権現町のお山
へ行こう!
お山について登山口・ルート登ってみよう!メールホームへ
松尾片山と新田山
距離 約120m
標高差 約20m
距離 約180m
標高差 約20m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
みかん畑
  

国道196号線北条バイパス、
平田町の谷田山(左)と鳥越山(右)の間の、
大きな切り通しからスタート。
国道の上にかかる橋から権現町の方へ北向きに撮影。
これから訪れる新田山、像観山、古城山、牛倒山が、
右奥には青く霞んだ高縄山と大月山も見えています。

  

坂を下り、鳥越山の縁から出ると、
新田山、像観山、佐古田山、古城山、牛倒山、
そして、伊台境の山並み。



  

黄色い壁のお宅がある角が松尾片山への入り口です。
ここからだと-

片山は家並みからやっと顔が出てるくらいの小ささです。

小さく下り-



  

赤い屋根のお宅の角を右折して-

片山の裾野の坂を50mも登ると-



  

左の白壁と石積みの間に-

片山への登り口があります。
人幅の小径が山に向かって続いています。

登ってすぐにある松尾観音堂。

ご本尊は馬頭観世音菩薩。
地図にもよりますが、松尾片山の名は載ってなくても、
松尾観音堂は載ってたりします。

  

フェンスが途切れる辺り-

  

右に振り返るように別れる小径があります。
これを登ると-



見晴らしのいい南東向きの斜面に出ますが、ここで隠れキリシタンの墓が発見されました。

隠れキリシタンの墓

 1559年(室町時代後期)ガスパル・ヴィレラ神父が、修道士を伴って堀江の浜に来た。
これがキリスト宣教師が四国へ初めて上陸したときと言われている。
5年後、ルイス・フロイス神父一行が堀江に滞在したとき、住民6名が洗礼を受けて四国で最初のキリシタンが誕生した。
その後、キリシタンに対する弾圧が厳しさを増し、宣教師や信者はむごい処罰を受けた。
しかし、熱心な信者たちは、密かに信仰を続け「隠れキリシタン」と呼ばれた。
この墓が発見されたのは1975年である。
中央に十字架石、右側に教会石、左側に五輪塔の三つの石碑がそろっておりよく整っている。

松山市堀江公民館


この石たちが見つかった隠れキリシタンのお墓です。
発見したのは子供たちでした。
向かって右端の祠は、キリシタン墓だと悟られないために、
カモフラージュ目的で置かれた祠の可能性が高いそうです。

左から2番目の背の高い石柱をよくよく見ると、
顔が彫られているのが分かります。
聖母マリア様だそうです。
ベールをかぶっているようなデザインになってます。

お墓の後ろはフェンス沿いに登れたりしますが、
こちらからだと山頂部分はヤブまみれで近付くことはできません。
でも、写真に写っている小屋の辺りに立つと-

  

東向きにパノラマが拡がり、
これから訪れる権現町の山並みを一望することができます。
ろうそく山、古城山、牛倒山、日吉山、
奥に高縄山・大月山、像観山、新田山、佐古田山。
ここから見下ろすと権現町界隈はいらかの波が印象的で、
住宅が密集してるようにも見えますが、
家と家の間に田畑が拡がる田園地帯です。

さて、登山道に戻り、もう少し登ります。
フェンスが途切れたら竹林と木立のトンネル。
緑のおかげで国道の騒音もどこか柔らかい感じです。



開ける手前に小さな祠が祀ってありました。

正月飾りがちゃんと祀ってありました。
地元で大切にされてるみたいです。

脇に、枯れ葉に埋もれた瓦のミニ祠。

祠を過ぎると西斜面に拡がる墓地に出ました。
見晴らしがいいので、ちょっとお邪魔させていただきました。



  

和気・堀江方面に向かって拡がる、
西から北にかけてのパノラマです。
片山は低いお山ですが、
マンションやビルが立て混んでないおかげで、
堀江沖の海まで見渡すことができます。
空気が澄んでたら海の向こう、広島のお山も見通せるのですが、
午後にかけて下り坂のお天気だったのですっかり霞んでしまいました。
向かいの山並みは太山寺・勝岡丘陵。
写真中央の家並みの中の小山は花見山。

振り返って山頂を見ると、墓地の上部は濃いササヤブ。
かき分け入ることも至難の業なので、少し戻り-

墓地の端っこ、林との境から入ってみました。



松尾片山の山頂です。
雑木とササが入り乱れて濃く茂り、
冬枯れた季節じゃないと立ち入れないような場所でした。
大量の落ち葉に埋もれ、
城跡らしい地形を確認することはできませんでした。



国道に戻り、反対側へ渡ります。
目印は白い大鳥居。

正八幡神社の鳥居です。
この直線も神社の参道です。

鳥居の右にある石碑。

鳥居をくぐってすぐ右にある祠ですが、
常夜灯のフォルムに惹かれて撮影。

キノコみたいは大きな傘石。
載せると一苦労だったでしょうね。
苔かな?大きなフジツボみたいなものがびっしり。



  

