へ行こう!
山の辺のみち1 | ||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰ | ||||||||||||||||||
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①護国神社の前からスタート。
平日はしんと静かな境内。
背後のお山は御幸寺山。
左折し -
大川に沿って西へ歩き出して、すぐにある-
“伊予山の辺のみち”案内図と
回遊ループバス“一草庵入口”バス停。
レトロなバスが土日休日のみ運行してます。
一草庵へ寄り道。
御幸寺山の御幸寺登山口へ行く道を入ります。
橋のたもとには、お遍路さん用道標や -
大きな石碑。
その後ろのお宅にはいまは珍しくなった鳩舎。
②「坂の上の雲」事業でトイレや休憩所ができた一草庵周辺。
奥の建築中の建物は御幸寺。
以前は陽も差さないような感じでしたけど、
家自体もすっかりきれいになってます。
一草庵は、
自由律俳人の種田山頭火、終焉の地です。
道後村めぐり・22番です。
この「春風能鉢の子一つ 」のほかにも、
「おちついて死ねさうな草枯るる」
「鐵鉢能中へも霰」
「濁れる水のなかれつゝ澄む」
山頭火の句碑があります。
③次は千秋寺。
奥の霊園からも御幸寺山へ登れます。
本堂の前にでっぷり布袋様。
境内は広くて -
道後村めぐり・23番。
千秋寺境内にも句碑がたくさんあります。
「山本や寺ハ黄檗杉ハ秋」正岡子規
「画をかきし僧今あらず寺の秋」正岡子規
「金色の佛の世界梅雨能燈も」村上杏子
「月の道となり千秋寺の杉の木」高橋一洵
千秋寺はこの山門が有名。
「松山に過ぎたるもの」といわれた江戸の頃、
20以上の伽藍を持ち、偉容を誇った当時の名残です。
中国・明の僧、即非如一の書と云われる「海南法窟」の額。
ちなみに、千秋寺起工時(1686年)には、
即非はすでに故人(1671年没)でした。
裏側から。
④右折し、山沿いに進みます。
へんろ道もこっち、四国の道もこっち。
左は松山大学の御幸キャンパスのグラウンド。
薬用植物園やテニスコートが生け垣越しにちらり。
グラウンドは昭和50年まで松田池というため池でした。
春はこんな感じできれいです。
アリーナや部室棟などの入口。
ストリートにゃんこレンがひなたぼっこ中。
ヨソものらしい白い猫にぷち威嚇中。
⑤来迎寺。
道後村めぐり・24番。
足立重信と露人墓地で有名なお寺。
でも、どちらも境内にはありません。
あるのは重信の巨大な顕彰碑だけ。
お墓はお寺の上の墓地にあります。
足立重信とロシア人墓地は次の角を右折し -
道なりに -
うにゃーっと登って行きます。
この坂、嘘みたいに急です。
⑥坂の右側にロシア人墓地があります。
久しぶりに訪ねたらきれいに整備されていて、びっくり。
スロープやトイレもできてる!
