権現町のお山
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古城山と牛倒山
距離 約1.2km
標高差 約100m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
みかん畑
立入禁止
  

国道196号線と県道204号長井方堀江線の交わる、
角に堀江小学校がある交差点から再開。
右折して県道204号長井方堀江線を通り、
古城山、牛倒山へ向かいたいと思いますが、
その前に、この辺りの眺め。
ちょっと戻って、権現・大栗方面(東)のパノラマ-

  

こんな感じです。
堀江小の奥にろうそく山(北谷山)、ふたコブに見える古城山と牛倒山、
それに隠れるように高縄山と大月山、
手前に日吉山、中谷山、国見山、像観山、佐古田山。

  

古城山を中心にアップ。 

さてさて、県道へ右折します。
東大栗の「木野山神社」の案内が差す方へ進みます。

この県道204号長井方堀江線をずっと走ると、
松山野外活動センター入口、菅沢・五明にたどり着きます。



福角病院を過ぎると道の両側はすっかり山景色。

 

 

  

古城山の山頂が見える左カーブを過ぎたところに- 



郷谷橋。
川向こうにある赤い屋根の工場が-

白い湯気をむんむん大噴射。
ぎょうざの三桃食品の工場です。

粟井の方へ抜けられる道の入口にあったほのぼのイラスト。



鉄工所の大きな建物が目立つ、
一直線の上り坂(工場は廃業)。
訪問当日は自転車だったので、必死に立ち漕ぎ(^_^;)
いよいよ登り口。
写真の左カーブ右の車道からも登れるけど-

「私有地につき立入禁止」。
古城山下の谷の農地は私有地なので入っちゃダメ。

  

正しい登り口はもちっと先。
右斜めに上ってるガードレールの道がそうです。



再処理場の脇に登り口。

  

上から見るとこんな感じ。
右にくぃっと曲がり上ります。
この先、狭い農道です、駐車スペースありません。



  

農道をてくてく歩いて登ると、度度、分かれ道があります。
基本、高い方、登る方を選んで進みます。

  

この分岐から見た、よく手入れされた柑橘畑の谷越しの、
これから歩く尾根が左から右に続いてて、
写真右端のピークが古城山の山頂。

尾根目指し、登って行きます。

山の陰を通り、ジグザグと高度を稼いで行きます。

  

もうちょっとで海まで見えそうな高さに。
写真左のふたコブピークが牛倒山(左)と古城山(右)。



谷から見えた尾根に出ました。
さすがに尾根です、左に振り返り見たら-

  

大栗の山野越しに高縄山、大月山が良い眺めです。

みかん畑、終り。
木立の中、落ち葉の轍をたどり歩いて-



  

左カーブが登山道入口です。
右の竹やぶに入口が隠れてます。

  

車道はまだ続いています。
奥というか、陽が差してる側は残土の処理場で、
大型ダンプがひっきりなしに出たり入ったりしてます。
行かない方がいいです。
でも、気を付けて行けば、
オオカミが神様の木野山神社んとこに出ます。

竹やぶでカモフラージュされた入口。
よーくよーく見れば降りる階段があります。

降りて振り返って見た階段。
プラスチック製でしっかりしてます。

尾根に降り立てばこの通り、
それと分かる踏み跡が続いています。

竹林を抜けて行きますが、
左側で犬がワンワン吠えてたり、
ダンプがブーブー、騒々しい。
なにがあるかと云えば、さっき書いたけど-

伊台の山間とかに結構たくさんある残土処理場です。
見晴らし良さそう…なんて勝手に立ち入ると速攻で怒られます。
この場所は麓から見ると-

まるで土のダムのような姿。
国道196号線からもこの黄土色の土手は見えるほど、
大々的に埋め立てられてます。



  

牛倒山山頂に通じる尾根にちょこっと登って-

  

道は右に反れます。
牛倒山には登山道が無く、尾根伝いでも5分とかからないけど、
ひとまず、道なりに。

牛倒山を横切る緩い下り坂。

足首まで埋まる落ち葉の絨緞。

小さな登りにはまた階段。

送電鉄塔の巡視路によくあるプラスチック製のやつ。
西之谷城趾の遊歩道用に作った、訳じゃありません。



階段はすぐに終わり。
牛倒山と古城山の間の鞍部へ小さく下ります。
ここから牛倒山に登りました。
左に振り返り-

けもの道をたどって登りました。
牛倒山は三角点も無い小ピークみたいなもの。
夏、ヤブが酷かったら無理しないと登れないかも。

けもの道、イノシシ気分で、よじ登る。



  

