大きさは、長さ約2.5m、幅2.0m、深さ0.5mです。
この土坑は内堀土塁裾に作られた排水溝を壊して掘られています。
 出土遺物は、土師質土器の皿や杯が最も多く、なかでも京都の土器を真似たものが、他の土器溜りに比べて多いことが特徴です。
これ以外に釜や擂鉢、備前焼や中国陶磁器、瓦質土器がみられます。
また周辺では西日本で出土例が少ない丹波焼きの擂鉢もありました。
最大土坑と同じく儀式や宴会で使用されたものが棄てられらたと考えられ、前方にみられる天然の岩肌のすばらしい景色を眺めながら宴会が行なわれたのでしょう。


振り返って。

内堀は防御というより、観賞用の池のようになっています。

桜がきれいな土手の左は-

遮蔽土塁というものだそうです。

  

遮蔽土塁

 この土塁のある場所は、外堀と内堀の間が最も狭い所です。
この土塁の重要な役割は、大手からの視線をさえぎることと、上級武士居住区への容易な侵入を防止することにあります。
もちろんこの土塁と外掘土塁の間には門が必要です。

排水溝(実物展示)
 眼の前の溝は当時の実物です。
大手からの溝は2段階まで使用された後、埋められていました。
石の間に見られる赤い線から上の部分は、石が抜け落ちていたので、新しく石を入れ復元しています。
 内堀に流れ込む溝は4段階のもので遮蔽土塁の南面を区画しています。
溝が交わっている箇所で、作られた年代の新旧を判断することができます。



土塁が迫って狭い所を抜けるとグランドがあります。
昔、ここは交通公園と呼ばれていました。
グランドをぐるっと取り囲む道は舗装されてて、
ゴーカートに乗って遊ぶことができました。
城跡公園になってからは、
グランドと一体化した土の道に戻されました。
グランドの山沿いには-

岩崎神社があります。

こんなささやかなお社。

岩崎神社

[民話]

 この神杜は、蛇を祭っていると言ういわれがあります。
昔、お爺さんがたけのこを掘ろうとしていると、おかしな事に急に眠くなり、そばの木の根元に座ってこタバコを一ふくしながら一休み、吸い殻をポンと、木の根っこに落としました。
すると木の根っこがぐらっと揺れて遠くの方から(アッチッチ)と言う声が聞こえたような気がしました。
よく見るとし木の根っこと思っていたのは実は大蛇だったのです。
あまりの怖さに気を失い大蛇に食べられました。
この蛇は、大変大きく長さはこの神社より義安寺にとどくくらいだったそうです。
その後大蛇は、暴れ回り何人もの村人を飲み込んだり、村中を荒らし回ったので困り果てた村人はどうしたら良いか相談し、神社を作り蛇を祭る事にしました。
それからは暴れる事もなく村も平和になったそうです。
今でもこの蛇を(ミイさんミイさん)と呼んで大事にし、この神社をおまいりする女性も多いようです。

岩崎神社 世話人一同


グランドの東側には、
大型遊具が並んだゆうぐ広場。
二人乗りママチャリがいつも並んでいます。

桜が咲いた頃のグランドの様子です。
ぐるり、桜まみれです。

ゆうぐ広場も大賑わい。

桜並木がきれいです。

自販機も臨時に設置されます。

場所取りは出店がしてくれます。



北口へ。

お花見の頃はこんな風に出店が建ちます。
お店ではお花見の予約のほか、
場所取りから料理まで全部段取ってくれます。

子規記念博物館の横を抜けます。
左に内堀があります。

子どもの頃、石垣に潜んだザリガニを釣りにきました。
僕らはザリガニ池って呼んでました。



子規記念博物館を正面から。
入館料は大人500円、
児童生徒(高校生以下)は無料となっています

北口から振り返って。
写真中央の橋を渡ると-



湯釜が鎮座しています。

道後温泉で使われていたものだそうです。

石造 湯釜

愛媛県指定有形文化財(建造物)
昭和29年11月24日指定

 湯釜は、浴槽内の温泉の湧出ロに設置するもので、これは現在の道後温泉本館ができた明治27(1894)年まで使用されていたものである。
 直径166.7センチメートル、高さ157.6センチメートル、花崗岩製である。
奈良時代の天平勝宝年間(749~757)につくられたと伝えられる。
 湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の六字名号は、河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものといわれている。
 湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は、天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、享禄4(1531)年、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。

