姫原丘陵
へ行こう!
お山について登山口・ルート登ってみよう!メールホームへ
山の辺のみち2
~登山口
距離 約1.5km
一般道
林道
徒歩
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設
みかん畑

左が降りてきた農道、
右が後で通る“伊予の山の辺のみち”。
まず、三島神社へお参りです。
注連石に刻まれた達筆は、三輪田米山のものです。

秋祭りには獅子舞が奉納され、
大人御輿が往来する境内。
平日は静かです。



拝殿です、合掌。
右にあるのは“左近の桜”の薄紅寒桜。
3月になれば見事な花を咲かせます。

左にあるのが“右近の橘”の日本たちばな。

社の裏に行ってみたら、谷へ入る小径。
ほかにはなにもなかったけど、
裏もちゃんと掃除されてました。

さて、参拝も終わったので、次へ。
境内を出たら、左-

路地を入り-

  

突き当たりの丁字路は右へ(左は閉鎖)進み、
みかん畑へ。



未舗装の道をたどり、
みかん畑小屋の脇を抜けて-

さっき歩いてきたばかりの尾根から西へ延びる支尾根が、
丘のようになって、みかんの木に覆われてる所を、
えっちらおっちら、登ります。



尾根の上に出たら、反対側には舗装された農道がありました。
ひとまず、右へ曲がり-

丘の先端を目指します。
坂道を登り切ると-



  

一気に視界が広がりました。
左には松山市街方面、姫山小の青屋根も見え、
右は吉藤、鴨川の家並み。
道は西へ、中継アンテナ施設へ。

終点。

施設の右側を通り抜け-

見晴らし良さそうなみかん畑の上部へ。

  

南向きのパノラマです。
さっきまで歩いてた姫原丘陵の稜線や、
登り始めた姫原小の建物、
次に向かう姫池もちらり、
写真右にあるアンテナが載ってるビルはNTT山越。

  

西から北にかけてのパノラマです。
正面は久万ノ台や東山・北山・船ヶ谷山、
小富士、経ヶ森。
眼下は家がびっしりです。

  

振り返って、今日のおさらいのような山並みを。

丁字路へ戻り-

直ぐ下にある丁字路を右折し、急坂を下り-



  

次の丁字路を左折。

日差しを前から受けながら南下。



  

姫池のほとりに出ます。
右へ曲がると-

  

堤防沿いの小径があるので、
池の反対側まで歩いてゆきます。

小径から。
姫池はすっごい緑色。
左にある大きな建物は特別養護老人ホーム。
右に見える-



軽之神社へお参りです。

戦捷記念の碑の横に-

  

一草庵の前にもあった“伊予山の辺のみち”案内図。

軽之神社・軽太子の塚

 允恭天皇の皇太子軽太子(かるのみこ)および軽大郎女(かるのおおいらつめ)の兄妹を祀る。
 『古事記』によると軽太子は同母の妹軽大郎女と許されぬ恋におち、太子は伊予の湯に流された。
姫は恋しくてたまらず追いかけて来たが、二人はついに「自ら共に死にたまひき」とある。
 『日本書紀』では、軽大郎女が先に流されたとある。
 村の人たちはニ人の霊を哀れんで神社を建て毎年4月28日に祭礼を行っている。
 軽太子と軽大郎女を祀った比翼塚がこの東の山裾にある。

松山市教育委員会
俳句の里城北コース20番

拝殿、合掌。
日本最古の心中事件ともいわれる、
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)軽大郎皇女(かるのおおいらつめ)を追悼。
姫原の“姫”は、軽大郎皇女が由来です。

「軽之神社」の額。

次は、比翼塚へ。
神社の左を抜け、まっすぐ進みます。

水面で一羽のカモがお休み中。
…あれ!?

ええっ!? く、クビがない!?

