姫原丘陵
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山の辺のみち1
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林道・農道
徒歩
下記写真の場所
みかん畑

護国神社の前からスタート。
平日はしんと静かな境内。
背後のお山は御幸寺山。
左折し -

大川に沿って西へ歩き出して、すぐにある-

  

“伊予山の辺のみち”案内図と

回遊ループバス“一草庵入口”バス停。
レトロなバスが土日休日のみ運行してます。

一草庵へ寄り道。
御幸寺山の御幸寺登山口へ行く道を入ります。

橋のたもとには、お遍路さん用道標や -

大きな石碑。
その後ろのお宅にはいまは珍しくなった鳩舎。



「坂の上の雲」事業でトイレや休憩所ができた一草庵周辺。
奥の建築中の建物は御幸寺。

以前は陽も差さないような感じでしたけど、
家自体もすっかりきれいになってます。

一草庵は、
自由律俳人の種田山頭火、終焉の地です。 

道後村めぐり・22番です。

この「春風能鉢の子一つ 」のほかにも、
「おちついて死ねさうな草枯るる」
「鐵鉢能中へも霰」
「濁れる水のなかれつゝ澄む」
山頭火の句碑があります。



次は千秋寺。
奥の霊園からも御幸寺山へ登れます。

本堂の前にでっぷり布袋様。
境内は広くて -

道後村めぐり・23番。

千秋寺境内にも句碑がたくさんあります。
「山本や寺ハ黄檗杉ハ秋」正岡子規
「画をかきし僧今あらず寺の秋」正岡子規
「金色の佛の世界梅雨能燈も」村上杏子
「月の道となり千秋寺の杉の木」高橋一洵

千秋寺はこの山門が有名。
「松山に過ぎたるもの」といわれた江戸の頃、
20以上の伽藍を持ち、偉容を誇った当時の名残です。

中国・明の僧、即非如一の書と云われる「海南法窟」の額。
ちなみに、千秋寺起工時(1686年)には、
即非はすでに故人(1671年没)でした。

裏側から。



  

右折し、山沿いに進みます。

へんろ道もこっち、四国の道もこっち。
左は松山大学の御幸キャンパスのグラウンド。
薬用植物園やテニスコートが生け垣越しにちらり。
グラウンドは昭和50年まで松田池というため池でした。

春はこんな感じできれいです。

アリーナや部室棟などの入口。

ストリートにゃんこレンがひなたぼっこ中。

ヨソものらしい白い猫にぷち威嚇中。



来迎寺。

道後村めぐり・24番。
足立重信と露人墓地で有名なお寺。

でも、どちらも境内にはありません。
あるのは重信の巨大な顕彰碑だけ。
お墓はお寺の上の墓地にあります。

  

足立重信とロシア人墓地は次の角を右折し -

道なりに -

うにゃーっと登って行きます。
この坂、嘘みたいに急です。



坂の右側にロシア人墓地があります。
久しぶりに訪ねたらきれいに整備されていて、びっくり。

スロープやトイレもできてる!
回遊ループバスのバス停もできてました。

ロシア人墓地は、日露戦争時に捕虜になり、
松山に収容されロシア人らのお墓です。

ロシア人墓地

 この当時の日本政府は日本が末開国ではないことを世界に知ってもらいたいという外交上の理由もあって、戦時捕虜のとりあつかいについては国際法の優等生であった。
ロシア捕虜をとびきり優しくとりあつかったというよりむしろ優遇した。
 その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、
「マツヤマ、マツヤマ」
と連呼して日本軍陣地へ走ってきたりした。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文芸春秋刊)単行本・5巻より

 日露戦争当時、政府は全国に29カ所のロシア兵捕虜収容所を設けたが、まず最初に松山の地に収容所を開設した。
松山には多いときで4千人をこえる捕虜がいたが、傷病等の理由のほか、松山に来る途中の船内で亡くなった者も含めて98名が死亡し、埋葬された。
当初、ここから歩いて1、2分の妙見山の山頂(現在は松山大学御幸キャンパス)に、旧陸軍によって墓地がつくられていたが、昭和35(1960)年にこの地に移された。

