松尾片山

  

新田山・松尾片山、佐古田山から

  

古城山・牛倒山・像観山・新田山・佐古田山、国道196号線から

  

像観山・佐古田山、新田山から

  

像観山、北側から(日吉山から)

像観山、佐古田山から

  

古城山・牛倒山、佐古田山から

  

古城山・牛倒山、堀江小学校付近から

牛倒山、南麓から

松尾片山(まつおかたやま)
愛媛県松山市福角町
標高約30m
※三角点はありません。

新田山(にったやま)
愛媛県松山市福角町
標高約40m
※三角点はありません。

像観山(ぞうかんざん)
愛媛県松山市権現町・福角町
標高74.7m
別名:八幡山、宮山、盛能山
※三角点はありません。

佐古田山(さこたやま)
愛媛県松山市権現町・福角町
標高77.2m
別名:見光寺山
▲山頂の三角点
点 名 権現
種別等級 四等三角点
地形図 松山-松山北部
緯 度 33°53′41.2332
経 度 132°45′53.3082
標 高 77.16m
所在地 愛媛県松山市権現字周郷乙285番地1

古城山(ふるしろやま)
愛媛県松山市権現町・東大栗町
標高201.4m
別名:城山、岩山
▲山頂の三角点
点 名 岩山
種別等級 四等三角点
地形図 松山-松山北部
緯 度 33°54′27.2984
経 度 132°46′26.4217
標 高 201.42m
所在地 愛媛県松山市大字権現字西ノ谷乙19番地

牛倒山(うしたおしやま)
愛媛県松山市権現町・東大栗町
標高約190m
別名:西ノ谷山
※三角点はありません。

権現町界隈は松山市街北部に位置し、高縄山系の緩やかな山裾が堀江地溝帯に消える場所です。
(北から)郷谷川、中谷川、権現川が山裾を複雑に削り、入り組んだ支尾根に分離丘陵が点在しています。
丘陵地の合間には地味豊かな農地が拡がり、日当たりの良い丘陵の斜面には柑橘類の畑が拓かれています。

権現のある和気・堀江地域は、古代から現代にかけて様々な歴史が刻まれた地です。
3~7世紀にかけては北谷古墳を代表する古墳が多数築造されました。
熱田津にぎたつに代表される古代伊予の玄関口として栄えました。
中世は河野氏に与する武将らの出城が築かれました。
松山と今治を結ぶ今治街道沿いの町として発展しました。
大正に入って温泉が発見されて以来、権現温泉を中心に観光地として発展した湯の里です。

松尾片山は、周囲の住宅からわずかに頭を覗かせる、みかん畑と墓地に利用された、ささやかな分離丘陵です。
東麓入口にある松尾観音堂を過ぎた斜面で、子供たちが偶然発見した隠れキリシタンの墓があります。
古くは大内郷と称していたこの界隈は、四国で最初にキリシタンが誕生した地でもあります。
最初に上陸したキリシタンは、ポルトガルの宣教師人ガスパル・ヴィレラ神父だと云われます。
永禄2年(1559)、豊後の国を発って京に上る途中、風待ちで堀江の港(浜)に寄港しました。
次いで永禄8年(1565)正月、京都を目指したルイス・フロイス神父、アルメダ修道士らも風待ちで堀江に入港しました。
その8日間の滞在期間中に感化された6名の地元住民が洗礼を受け、四国最初のキリシタンとなりました。
天正15年(1587)には、河野氏に代わって治めることになった小早川隆景から遇され、教会や教会付属の学校も建てられました。
けれど、翌年に始まった秀吉のキリシタン追放令で破去。
為政者が家康に代わって後もバテレン追放でキリシタンは激しく弾圧されます。
けれど、信仰の灯は消えることはありませんでした。
それとわからぬようひっそりと十字が刻まれ、マリア像を思わせる女性の顔が浮き彫りされた墓石が残されています。
谷町の生木の地蔵、和気・円明寺のキリシタン灯籠など、周辺にはほかにも隠れキリシタンの遺物がみられます。
また、頂には福角城という中世城址があったと云われ、福住左衛門五郎・与四郎の居城したという伝承があります。