回遊ループバスのバス停もできてました。
ロシア人墓地は、日露戦争時に捕虜になり、
松山に収容されロシア人らのお墓です。
ロシア人墓地 |
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この当時の日本政府は日本が末開国ではないことを世界に知ってもらいたいという外交上の理由もあって、戦時捕虜のとりあつかいについては国際法の優等生であった。 |
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司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文芸春秋刊)単行本・5巻より |
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日露戦争当時、政府は全国に29カ所のロシア兵捕虜収容所を設けたが、まず最初に松山の地に収容所を開設した。 |
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V.A.ボイスマン大佐の胸像。
隣はお墓。
戦艦ペレスベートの艦長でした。
兵士らのお墓にはいまでも花が供えられてます。
露人墓地の奥は一般の墓地になっていて、
十六日桜を詠った句碑、
「永久眠る孝子ざくら能そのほとり」波多野二美
その横から入ると -
青地林宗のお墓。
ここも整地されてます。
青地林宗の墓 |
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愛媛県指定史跡 |
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林宗は、江戸時代後期の蘭学者である。 |
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松山市 松山市教育委員会 |
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林宗のお墓の少し上に -
足立重信のお墓です。
後ろにあった木立が無くなって、
見晴らしも良くなってました。
これから登る姫原丘陵の南端が正面(北)に見えます。
灯籠型の句碑です。
「寳川伊豫川能秋の出水哉」村上霽月
真ん中が墓石。
右の灯籠も句碑になっています。
「功や三百年の水も春」内藤鳴雪。
足立重信の墓 |
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愛媛県指定史跡 |
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足立重信は、松山城主加藤嘉明の重臣で、本人の遺言によって松山城を望むこの地に葬られた。 |
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松山市 松山市教育委員会 |
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墓地から見た北側の山並み。
写真左から、116mピークには携帯電話の中継基地があります。
麓の家並みは桜ヶ丘団地で、その奥の鉄塔が立つ山並みが天神山です。
山並みは右奥方向にある御幸寺山へと連なっています。
崖っぽく見えるその下に龍穏寺と霊園。
写真右の大屋根は松大の御幸キャンパスのアリーナです。
墓地はこんな小高い場所にあるものの、
遠くまで見通せるのは西側のちょこっとだけ。
興居島の小富士が青く霞んで見えました。
⑦露人墓地の上、御幸キャンパスの向かいにあるのが龍穏寺。
紅梅の季節でした。
十六日桜 |
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古来より旧暦の1月16日に花を咲かせる桜として、伊予節にも唄われた『十六日桜』を天皇として初めてご覧になったのが舒明帝である。 |
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はるかなる十六日のさくらかな |
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境内は、墓地の受付窓口といった感じで、
お墓の新規受付のテントが並んでました。
句碑。
「一輪は咲いて見せたる桜かな」高浜虚子
「淡雪に十六日の桜人」村上霽月
「西に行き法師もいかに初桜しばしとてこそ杖とまりけり」一遍上人
「一枝に一輪十六日桜かな」河東碧梧桐
「咲いて一りんほんに一りん」種田山頭火
「又たくひ世は梅さかり此の桜」小林一茶
「人の気を花に乗せゆく桜かな」松尾芭蕉
「嘘のよな十六日桜咲きにけり」正岡子規
「静かなる山下影に庵つくり雪粧わせて見る桜かな」西行法師
「ちりつ咲つ花おもへば世のをしへ」八十島清月
「父母以ますときはの山のさくら狩はなのもとより遠く遊ばな」八十島撫山
「花に来て寺の田楽よばれけり」柳原極堂
十六日桜は枯れちゃったけど、
その子供たちが別の場所に生きています。
坂を少し下り戻り、その名も桜ヶ丘団地へ向かうと -
団地の入口に -
⑧十六日桜があります。
この頃は旧の1月16日より遅めに花開くそうです。
根もとの花は満開でした。
十六日桜一本 |
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松山市指定天然記念物 |
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十六日桜は、旧正月16日ごろに間花する早咲きのヤマザクラの変異種で、御幸1丁目の龍穏寺、天徳寺の境内と、ここ桜ヶ谷の吉平屋敷跡(山越桜谷)などにあったが、これらの桜はいずれも戦災等で枯死した。 |
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松山市 松山市教育委員会 |
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⑨天徳寺方面へ下る坂道。
家並みの奥に見えるのは松山城。
とにかくお墓だらけです。
のらちゃんも集団午睡中。
茶色は飼い猫さんでした。
坂を下りきり、左に曲がると -
⑩伊予七福神、弁財天霊場の
道後村めぐり・26番。
弁財天です。
合掌。
アップで、さらに合掌。
⑪すみません、もう少し戻って長建寺へ。
境内にある句碑をご紹介。
「母と行くこの細径のたんぽゝの花」 高橋一洵
「もりもりもりあかる雲へあゆむ」 種田山頭火
「与久ミ禮者薺花さく可幾根か南」 松尾芭蕉
「筆に声あり霰の竹を打つごとし」 正岡子規
「子規子選門前尓野菊さき介利長建寺」 大島梅屋
道後村めぐり・25番。
きれいなお庭もあります。
坂を下ってきたところまで戻って -
うとうと、落っこちそう…。
その前に停まってる幼稚園の送迎バス「とら吉」。
な、なぞのようちえん!?