V.A.ボイスマン大佐の胸像。

隣はお墓。
戦艦ペレスベートの艦長でした。

兵士らのお墓にはいまでも花が供えられてます。

露人墓地の奥は一般の墓地になっていて、
十六日桜を詠った句碑、
「永久眠る孝子ざくら能そのほとり」波多野二美
その横から入ると -

青地林宗のお墓。
ここも整地されてます。

青地林宗の墓

愛媛県指定史跡
昭和26年11月27日指定

 林宗は、江戸時代後期の蘭学者である。
家は代々松山藩医で、家業の漢方医学を修めた後、蘭方医学を志して江戸に出た。
幕府の通詞馬場貞由にオランダ語を学び、杉田立卿、宇田川玄真らの指導を受けて蘭学者となった。
 文政5(1822)年幕府天文台訳局訳官となり、専門の医学以外にも関心を寄せ、立卿らとともに『万国地志』『輿地志』65巻などを翻訳した。
また、物理学の研究に没頭し、ボイスの『一般物理教本』に拠って『格物綜凡』を著わし、ついで文政10(1827)年、この書を抄出して我が国最初の物理学者『東海観瀾』を公にし、日本物
理学の祖と称せられるようになった。
 59歳で病没、江戸浅草の曹源寺に葬られたが、昭和に入って青地家に縁のあるこの地に移された。

松山市 松山市教育委員会

林宗のお墓の少し上に -

足立重信のお墓です。
後ろにあった木立が無くなって、
見晴らしも良くなってました。
これから登る姫原丘陵の南端が正面(北)に見えます。

灯籠型の句碑です。
「寳川伊豫川能秋の出水哉」村上霽月

真ん中が墓石。

右の灯籠も句碑になっています。
「功や三百年の水も春」内藤鳴雪。

足立重信の墓

愛媛県指定史跡
昭和26年11月27日指定

 足立重信は、松山城主加藤嘉明の重臣で、本人の遺言によって松山城を望むこの地に葬られた。
高さ約224センチメートル、花崗岩製である。
 重信は、美濃国に生まれ若年で嘉明に仕え、数多くの戦いで活躍した、文武両道を備えた武人である。
嘉明がその功により、文禄4(1595)年正木(松前)城主に任じられると重信も従って来住した。
慶長3(1598)年重信は命により伊予川(重信川)の改修を行い、洪水防止、5千町歩の耕地の開発に成功している。
 関が原の戦功で20万石となった嘉明の命で、重信は勝山築城と城下町建設の普請奉行となり、湯山川(石手川)の流路変更、松山城の築城、城下町の建設等に二十数年間尽力したが、完成を見ないで寛永2(1625)年11月17日永眠した。

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墓地から見た北側の山並み。
写真左から、116mピークには携帯電話の中継基地があります。
麓の家並みは桜ヶ丘団地で、その奥の鉄塔が立つ山並みが天神山です。
山並みは右奥方向にある御幸寺山へと連なっています。
崖っぽく見えるその下に龍穏寺と霊園。
写真右の大屋根は松大の御幸キャンパスのアリーナです。

  

墓地はこんな小高い場所にあるものの、
遠くまで見通せるのは西側のちょこっとだけ。
興居島の小富士が青く霞んで見えました。



露人墓地の上、御幸キャンパスの向かいにあるのが龍穏寺。

紅梅の季節でした。

十六日桜

 古来より旧暦の1月16日に花を咲かせる桜として、伊予節にも唄われた『十六日桜』を天皇として初めてご覧になったのが舒明帝である。
舒明12年(640年)1月16日、舒明天皇は伊予国道後の湯に行幸の帰途、車を引き返して、いっせいに咲きほこった十六日桜のもとに立たれた。
この行幸には、舒明帝の皇后で後の斉明天皇、両帝の皇子で後の天智・天武天皇も同行していたとされる。
 花といえば桜を象徴したその昔、親思う一人の若者(孝子)吉平の祈りに季節はずれに花開いた桜が病床の父を回復させ、今度は父の願いに応えて、以来毎年(旧暦)1月16日に決まって花を咲かせるようになった。
これが『十六日桜』という名の由来である。
『十六日桜』には、孝子吉平話にゆかりのある『吉平桜』『孝子桜』『延命桜』朝廷に関する『天覧桜』『還車桜』『節会桜』『代覧桜』『勅使桜』など、数多 くの名称が伝えられている。これは、この桜が、人間と桜の魂のふれあいの対象として広く愛されていたことを今に物語っている。
 松山藩主加藤嘉明が松山城を築城した江戸初期、当龍穏寺が道後湯築台から移された時、寺領内にあった『十六日桜』はこの場所に移される。
その後、江戸時代の寺の繁栄とともに、『龍穏寺の十六日桜』として、自然を愛する文人や桜の開花を一目見ようと訪れる人々に親しまれ、小林一茶・正岡子規をはじめとする当代随一の俳人たちも、桜を見るために来寺し境内のこの地を踏んでいる。
 しかし、昭和20年7月26日の夜半、松山大空襲の際に被災した『十六日桜』は、龍穏寺の焼失に殉じるように、やがて生気を失い枯死してしまう。
ここに永く語り継がれてきた『十六日桜』は、伝説にのみその名を残すこととなる。
 かって文人たちが踏みしめたゆるやかな石の階段を上りつめ山門をくぐり抜けたこのー角に根を張り、枝を広げ、幾つもの時代を越えて確かに存在した『十六日桜』は、今、はるかなる時間と空間のひろがりの中で永遠に生き親けているのである。

