へ行こう!
日浦~銅山越
銅山越~木方~東延 | ||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭ | ||||||||||||||||
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①下山は、近道ルートで下りました。
さすが近道ルート、ぎゅんぎゅん下ります
②大回りでゆったり高度を稼いだ牛車道に比べ、こちらはさすが近道、一息に下ります。
登りに使うと早いだろうけど、
比例して疲れたかも。
③10分足らずで牛車道との分岐に着いてしまいました。
④登りに見送った「延喜の端」へ。
ざらざらな小径を登ると-
⑤何もないピークが延喜の端です。
けれど、向かい側の目出度町など、
かつて別子銅山支えた一帯を一望することができます。
鉱山街があった頃の写真を見ると、
採鉱関係者の住居が斜面に張り付くように並んでいました。
薪や建材用に次々と伐採され、山はみな禿げ山のようでした。
地力を失った山に台風が来襲、大雨により、
山肌はもろく崩壊を始めました。
明治32年8月、山津波と例えるほどの大規模な土砂崩れが発生。
死者総数513名、倒壊家屋122戸。
一瞬にして大勢の人々を命を奪いました。
そんな悲劇に見舞われた山は100年かけて植林が繰り返され、
山津波の話が嘘のように緑に包まれています。
前山と牛車道 |
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正面に見える範囲を前山という。 |
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正面の深い木立のある辺りが元禄7年(1694)以来銅山の本部である勘場があったところで、その下の方が目出度町鉱山街であった。 |
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※表門:勘場(重任局)入口に石積みの門があり、これを表門と称した。 | ||
旧別子中心部の展望 |
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正面、西南に見えるのがつなくり山で、その裾の樹林帯の中に銅山の中心街目出度町があった。 |
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④寄り道終了、木方へ下ります。
⑥「勘場跡」です。
左の土手に小さな祠を見つけました。
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⑦「木方吹所」へ。
雑木にすっかり埋もれてます。
木方の森は旺盛でなにもかも呑み込もうとしているかのようです。
木方吹所と焼鉱窯場 |
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吹所とは製錬所の古い呼称である。 |
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⑧更に下ると、木方ルート一番のびっくりポイント!
高くて狭い堤防の上を歩くんです。
ヨソなら立ち入り禁止、渡るべからずゾーン。
手すり代わりのワイヤーが片側にあるけど、
やっぱりビビりました。
⑨東延への分岐がある三差路に到着。
またまた寄り道、左折して東延へ行ってみます。
「ダイヤモンド水経由45分 登山口↓」
「←銅山越 寛政谷木方経由40分
南口(代々坑)経由20分 東延斜坑→」
⑩東延へはまず、用水路沿いの道から。
道の脇に-
なにかの建物跡らしい、レンガの塊がありました。
壊れたのか、壊されたのか、元の姿形が全然想像つきません。
⑪用水路の先の広場に出ました。
坑口がぽっかり開いた「第一通洞南口」です。
当然、こちらも立ち入り禁止です。
第一通洞南口(標高1,110m) |
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この附近一帯は通称ミナミグチと言う。 |
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坑口の右にある小径を登ると-
⑫谷を大きく塞ぐ、すごく立派な石垣がありました。
積まれた石が大振りで、これまでの石積みと違っていたので、
最近作られたものかと思ってしまいました。
石垣下部にある穴はずっと上まで繋がっています。
東延地区 |
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この谷の上部が東延地区である。 |
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⑬さらに登って、「東延」の中心部へ向かうと、
さらに訪れる人が少ないせいか、雑草が廃墟の主。
またレンガの塊がありました。
背後の崖は崩れて危険なため、ロープで規制されたりしてました。
柵で厳重に囲まれた「東延斜坑」です。
覗いても草まみれの穴が見えるだけです。
東延斜坑跡 |
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この辺りは別子鉱床の東の端に当たるが、地下深部に三角と言う所があり、そこにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っている事が以前から分かっていた。 |
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谷に近寄って見つけた水路。
この穴が先の石垣の穴に通じています。
煉瓦造りの建物も残っていましたが、
雑草に行く手を阻まれ、近づけませんでした。
今日はキノコにも沢山、出会えました。
寄り道、終了、分岐へUターン。
⑩の分岐に戻り、階段を下ります。
どんどこどんどん、下ります。
丸太の運搬装置を横目で見つつ、
どんどこどんどん、急降下。
⑭目出度町ルートと木方ルートとの分岐まで戻ってきました。
急な階段の先にある橋は、
鉄パイプなど、廃材でできたユニークな橋。
歩くとパイプの床が微妙にたわんでちょっとドキドキしました。
「…しました」というのは、
実はいまはもう架けかえられてすでに無いからです。
2007年、木製の橋に架けかえられました。
小足谷川の清らかな流れ。
あのエメラルドグリーンはいまでも網膜に焼き付いています。
ここから先は往路と同じ、ダイヤモンド水、劇場前を通って下山します。