…というのはウソで-
⑫○なぞのようちえん=花園幼稚園でした。
幼稚園は天徳寺境内にあって -
山門前に十六日桜と句碑があります。
「西尓来て杖笠遺す此里の初桜見すて加ぬれ波」 西行法師
十六日桜一本 |
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松山市指定天然記念物 |
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十六日桜は、旧正月の16日ごろに開花する早咲きのヤマザクラの変異種である。 |
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松山市 松山市教育委員会 |
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山裾をなぞるように進むと -
⑬還熊八幡神社。
帰“還”を祈願する参拝者が絶えないお社です。
⑭車道を北へ進んで、
スーパー「ザ・ビッグ 松山山越店」の東の辻 -
お山に向かって右折します。
「山の辺のみち」とは、ちょっと、ここでお別れ。
ボール遊びする子供たちに気をつけながら、
住宅街を山の方へ。
3回かくかく曲がって、
坂がさらに急になった時 -
坂の上からイヨカンが転がってきました。
そのすぐ後を子供たちが全力疾走で下ってきました。
玉を追いかける猫みたいに、僕の横を、
ノンストップで駆け下って行きました。
お山が近ければ自然に自然たっぷりに育つようです。
“昭和”な元気さが懐かしかったです。
⑮分かれ道ではまた寄り道したくて、右へ進みました。
農道を奥へ進むと -
谷の奥に -
⑯鳥居があります。
周りは小屋やモノラック。
「石鎚神社」の額がある鳥居をくぐって -
すぐ右にある清水で -
サワガニ見っけ!
ますます良い環境だなぁ。
細い石段を登り -
赤い灯籠なんかあったりして -
階段正面に石鎚神社があります。
おなじみ?の○に石のマーク。
小さなお社ですが-
しっかり、天狗の面と下駄がありました。
石鎚山のお山開き大祭中は幟も立てられます。
階段は注連石の前にまだ続いてて -
一段高いところにもうひとつ、小さなお社があります。
矢取神社・矢取宮といいます。
手水鉢とお社の後ろ側。
矢取宮 由緒 沿革 再建 |
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矢取宮は |
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昭和57年4月吉日 |
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さっきの分かれ道まで戻ります。
左の道を登ればすぐに丘の上に出ます。
⑰姫原丘陵の登山口に到着です。
ここは、左下に見える姫山小学校の裏門がある場所です。
寄り道しすぎて、夕暮れが迫ってきてしまいました。
ひとりごと | ||
山越の方へ買い物に行くことがこの頃よくあって、この辺の道もよく走るようになりました。 東雲小が母校だから、こっち界隈は土地勘が少しあります。 御幸寺山・姫山の山裾はお寺がとにかく多い界隈です。 城下町に寺町はつきものです。 戦国時代、日本各地には僧兵と呼ばれる武装集団を持った寺社勢力が存在していました。 城北を歩けば、あっちこっちで句碑に出会います。 “伊予山の辺のみち”は、奈良の“山の辺の道”がヒントになっています。 最初の頃は、石手寺がスタートで、後ほど紹介する姫原の比翼塚まででした。 山越から山の辺のみちから外れ、姫原丘陵の天神山へ行く前に、地図で見つけた石鎚神社を覗きに行きました。 石鎚神社の登り口の沢に沢ガニがたくさんいました。 やっぱ、自然が身近にある子供たちは元気に育つんだなぁ。 僕も、家の近所の石手川や、通学路脇の城山は影響大だったと思うもの。 |
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