はるかなる十六日のさくらかな

境内は、墓地の受付窓口といった感じで、
お墓の新規受付のテントが並んでました。

句碑。
「一輪は咲いて見せたる桜かな」高浜虚子
「淡雪に十六日の桜人」村上霽月
「西に行き法師もいかに初桜しばしとてこそ杖とまりけり」一遍上人
「一枝に一輪十六日桜かな」河東碧梧桐
「咲いて一りんほんに一りん」種田山頭火
「又たくひ世は梅さかり此の桜」小林一茶
「人の気を花に乗せゆく桜かな」松尾芭蕉
「嘘のよな十六日桜咲きにけり」正岡子規
「静かなる山下影に庵つくり雪粧わせて見る桜かな」西行法師
「ちりつ咲つ花おもへば世のをしへ」八十島清月
「父母以ますときはの山のさくら狩はなのもとより遠く遊ばな」八十島撫山
「花に来て寺の田楽よばれけり」柳原極堂

十六日桜は枯れちゃったけど、
その子供たちが別の場所に生きています。
坂を少し下り戻り、その名も桜ヶ丘団地へ向かうと -

団地の入口に -



十六日桜があります。
この頃は旧の1月16日より遅めに花開くそうです。

根もとの花は満開でした。

十六日桜一本

松山市指定天然記念物
昭和45年5月18日指定

 十六日桜は、旧正月16日ごろに間花する早咲きのヤマザクラの変異種で、御幸1丁目の龍穏寺、天徳寺の境内と、ここ桜ヶ谷の吉平屋敷跡(山越桜谷)などにあったが、これらの桜はいずれも戦災等で枯死した。
 現在のものは、天徳寺から株分けしたものであるが、古木が枯れたので実生を育てたものである。
そのためか花期も遅く本来種の特質がかなり失われているようである。
 俳人小林一茶の「西国旅日記」によると、寛政7(1795)年正月16日に桜が満開であった記述がある。
 なお、古くから節会桜、辞世桜などともいわれ伊予節にもうたわれている。
真冬に桜花を見たいという病父のために、孝子吉平が桜に祈ったところ開花したという伝承から孝子桜ともよぶ。
小泉八雲もこれを世界に紹介している。

松山市 松山市教育委員会



天徳寺方面へ下る坂道。
家並みの奥に見えるのは松山城。

とにかくお墓だらけです。

のらちゃんも集団午睡中。

茶色は飼い猫さんでした。



坂を下りきり、左に曲がると -

伊予七福神、弁財天霊場の弘願寺(ぐがんじ)

道後村めぐり・26番。

弁財天です。

合掌。

アップで、さらに合掌。



すみません、もう少し戻って長建寺へ。
境内にある句碑をご紹介。

「母と行くこの細径のたんぽゝの花」 高橋一洵
「もりもりもりあかる雲へあゆむ」 種田山頭火
「与久ミ禮者薺花さく可幾根か南」 松尾芭蕉
「筆に声あり霰の竹を打つごとし」 正岡子規
「子規子選門前尓野菊さき介利長建寺」 大島梅屋