松山市 松山市教育委員会

いこいの広場の桜並木を。



大きくて立派な桜。

場所取りされ、道も狭くなってます。

外堀の向こうを走る市内電車。



北口に新設された信号機。
道後温泉に向かう道が大幅に拡幅され、
歩道も設けられました。

ひとりごと

松山市民にとって城山と並んで馴染み深い道後公園。
武家屋敷などが復元され、芝生が広々と拡がるオアシスのような公園です。
朝に夕に四季を通して沢山の人が訪れます。
中でも、春、お花見の頃は朝から夜中まで人だらけになります。
サクラの木の下はブルーシートやゴザがずらり。
お花見に出かけたつもりが、“お花見”見に出かけたような感じになるほどです。

お花見と言えば、少し前まで宴席の主役はBBQ、焼き肉でした。
道後公園もあっちこっちで煙がもこもこ。
公園を一周すると服にまで焼き肉の臭いが染み付いちゃうほど。
公園の外に出ても臭いがぷーんと風に乗って漂ってきました。
僕はBBQお花見が大嫌いでした。
そうしたら、なんと、公園内がBBQなど火気使用が禁止となりました。
あわせて、石手川ダムの緑地帯とか市内各所の公園でも禁止になりました。
多分にゴミの放置や騒音、酔客のトラブルが禁止に至る原因になったと考えられます。
以来、匂いや煙を気にせず、サクラを楽しめるようになりました。

とはいえ、昔の酔っぱらった大人たちはいま以上に騒いでました。
踊るし、ケンカするし、あっちこっちでオシッコしちゃう。
たばこもポイ捨て、お酒飲んで騒いで、マナーは決して良くなかった。
グラウンドの中央にはゴミの巨大な山が高々とできました。
でも、あの頃はそれが普通でした。
あの頃に比べたら、いまはおとなしいものです。

あの頃は、ギターとアンプを提げた流しのおじさんが宴席を回ってました。
大人が大声で唄い、飽きた子供はグラウンドを走り回るのが常でした。
お花見弁当は手作りが普通でした。
ゴザの上は人より食べのもの方が場所を占めてたくらい。
満腹になった子どもたちは山を探検したり、池を覗いてザリガニを探したり。
あの頃はあった動物園は小学生から有料だったからパス。
入口の脇に建ってた“子どもの家”はタダだったから、よく行きました。
階段の踊り場にあった、太ったり、のっぽに見えたりする歪んだ鏡だけでも、充分楽しくて。
夕方までめいいっぱい遊んで戻って来ても、大人たちはまだ飲んで騒いでた。
いま思うと、日本全体が元気で幸せでした。

宴もサクラが散ると嘘のようにいなくなります。
グランドやゆうぐ広場の子どもたちの声が主役になる、静かな公園に戻ります。

グラウンドの周囲には昔、ゴーカート場のコースがありました。
僕は乗った記憶が無いんだけど。
ゴーカートのコースでなくなってからもしばらくは、舗装されたコースが残ってました。
信号のある交差点とかもありました。

道後に動物園があったなんて知らない人も段々増えてきました。
遠足や写生大会で何度も行った、なんて話しが通じる人はそれなりの歳になってきました。
売店で買ったビスケットを象にあげたりしたなぁ。
山側のオリにいたオラウータン?チンパンジー?は、人に向かってフンを投げつける悪いやつだった。
ヘビ舎で写生大会の絵を描いたこともあった。
いろんな思いでのあった道後動物園。
ケモノ臭や鳴き声は近所の人たちにはちょっと困った存在だったらしい。
そんな事情により、道後から砥部のお山に引っ越ししました。
象もキリンもトラックに乗せられて重信大橋を渡って行きました。
砥部に移ったら移ったで敷地も広く、きれいになりました。
街中に住む僕にとってはやっぱり縁遠くなりました。

移転後、更地になった跡地はしばらく、遺跡の調査が行われていました。
河野氏の本拠地だった当時の武家屋敷などが復元され、史跡公園に生まれ変わりました。

湯築城については以下のホームページが◎。
イラストや音声解説もあります。
 → 河野氏風雲絵巻 湯築城物語

東屋に寝っ転がってのんびりできる公園はとってもおすすめな場所です。

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