数分で尾根に出ます。
山頂は右方向。

尾根をたどります。

左下はさっきの処理場。

古城山山頂で出会うような大岩がゴロっと出てたら-



牛倒山山頂に到着です!
標高は190mほど、古城山より10mくらい低いです。
雑木林が混んでて見晴らしもないので、
山頂を踏み踏みしたところですぐに元来た道を戻りました。



  

牛倒山と古城山の間の鞍部に戻りました。
左右の谷に間違って降りないように進んで-

鞍部を過ぎたら古城山山頂までずっと登りです。
落ち葉が凄いので道が隠れ気味です。
でも、よーく見ればちゃんとあります。



  

もうちょっとで山頂って所にある、
大きな岩がゴロゴロ顔を出してるゾーンが始まります。
道は左に避けて行きますが-

この岩は地元では“福角石”と呼ばれていると、
麓の農園の方に教えて頂きました。

山頂近くなって急に現れる巨石群。
山頂の三角点の点名が「岩山」って名付けられたのも分かる気がします。
西之谷城を築城した時に天然の要害として掘り出したのかも。

  

岩を避けるように登って来ましたが、
もう避けきれません。

岩に付けられた階段を登ります。
でも、風化堆積した土砂で埋もれ気味。
登りより帰りの下りで滑るので気を付けてください



階段を登ったら城跡っぽい舌状の平地がありました。
写真は上から振り返って。

  

冬枯れしてるおかげで、
木木のブラインド越しに堀江方面(西側)から海まで、
パノラマが見られました。

いよいよ、山頂かな?

階段を登ったら-

まだ一段ありました。
下の平地より狭いですが、地面が露出して木も無いので広く感じます。
城跡の一部に違いないのですが、つい最近、人の手で整地されてます。
実は、高いお山によくある大きな反射板が一時期、ここにあったのです。
登山道や途中の階段が整備されてた訳は、
その反射板を撤去するために付けられたからでした。
城跡や山頂への遊歩道じゃないのだけど、
いまとなっては遊歩道扱いでOK。



下の段から2mも登ったら、古城山山頂に到着です!
山頂は楕円形に一番広く平らかです。

「岩山」四等三角点。
標高は、201.42mです。

いま登ってきた場所を上から。

  

急斜面で足元注意の端っこに立ってパノラマ撮影。
眼下の谷は権現町、像観山や谷田山の向こうに堀江地溝帯。
太山寺丘陵から顔を出してる山は興居島の小富士。
堀江海水浴場の砂浜から免許センターがある勝岡を経由し、
白石ノ鼻まで続く弓状の海岸線もくっきり。

  

垣生から伊予市、下灘方面まで海岸線も見えます。
逆光で上手く撮れなかったけど、
中山の黒岩岳や牛ノ峯などの山並みも、
肉眼ではもっとしゃんと見えてました。

さて、反対側の端っこへ。



北西の端っこ。
ここも一段下に小さな平地があります。

左が三角点がある方、右が奥の端っこ。
西之谷城が作られた時に平削された地形が何百年も残ってる不思議。
まさに地形の記憶、ですね。

これは 『愛媛中世城館 分布報告書』に載ってる、
西之谷城(西谷城)略測図(縄張り図)です。
でも、実際に歩いた感じでは南東側が3段になっていたので、
この図は180度、上下逆さまになってる気がします。

電波塔が目印の高縄山。

北条方面も見通せます。

  

それでは…と思ってパノラマ撮ったら、
手前の枝にピントが合ってしまい、恵良山とかボケボケに(>_<)
ウチのカメラはパノラマ撮影機能に手動ピント調節が効かないのです。
とほほ。


