菊間のお山
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瓦のふるさと公園 天王山山頂へ
距離 約600m
標高差 約50m
一般道
徒歩
下記写真の場所
見晴らしあり
  

瓦のふるさと公園=天王山へ、
遍照院とコンビニの駐車場の間の道から入りました。

  

JR予讃線が通っているので、踏切を渡らないとたどり着けません。
左の方にもう見えてる天王山へ、
踏切を渡ってすぐを左折します(道標もたくさんあります)。



菊間駅の裏にある「瓦のふるさと公園」に到着。
天王山は視界に収まるくらいの大きさの丘で、時計台の右の茂みが山頂です。
正面のメインアプローチの左右にある黒い歩道には瓦のタイルが敷き詰めてあります。

  

「菊間町観光ご案内マップ」。



公園の入口に立つ数奇屋造りの「かわら館」。
瓦産業の伝統技術の継承と育成のため、
屋根瓦、鬼瓦、瓦工芸品、瓦に関する資料なども収集、展示。
2010年6月現在、入場料は、大人200円、子供100円とリーズナブル。
展望台へはかわら館の左からも上がれます(今回は右の学習館・バラ園から)。

かわら館の右にある瓦をつなぎあわせたレリーフは、
イメージキャラクターの「きくまる」。
カービーじゃありません。

  

「瓦のふるさと公園案内図」
小さなお山ですが、遊歩道は全長3kmもあります。



  

あっちこっちから登れますが、今回はかわら館に向かって右から。
左にくぃっと登ると-

かわら館の裏へ通じているような坂道ですが-

  

「ねんど DE あそぼう」と書かれた道標から右へ曲がると-



色とりどりの花、特にバラが咲き乱れてる「バラ園」へ出ました。
おじさんがお手入れ中、
おかげでいろんな種類のバラがきれいに咲き揃ってます。

バラ園には菊間瓦の体験学習ができる実習館がありますが、
手前の小屋の中には-

再現された「ダルマ窯」がすっぽりと収まってます。
レンガ約400個、瓦500枚、粘土4トンの材料が使われてるそうです。

バラ園の上の土手にある「ローラー滑り台」。
尾根からバラ園の上まで全長120mもあります。



  

バラを愛でながらバラ園の端っこへ、
左に折れる遊歩道のほかに-

木立を登るショートカットがあります。

日陰になった階段を登って-



舗装された遊歩道へ出ると、
園内に設置された瓦の十二支像のひとつ-

午(うま)がありました。
鞍のマークは菊間の町章。

奥へ進むと-

角の木陰に-

木陰が似合う、巳(へび)。

  

次に出会った分岐で右の道を覗いたら、
坂の下に鳥居が見えたので、ちょっと寄り道。



別の遊歩道です。
鳥居から更に下ると山名の元になった
天王神社の名残の天皇橋があります。

狛犬が守っていました。
狛犬像にもたれかけてあったのは-

「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」の扁額でした。
山頂にある長津神社は江戸時代、そう呼ばれていました。
山名の「天王山」の由来になりました。

狛犬コレクション。
吽と-

阿。
団子っ鼻が可愛いです。



  

遊歩道は山の西側を回って尾根の上へ。
再び、鳥居に出会いますが、その手前に-

  

「←古墳跡」の道標が指す方に小径がありました。

上も下も緑の木立の中へ入ると-



瓦の祠がたくさん乗った大きな石がありました。
天王山1号墳(荒神社古墳)です。
天王山は長津神社古墳、七社明神古墳など、古墳が多いお山です。



  

長津神社登り口の分岐の手前に-

辰(たつ)。
ウロコの分、ヘビより格好いいなぁ。



分岐を右奥に進むと階段があります。

ちょっと急な階段は長津神社の参道です。



天王山の山頂にある長津神社に到着しました。

長津神社は初め、長津大明神と云って、
その後、野間天皇宮、牛頭天王社、素鷲神社と、
時代時代で名前が変わってきました。

本殿を右に進むと展望台のある広場に出ます。

  

山頂は本殿の左奥から登ります。
奥の土手にある踏み跡を登って、右の木立の中-



天王山山頂に到着です!
祠が祀られたこの場所からも古墳が発見されました。
長津神社裏土坑墓、長津神社裏集合墓です。
「朱砂」という水銀を含んだ赤い砂が敷かれた、
ふたつの石棺が見つかったそうです。