国道から120m、
右に入る最初の道へ右折し、新田山へ向かいます。

郊外らしい一軒一軒敷地にゆとりがある町並を進むと

-


  

参道から260m、左に上る坂道が入口です。

坂の上に見えるお宅の前の-

 

  

Y字路を左に曲がり-

みかん畑の農道を登らせていただきます。

次の分岐は右の上り坂の方へ。
あとは道なりに登って行き、先のカーブを右に曲がると-



簡易舗装も終わり、轍の付いた道を登ります。
小さな新田山、もう山頂にあるスピーカーが見えてます。

下る簡易舗装と出会ったところで左折したら-



新田山山頂に到着です。

山頂にあるコミュニティ放送のスピーカー。

  

お山の上までぐるり、みかん畑の新田山です。

  

山頂からのパノラマです。
田畑の向こうに国道196号線が見え、
さっき登った松尾片山が指呼の先。
谷田山、太山寺・勝岡丘陵、片山、花見山、
堀江の海岸部を挟んで、要害山、ろうそく山、古城山、牛倒山、日吉山、
奥に高縄山・大月山、手前に像観山、佐古田山、
そして国見山、八里ヶ峠などなど。



帰りは南斜面を下ってみました。
降りてすぐのお墓を抜け-

簡易舗装の小径を下って-



車道に出ました。
山裾を右になぞりながらぐるっと歩けば、
数分でのY字路に戻れます。

そうそう、この辺りのお宅は、みんな犬を飼ってて、
歩いてる間中、ずっと吠えられっぱなしでした。
よそ者に厳しい犬のいる町でした (^_^;)

ひとりごと

秋からずっとご無沙汰だったお山歩再開。
遠出したかったけど、スクーターが故障で、自転車で行ける松山郊外のお山にしました。
城北の御幸寺山から姫原丘陵、谷町・平田の山山と、国道196号線の東側に延延連なる山並みは登り終えました。
北条境直前の権現町界隈が手つかずでしたので、ここに決定しました。
朝の国道をシャカシャカと自転車こいでくと、山越えを過ぎた辺りから、歩道を真剣に走る人がちらほら。
2月に開催される愛媛マラソンを目前に控えた週末で、国道196号線はマラソンコース。
みなさん、コース確認と練習を兼ねて走ってらっしゃるようでした。
一方、僕はすっかり体力落ちまくりで、平田交差点から北条バイパスのゆるい登り坂でさえ、自転車こいで上るのも精いっぱい。
寒いからと厚着したのもあって、額に汗しながら切り通しを越えて行きました。

松尾片山は何度も来たことがあって、お山に興味がなかった頃、隠れキリシタンのお墓見たさに来たことがありました。
場所はすっかり頭に入っていました。
GPSにもこの日行くつもりだった近隣のお山のデータを入れた…、つもりでした。
確認のため、GPSを見たら画面は空っぽ、あらら、な~んも入ってません (-_-;)
お山に行く前は必ず、カシミールという地図ソフトでデータを用意します。
パソコンにGPSを接続し、データ転送を行います。
なのに、今回、時間かけて用意したデータをGPSに転送しないまま、家を出てきてしまったようです。
久しぶりのお山歩すぎてボケボケです。
一応、重要なポイントを書き込んだ地図は持って来てました。
大体の地形は頭に入っていたので迷うことはないでしょう。
でも、ここが石鎚山系や赤石山系、地理に疎い南予の方のお山だったらアウトでした。