道後村めぐり・25番。
きれいなお庭もあります。

坂を下ってきたところまで戻って -

うとうと、落っこちそう…。

その前に停まってる幼稚園の送迎バス「とら吉」。

な、なぞのようちえん!?
…というのはウソで-



○なぞのようちえん=花園幼稚園でした。

幼稚園は天徳寺境内にあって -

山門前に十六日桜と句碑があります。
「西尓来て杖笠遺す此里の初桜見すて加ぬれ波」 西行法師

十六日桜一本

松山市指定天然記念物
昭和45年5月18日指定

 十六日桜は、旧正月の16日ごろに開花する早咲きのヤマザクラの変異種である。
 この花は、寒中に咲くというので、寛保3(1743)年に出版された『諸国俚人談』に出ているほど古くから有名である。
俳人小林一茶は、寛政7(1795)年正月16日にここを訪れ、桜が満開であったと『寛政七年紀行』に記している。
 この桜は、古くから節会桜、辞世桜などとも呼ばれ、「伊予節」にもうたわれている。
真冬に桜花をみたいという病父のために、吉平が桜に祈ったという伝承から孝子桜ともよばれている。
この伝説を、小泉八雲が、『怪談』という本の中で、世界に紹介している。
 十六日桜のもともとの木は、戦災で枯死したといわれている。
現在のものは株分けによって繁殖したもので、花が咲く時期は昔より遅くなっている。

松山市 松山市教育委員会



山裾をなぞるように進むと -

還熊八幡神社。
帰“還”を祈願する参拝者が絶えないお社です。



  

車道を北へ進んで、
スーパー「ザ・ビッグ 松山山越店」の東の辻 -

お山に向かって右折します。
「山の辺のみち」とは、ちょっと、ここでお別れ。

ボール遊びする子供たちに気をつけながら、
住宅街を山の方へ。

3回かくかく曲がって、
坂がさらに急になった時 -

坂の上からイヨカンが転がってきました。
そのすぐ後を子供たちが全力疾走で下ってきました。
玉を追いかける猫みたいに、僕の横を、
ノンストップで駆け下って行きました。
お山が近ければ自然に自然たっぷりに育つようです。
“昭和”な元気さが懐かしかったです。



  

分かれ道ではまた寄り道したくて、右へ進みました。

農道を奥へ進むと -

谷の奥に -



鳥居があります。
周りは小屋やモノラック。

「石鎚神社」の額がある鳥居をくぐって -

すぐ右にある清水で -

サワガニ見っけ!
ますます良い環境だなぁ。

細い石段を登り -

赤い灯籠なんかあったりして -

階段正面に石鎚神社があります。

おなじみ?の○に石のマーク。

小さなお社ですが-

しっかり、天狗の面と下駄がありました。
石鎚山のお山開き大祭中は幟も立てられます。

階段は注連石の前にまだ続いてて -

一段高いところにもうひとつ、小さなお社があります。

矢取神社・矢取宮といいます。

手水鉢とお社の後ろ側。

矢取宮 由緒 沿革 再建

 矢取宮は
「遠く長寛年間、鎮西八郎源為朝公が伊予に下り河野親清公に拠り常に弓術を錬磨し五十猛神き尊信した。
弓術の奥義を悟るに際し神祠を建て五十猛神を祭り矢取宮と称したという」
に起縁いたすのであります。
元来ここに八百年余年、北山越、北組の守護神として、五穀豊穣、家内安全、疫病退散、道中安全等に霊験あらたかでありまして、組内の尊崇するところでありました。
更に五十猛神のご神徳にちなみ青少年鍛錬の勇武の神として代々松山藩主並びに住民の崇敬する
ところであったと伝えられております。
(以下省略)

昭和57年4月吉日
矢取宮社史調査担当
文責 松原正治

  

さっきの分かれ道まで戻ります。
左の道を登ればすぐに丘の上に出ます。



姫原丘陵の登山口に到着です。
ここは、左下に見える姫山小学校の裏門がある場所です。
寄り道しすぎて、夕暮れが迫ってきてしまいました。

ひとりごと

山越の方へ買い物に行くことがこの頃よくあって、この辺の道もよく走るようになりました。
自転車で、が多いです。

東雲小が母校だから、こっち界隈は土地勘が少しあります。
御幸寺山は正月早早にも登ったし、御幸キャンパスののら猫たちに会いに行くためだけに通る時もあります。

御幸寺山・姫山の山裾はお寺がとにかく多い界隈です。

城下町に寺町はつきものです。
お寺の大きな建物は防御にも使えるし、広い境内は避難場所にもなるし、延焼を防ぐ効果もあります。
当時の都市計画には陰陽道的要素も重要ですから、鬼門にはこのお寺を配置して、みたいなことも行われました。
松山城を造った加藤嘉明も、あの寺こっち、この神社あっちと移動させてます。