合掌。
見つかった古墳は御陵墓ではないかと噂があり、
多額の費用をかけて調べられましたが、答えは×でした。

帰りは石段じゃなく、小径の方で下りました。

舗装された道もいいけど、土の方が足に優しいです。

  

辰のモニュメントのある分岐に出ました。
右に曲がり、展望台へ向かいました。

ひとりごと

天王山は明治の古地図では「天皇山」となっています。
西麓の橋も天皇橋ですが、県の古墳資料では「天王山」が使用されていますので、“王”の方にいたしました。

数年前のこと。
普通列車で夕暮れの菊間駅に着いた時、かわら館やローラー滑り台、明かりが灯った時計台がとっても近くに見えました。
いつか訪ねてみたいと思ったことを覚えています。
そう思いつつ、いつも菊間の町を素通りしていました。

過疎地域に指定された菊間町が活性化を図って町のシンボルとして作ったのが瓦のふるさと広場です。
平成9年(1997)に完成。
主な施設は、かわら館、展望広場・展望台、実習館、ちびっこ広場・ローラー滑り台などなど。
菊間瓦700年の歴史や、広島平和記念館より永久貸与された被爆瓦、世界の瓦。
鬼師と呼ばれる鬼瓦や飾り瓦などを作る職人さんの作品も展示されてるそうです。
(僕は結局、時間が無くて中に入らないまま、帰ってきてしまいました、残念。)
展示品については今治市のホームページのかわら館のページに詳しく載ってますのでそちらをご覧下さい。

天王山は菊間城というお城があった場所の候補のひとつになっています。
でも、正確な資料がないので、八幡山や、岩童子と西海岸の間の松が崎なども候補に挙がっています。
県の埋蔵文化財調査報告書では、八幡山の方を城址に選定しています。
菊間城は「伊予温故録」や「俚諺集」に、神野佐馬允という人物が城主だったと記されています。
神野左馬允については「野間郡手鑑」などに別府怪島城主と載っていて、河野氏の家臣で村上水軍の大将・村上出雲守通康の家来でした。
怪島は菊間の町の隣、亀岡の沖に浮かぶ無人島で、戦国時代は要塞化されていたそうですが、秀吉の四国侵攻で壊滅しました。
加茂神社の古文書に佐馬允の畑が2反半あったと記録されているので、菊間に住んでいたみたいです。

次に、天王山の古墳についてですが、尾根沿いにたくさん見つかっています。
天王山1号墳(荒神社古墳)、天王山2号墳、田村古墳(七社明神古墳)、長津神社裏土坑墓・集合墓・経塚などです。
明治30年頃、このお山は斎明天皇の御陵墓じゃないか、という話で町が盛り上がったことがあります。
噂は昔からあったそうです。
長坂地区の方で多額の調査費を用意して、3年がかりの調査が行われました。
結果、「御陵墓ノ見込無」、斎明天皇には関係ないことが証明されてしまいました。
にもかかわらず、諦めきれなかった町民ら調査続行を決議。
再度、実地調査が行われましたが、覆るような成果は発見されませんでした。
古墳の床には朱砂という赤い砂が撒かれてたりしてたので、なにか特別な、高貴な人が眠っているように考えたのかも知れません。
朱砂は辰砂や賢者の石とも云われる赤い鉱物で、水銀を含んでいます。
神社の赤い色=朱色は、この朱砂を塗ったものです。
古代において、水銀は金のメッキ作業に必要な物質。
奈良の大仏などは水銀と金を交ぜたものを塗り、火で熱して水銀を蒸発させ、金だけを残すという手法が用いられました。
水銀は金と同じくらいの価値があり、弘法大師が高野山にお寺を建てたのは地下に水銀の鉱脈があるからだ、という話もあるくらいです。
水銀は「丹」と呼ばれ、「丹」が付く地名は水銀が産出したことに由来していて、西条の丹原もそのひとつ。
丹羽(にわ)さんとか、「丹」が付く名前も、御先祖さんが銀にまつわる仕事をしていたことに由来すると云われています。

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