さて、隠れキリシタンのお墓のことです。
まずは堀江とキリシタンの関係から。
堀江は四国で最初のキリシタンが誕生した地です。
“キリシタン”はポルトガル語で、キリスト教徒と云う意味です。
キリスト教(カトリック)を日本に広めようとしたのがポルトガルの宣教師でした。
だから、英語のクリスチャンではなく、キリシタンが定着したのでしょう。
教科書にも出てくるフランシスコ・ザビエルがインドのゴアで鹿児島出身のヤジロウと知り合ったのが、日本布教のきっかけでした。
薩摩半島の坊津に上陸したのが天文18年(1549)8月。
その後2年間に亘って九州各地、山口、京都と布教活動を行ったのは、戦国時代あたりの歴史の授業に必ず登場する有名なお話。
堀江に四国初めてのキリスト教宣教師・ガスパル・ヴィレラ神父、ロレンソ・ダミヤンら一行が降り立ったのは永禄2年(1559)です。
京都にいる将軍・足利義輝に謁見して布教の許可得ようと、豊後(大分県)を発った一行を載せた船が風待ちのために寄港。
10日間滞在したのが最初だと云われています。
その後の永禄8年(1565)正月、京都を目指したフロイス神父、アルメダ修道士らも風待ちで堀江に入港。
8日間の滞在中、港にたまたま居合わせた、豊後に帰る途中のマノエル・アキマサの家族と出会い、熱心に布教活動を行いました。
ちなみに、マノエル・アキマサの本名は賀茂在昌。
都で陰陽道を伝える公家の賀茂氏・勘解由小路家の人です。
日本随一の天文学者だった彼は、ザビエルから直接洗礼を受け、京都で最初にキリシタンになった人々のなかの一人です。
8日間の滞在中、住民6名が洗礼を受け、四国最初の信徒となりました。
当時のキリスト教宣教師は西洋文化・ファッションの伝道師でもあり、最新兵器をもたらす死の商人でもありました。
流行の最先端を取り入れようとした各地の大名がこぞってキリスト教に入信し、キリシタン大名という言葉が生まれました。
天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国侵攻以降、河野氏に変わって伊予を治めていた小早川隆景も宣教師らには寛容でした。
教会設立を願い出たパードレ・コエリヨ神父らを賓客として手厚くもてなし、豊後へ帰る彼らに金子を贈ったそうです。
四国初の教会は“十文字の丘”という場所に建てられたそうですが、正確な場所は分かっていません。
というのも、織田信長のキリシタンびいきを受け継ぎ、イエズス会に布教の許可証を出していた豊臣秀吉が突如、豹変。
「バテレン追放令」が出され、時代がキリシタン迫害に転じたことで、四国初の教会も1年保たずに破去されたからです。
堀江界隈を中心に伊予にも大勢のキリシタンが存在したと思われます。
慶長18年(1613)には、徳川家康がキリスト教を禁止する禁教令を発令。
以降、邪教となったキリシタンは徳川政権下の260年間、弾圧され続けます。
絵踏みや密告であぶり出された隠れキリシタンは、水責め、火責め、磔はりつけ、打ち首、残虐な刑罰が待っていました。
秀吉、家康が活躍した戦国時代の日本の人口は1200万~1300万人でしたが、キリシタンの総数は70万~100万人とする資料もあります。
加賀の一向一揆、真宗門徒の石山本願寺合戦など、宗教勢力の脅威と何度も戦ってきた秀吉・家康。
彼らの目には、極端に増加したキリシタン勢力も脅威に写ったことでしょう。
一方で、ポルトガルら西欧諸国は、キリスト教改宗を足がかりに、植民地化を推し進める傾向がありました。
事実、キリシタン大名と呼ばれる勢力が西日本を中心に台頭し始めていました。
まだ勢力を拡大する必要があった信長や、北条討伐前までの秀吉は、最新の武器を得るのと引き換えにキリスト教の布教活動を許していました。
けれど、日本全土を手中に収めてしまえば、その必要性がなくなりました。
宣教師らの裏の顔を見知っていた秀吉や家康は、宣教師の追放=キリスト教の排除に転じました。
江戸幕府は隠れキリシタンを摘発するため、寺院に所属することを命じた「寺請制度」を始めました。
法事ごとで出てくる「ウチは真言宗の○○寺の檀家です」の「檀家」が定着したのもこの時でした。
「転びバテレン」など、極刑に屈してキリスト教を捨てた信者も多かったようです。
けれど、明治維新までキリスト教を信じ抜いた人も少なくありません。
隠れキリシタンの遺物は全国各所で見つかっています。
四国初ずくしの堀江を中心に、あっちこっちでそれらしいものが幾つも見つかっています。
松尾片山のお墓が見つかったのは昭和50年(1975)、セミを捕りに来た子供たちが背丈に余るヤブの中で顔が彫られた石たちを発見。
その土地の所有者でクリスチャンでもあった乗松政則がホセ神父、深掘司教と共に調査研究を行いました。
隠れキリシタンの墓は、五輪塔、十字架石、教会石の3つの石碑が南に面して並んでいるのが特徴です。
発見された石たちも3つの石碑が揃っていました。
十字架石は女性の顔が浮き彫りにされていればマリア石、男性ならキリスト石とも呼ばれます。
見つかった石は女性の顔でマリア石のようです。
以上のことから隠れキリシタンの墓と断定されたのでした。
谷町の生木の地蔵も遺物と見られ、石はひとつだけですが、女性の顔が浮き彫りされています。
詳しくは、谷町・平田のお山へ行こう!をご覧下さい。
四国霊場第53番札所の円明寺境内には県下ただ一基の「キリシタン灯籠」と呼ばれる石碑があります。
十字をデフォルメしてT字っぽい姿ですが、どうもお寺は隠れ信者がお参りするのを黙認していたらしいそうです。
そのほか、北条周辺でもたくさん見つかっていて、中島にもあるそうです。

ブログパーツ
     
inserted by FC2 system