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現在発行されている地図に山名は掲載されていません。 一部で使用されている“姫山”は西麓にある姫山小学校に由来するものですが、姫山という山名は昔もいまも使われていません。 校名の姫山は、校区にある“姫原”と“山越”から作った造語です。 姫原丘陵は、南は御幸寺山、北は吉藤までの南北に3kmほどの稜線で、送電鉄塔を載せた小ピークが並んでいます。 現在は無名に近い山山ですが、明治時代の地図には多数の山名を見ることができます。
天神山(矢取山・蓮谷山)から北へ、軽ノ山、野津子山、宮山、鳶谷山、西の支尾根にかぶと山・北谷山の名を見つけることができます。 東側の祝谷は伊台の入口で、ため池が北から吉藤池、日之坂池、山田池と造られています。 ため池を源とし、南北に別れ下った河川は、山裾を回り込み、丘陵を取り囲むように流れて鴨川で合流、和気の海に至ります。 西側の山越、姫原は宅地と田畑が混在する豊かな平地が拡がっています。 山裾ギリギリまで宅地開発されています。 宅地に適さない斜面はみかん畑に利用されています。 果樹園以外の斜面は雑木が茂る自然林が多く、耕作放棄された果樹園も雑木林に還りつつあります。 手入れされない雑木林は保水能力が乏しく、大雨による土砂崩れなどが心配されている場所も少なくありません。 東側にはすでに崩落した斜面が見受けられます。 送電鉄塔を保守する巡視路が東西に横断していて登山道として利用できます。 巡視路の一部は、伊台から山越への往来に利用された古道・あか道と重なっています。 姫原丘陵地周辺は古墳時代から縄文時代にかけての数多くの古墳が眠る埋蔵文化財包蔵地の該当区域に指定されています。 姫原古墳群、祝谷古墳群、長建寺古墳の名で丘陵地の大部分が指定されています。 姫山山頂部分は祝谷古墳群に属します。 姫山小から下の平らには縄文時代の姫原遺物包含地、祝谷付近は弥生時代の遺跡・遺物が多数、発見されています。 姫原にある姫池の畔に佇む“軽之神社”と“比翼塚”は、古事記や日本書紀に記述が見られる伝説の地として有名です。 心中(または自決)した木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と軽大郎皇女(かるのおおいらつめ)が祀られています。 古事記では、皇子の弟で後の安康天皇となる穴穂皇子(あなほのみこ)との皇位継承争いに破れ、伊予に流罪となった皇子を皇女が追って来予し、心中したと記述されています。 故に日本最古の心中事件といわれています。 日本書紀では、皇女のみが伊予に流刑され、皇子は政争に破れ、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の館に潜んでいるところを敵兵に包囲され、自決。 古事記とは異なる話が記されています。 皇子と皇女の物語は“衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)”と呼ばれ、古代史の恋愛叙事詩として描かれています。 悲恋で心中した二人を祀っているお墓が“比翼塚”です。 (比翼塚とは、心中した相思の男女を共に葬った塚の俗称で、東京には八百屋お七で有名なお七・吉三の比翼塚が、姫路にはお夏・清十郎の比翼塚があります。) 参考までに、皇子の伝説は川之江にも残されています。 皇子は嵐に見舞われ漂着した川之江で亡くなり、現在、宮内庁管轄の陵墓参考地(皇族墓所の可能性がある陵墓)である東宮山古墳が埋葬地だと信じられています。 西麓には、「美しい日本の歩きたくなるみち500」に選ばれた“伊予山の辺のみち”が設定されています。 石手寺から比翼塚まで、“山の辺”の名の通り、山裾を歩く道です。 (現在の終点は北条大浦駅で総延長は約28km。) |
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| →伊予鉄道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||