-と、思ったら、羽の間からぴょこっと出てきました。
あー、びっくりした。



  

辻を右折します。

角にちゃんと道標があります。
「←行き止り 比翼塚→」



  

道なりに行けばすぐに-

比翼塚に着きます。

木梨軽皇子と軽大郎皇女のお墓は、
いま時のお墓と比べ、とっても小さいです。

アップで。

更にアップすると、激しい風化具合…。

歌碑は、祀られてる兄妹のもの。
「天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の聞えむ時は我が名問はさね」木梨軽皇子
「君が行きけ長くなりぬ山釿の迎へ尓行かむ待つには待たじ」 軽大郎皇女
敷地には句碑がもうひとつ。
「天さかるひな乃伊予路に永久乃愛に生きたまふ二柱の神」八木米蔵

2010年春に撮った満開の桜もどうぞ。

塚の横にため池。
左の農道を登り詰めたら軽ノ山まで行けるかなぁ?

さて、後は登山口まで帰るだけ、姫池まで戻り-



住宅街を南へ。

昼寝中だにゃ。

ぽかぽかだにゃ。

小径に咲く-

ツバキ。



  

姫山小のグラウンド横へ。



  

そして正門。
やっぱり、小学校に見えない…。

坂を下り、登山口へ戻りました。

ひとりごと

“伊予山の辺のみち”続きを反対にたどる散歩になりました。

三島神社を覗いてみたら、鷹ノ子でたくさん見かけた三輪田米山の書の注連石がありました。

丘から見えた山越、吉藤、安城寺の町並。
あらためて、市北部の家並みの多さに驚きました。
田畑も比較的残されてるけど、いまは宅地の方が圧倒的。
バブル前までは田んぼが多かったのに、急成長です。

軽之神社や比翼塚は今回、初めて訪れました。
少し西にある道は国道の抜け道として何度も通ってるけど、山手側には入ったことがありませんでした。
軽之神社も比翼塚もこじんまりとしてました。
写真で見た比翼塚はもっと大きな印象でしたけど、とてもささやかな墓石が二つ、石積みの上に並んでました。

木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)軽大郎皇女(かるのおおいらつめ)の物語。
衣通姫(そとおりひめ)伝説として現代まで語り継がれています。
父は、允恭(いんぎょう)天皇。
天皇は5男4女をもうけ、木梨軽皇子は最初にできた男の子。
軽大娘皇女は5番目の子供でした。
皇太子の木梨軽皇子は眉目秀麗。
妹の軽大娘皇女が“衣通姫”と呼ばれるのは、その美しさが衣を通してあらわれるほどの美女だったことに由来しています。
伝説は、兄と妹が愛し合う禁断の物語です。
弟の穴穂皇子(あなほのみこ)との王位継承を巡る争いが背景にありました。
兄から人心を引き離すためのプロパガンダ、スキャンダル作戦だったのかも知れません。
穴穂皇子はその後、皇位に就き、安康天皇となります。
父の異母弟の大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺し、皇子の妃であった同母姉の長田大郎女(ながたのおおいらつめ)を皇后にしています。
安康天皇(穴穂皇子)は、大草香皇子を殺した経緯を聞いてしまった、皇后の連れ子の眉輪王に殺されてしまいます。
『日本書紀』、『古事記』は、奇想天外。
ドキュメントと創作、ファンタジーが混ざり合ったお話です。

姫山小の正門辺りも初めて通りました。
僕が通ってた東雲小なんて、まるでクリーム色の箱、オールドスタイル。
それに比べ、姫山小のデザインは児童館。
子供たちにとっては自慢の校舎なんだろうなぁ。
母校を誇りに思うことって、やっぱ、基本です。

この頃の小学校はみんなきれい。
久万高原町の久万小などは、地産の木材をふんだんに使った校舎。
あんな素敵な校舎では、おばけも出にくそうだし、七不思議が語られることもないんだろうなぁ。

というわけで、今回は明るいうちに帰ることができました。

姫原の山並みに、皿ヶ嶺連峰のような縦走路が整備されたら、格好のお散歩コースになると思う。
できれば、展望台もふたつくらい、欲しいなぁ。
淡路ヶ峠くらい、人気になるよ、きっと。
どなたか、手を挙げてくれませんか?

ブログパーツ
     
inserted by FC2 system