像観山は、町の中心にある、鎮守の杜です。
西麓の正八幡神社、薬師院東林寺の神領で、森は松山市の景観樹林保護地区(第41号)に指定され、保護されています。
東林寺はもともと、目と鼻の先にある花見山に、貞観元年(859)、 伊予国司・越智宿祢おちすくね息村が建立しました。
伊予の各所に設けた八幡宮のひとつで、神社に付随する神宮寺です。
正平23(1368)年、花見山に出城が築かれることになりました。
寺は、当時、盛能山もりのうざんと呼ばれていた地に移され、それを期にお山は像観山と改められました。
正八幡神社に因み、八幡山とも呼ばれています。
正八幡神社は、松山に24社ある八幡系神社の内の、日尾八幡、湯月八幡、還熊八幡などで構成される八社八幡のひとつです。
中世城址の鏡山城が神社境内付近にあったと云われています。
築城者・城主など、詳細は分かっていません。
尾根で繋がった東の峰には町内で湧出した温泉を利用した温泉旅館の権現山荘があります。
北麓の権現温泉は、大正の初期に高橋浅蔵、高橋義一両氏によって発見されました。
大正13年(1924)、共同浴場を設けたことにより、権現温泉は始まりました。
当時は源泉の場所をとって「友国温泉」と呼ばれ、効能の高さも相まって旅館も立ち並ぶほど、盛況となりました。
昭和6年に訪れた放浪歌人・吉井勇は“大伊予の友国の湯にひたりつつつ ほのぼのとしてものをこそ思ヘ”と詠いました。
昭和33年に行った2度の泉源開発が成功し、松山で起こった温泉開発ブームのきっかけともなりました。
共同浴場は平成6年にリニューアル、お山歩や海水浴帰りの立ち寄りに最適です(宿泊も可能)。

新田山佐古田山は、みかん山です。
新田山は像観山の分離丘陵のような小さな小山です。
佐古田山は像観山と尾根繋がりのお山で、山頂に三角点を有しています。
両山とも山頂まで開墾されているので見晴らしが良く、佐古田山山頂からは堀江沖の海も一望のパノラマが楽しめます。

古城山牛倒山は、権現の東後背、西の谷に聳えるお山です。
古城山はその名の通り、城砦が築かれていたお山で、牛倒山はその支峰です。
古城山山頂には、西之谷城にしのたにじょうが、井上信宗によって築かれていました。
信宗の子の第2代城主・康重は、弘安の役の元寇・蒙古襲来に河野通有に従って活躍するなど、河野氏の一翼を担っていました。
光重の代になり、長宗我部の伊予侵攻、秀吉の四国侵攻で河野氏は没落。
光重は、芸州竹原に移った河野通直に付き従ったため、同時に西之谷城は破去されました。
山頂部分は「福住石」と地元で呼ばれるさざれ石状の小石混じりの大岩がゴロゴロと露出しています。
三角点のある山頂部は城跡らしく平坦で、以前、役所が反射板を建設したことがありましたが、いまは撤去されています。
その撤去工事の際に拓かれた尾根伝いの小道が登山道として利用できます。

これらの山々は現代の地形図上では山名の記載がない無名峰です。
松尾片山、像観山については、古文書や史跡の史料に多数、記載が見られます。





明治に作成された地誌地図では、松尾片山は片山、像観山は宮山と記載されています。
新田山、佐古田山はこの地図にのみ載っています。古城山と西ノ谷山と書かれた牛倒山があります。
古城山の手前は郷谷山と云い、郷谷川の源流らしい名前です。明治に陸軍が作成した松山市の地図。
古城山は城山、牛倒山はこの地図に登場する名前です。
※“古城山”より“城山”の方が現代に近い表記です。
城山は同名の山があちこちにあるので、当サイトでは古城山の方を採用いたしました。

五明へ
3km
480m 堀江小 古城山
牛倒山
権現温泉
松尾片山 伊台へ
120m 170m 像観山
8km 260m 正八幡神社
330m
新田山
佐古田山

松山駅

松山市駅

JR予讃線
西条・高松行き
伊予鉄バス
北条線

堀江駅

伊予鉄道 →JR四国(鉄道)
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