ひとりごと

先日、像観山に登ったあと、お天気が下り坂で、お山歩中断。
それから4日後、出直した古城山お山歩です。
今回はさすがにちゃんとGPSにデータ入れて出かけました。

自転車漕いで権現町へ。
ろうそく山を左に見ながら県道を上りました。
山間にさしかかっても傾斜が緩やかだったおかげで自転車に乗ったままでも上ることができました。

古城山の登山道は地図にも載ってないので、三角点の記録「点の記」だけが唯一の資料でした。
“郷谷橋から500mのところに上り口がある”とのことだったので、のところから登ろうとしたのですが、立入禁止。
先に正直云いますが、叱られました。
農道だと思った道が実は谷間で柑橘畑をされてる農家さんの私有道で、「看板が見えなかったの」と呼び止められてしまいました。
頭を下げ、「お山に登りたいのですが…」と悪気がないこと、事情を正直に説明。
農家さんはとても優しい人で、それならと、快く理解してくださいました。
道からして私有地ですから、こちらは悪く云えば不法侵入です。
みかん泥棒や山菜泥棒、TVや冷蔵庫みたいな粗大ゴミを捨ててく人とか、入り込んで悪さする人もいます。
まぁ、普通でも、見知らぬ進入者に、誰?ってなるのは当然です。
その後、話が弾みました。
農家のお父さんは、古城山や牛倒山などの名前はご存じありませんでした。
登山道も無いとのお話しでしたが、山頂に反射板を設置した際、東麓にある畑から尾根伝いに資材を担ぎ上げたことがあったそうです。
でも、その畑はもう耕してないし、元元、道がない場所で、ヤブにまみれたいまは上がれない。
(立入禁止じゃない方の)農道が尾根まで続いてるから、尾根から遠回りでも歩いて行けるんじゃないか、と教えてくれました。
立入禁止の先の急斜の谷をよじ登っていたら、30分かかっても登れてなかったでしょう。
いまは思うので、呼び止めてもらって大いに助かりました。
また、「山頂に大きな岩がゴロゴロしているが、あの岩はここいらじゃ「福角石」と呼ばれてる岩の種類だ」
「東大栗の白山の南にある祠のピークが「観音山」と呼ばれていて、大栗の人たちで交替で草刈りして祠を守っている」
などなど、小栗界隈の興味深い話も教えてもらえました。
去り際、お母さんがみかんの入った袋を下さいました。
農家の人はなんて優しいんだろうと感動しながらお山を目指しました。

教えてもらった通り、農道を登り、尾根に着いたらあっさり、登山道が見つかりました。
お父さん、ナイス・アドバイス!
そこからはもう、道をたどるだけで山頂に立てました。

古城山にあった城砦は、『愛媛中世城館 分布報告書』では“西之谷城”ですが、『権現町誌』では“西谷城”となっています。
『愛媛中世城館 分布報告書』の基本データでは、縦47m、横12mの4連郭、井上左右衛門尉重国が居城。
『温故録』『古城跡』など多くの資料に登場するお城のようです。
『権現町誌』によると、城主だった井上氏の子孫は権現町に住んでて、系図も現存しているそうです。
始祖は嵯峨天皇(786~842)の第18皇子に始まります。
初代は藤原、2代目は越智、3代目が温泉郡井上郷に移住したのをきっかけに井上姓を名乗り始めたそうです。
井上氏は藤原純友の乱、源平合戦と活躍し、11代目の信宗がこの西之谷に移住、山の上に城を建てたのが西之谷城の初まりでした。
12代目で2代目城主の康重は蒙古の襲来に対し、河野通有に従って九州で奮戦。
13代目で3代目城主の光重の代、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国侵攻で河野氏が没落。
湯築城が陥ると同時に西之谷城も破去されました。
天正15年(1587)、光重は、芸州竹原に移った河野通直に従い、伊予を離れました。
通直が没した後、長門でなく亡くなったそうです。
その時、まだ幼かった子の重綱は権現に留まり、14代目を継ぎ、いまに至っています。

さて、古城山山頂から下山後、取り急ぎ、農家のお父さんに報告。
反射板はもう無くて、その代わり、尾根伝いに道ができてました、と伝えました。
反射板を撤去した時に道を付けたのだろうと、お父さん。
とりあえず、おかげで楽に登れましたとお礼を述べて帰りました。

というわけで、権現界隈のお山歩、ひとまず終了。
ホントは行けなかったお山がまだまだあったんですけどね。
久しぶりのお山歩で、忘れ物したり、叱られたりと、ボケボケでした、反省です。

御幸寺山から姫原、潮見、平田、そして権現と山並みをたどって旧北条との境までほぼ繋がりました。
北条・高縄山の山裾を巡れば新旧松山市のお山はほぼ登ったことになります。
もちっとがんばるぞ!

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