戦国時代、日本各地には僧兵と呼ばれる武装集団を持った寺社勢力が存在していました。
織田信長の最大のライバル、石山本願寺、各地で頻発した一向一揆、焼き討ちされた叡山。
信州諏訪の諏訪大社、大分は宇佐神宮、越前は白山平泉寺などなど。
一向一揆などは、「進まば往生極楽、退かば無間地獄」といって、民衆に対し、来世の約束までして戦わせちゃう。
死をも恐れず竹槍突きだしてくる。
例えは悪いけどホラー映画のゾンビみたいな農民と戦った恐怖。
松山城ができた頃の武将はみな、経験しています。
争いごとは侍に任せ、お寺には本来の念仏三昧に戻って欲しい。
寺社を集めることで先に述べた都市防衛の要もできあがる。
互いに勢力拡大を抑制、監視しさせることもできます。
日本各地の城下町に寺町がほぼ同時期にできた背景には、そんな都市計画事情も見え隠れしています。

城北を歩けば、あっちこっちで句碑に出会います。
正岡子規や高浜虚子、種田山頭火、古くは小林一茶。
語り尽くせぬ巨匠たち。
今回、見出しに取り上げた“伊予山の辺のみち”は、北条に達すると“一茶の道”と合流します。
日本ウォーキング協会の 「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも登録されています。
500選って…。
多すぎ!
県内では、
 今治 - しまなみ海道
 大洲 - おはなはん肱川と町並み散策のみち
 内子 - 四国の道 八日市歴史のみち
 西予 - 天と海と出会うみち
 上島 - 積善山遊歩道・桜登山道
 四国中央 - 旧新宮村・志の道、伊予の遍路みち
 宇和島 - きらめく宇和海と段々畑のみち、滑床渓谷を巡るみち
 松山 - 伊予山の辺のみち
以上、10の道が選定されています。

“伊予山の辺のみち”は、奈良の“山の辺の道”がヒントになっています。
平成15年から松山市が開催してる「『坂の上の雲』まちづくり市民塾」で提案されたのが最初です。
“一茶の道”はそれよりも古く、寛政7年(1795)に小林一茶が松山を訪れた際に立ち寄った道順をなぞったものです。
現在は、運動公園をスタートに5kmと7kmの周回コースがある、“一茶の道散策健康づくりコース”に発展しています。
平成17年にNPO団体「伊予山の辺のみちを歩こう会」が発足。
上記に登場した案内図も同団体が設置したものです。

最初の頃は、石手寺がスタートで、後ほど紹介する姫原の比翼塚まででした。
その後、北へコースは延びて行きました。
善応寺や高縄寺(高縄山山頂のじゃないよ)を通り、“一茶の道”も含め、北条大浦駅まで。
なんと、28kmもの長~い道に発展。
28kmって、一朝一夕には歩けない距離だけど。
途中の史跡も見て回ったら、何日かかることやら…。
歩いても自転車でも、春のほのぼのりんとした頃が一番最適かな?
おすすめです。

山越から山の辺のみちから外れ、姫原丘陵の天神山へ行く前に、地図で見つけた石鎚神社を覗きに行きました。
途中の住宅街で子供らがわーきゃー元気に遊んでる姿をたくさん見かけました。
外で遊んでる子供の姿ってなかなか見なくなったから、懐かしいくらい新鮮でした。
大きい子、小さい子、男の子、女の子、一緒になってボール遊びとか、坂道をわーっと駈け降りてくる姿とか。
子供の頃を思い出したというか、とっても昭和な感じがしました。

石鎚神社の登り口の沢に沢ガニがたくさんいました。
街のすぐそばで見つけたことがとてもうれしくなって、何枚か撮りました。
でも、薄暗い水底にいるせいで全部、ピンぼけてました。

やっぱ、自然が身近にある子供たちは元気に育つんだなぁ。

僕も、家の近所の石手川や、通学路脇の城山は影響大だったと思うもの。

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