旧別子銅山
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日浦~銅山越
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銅山越~木方~東延
距離 約2.1km
標高差 約240m
徒歩
下記写真の場所

下山は、近道ルートで下りました。

さすが近道ルート、ぎゅんぎゅん下ります



大回りでゆったり高度を稼いだ牛車道に比べ、こちらはさすが近道、一息に下ります。

登りに使うと早いだろうけど、
比例して疲れたかも。



10分足らずで牛車道との分岐に着いてしまいました。



登りに見送った「延喜の端」へ。

ざらざらな小径を登ると-



何もないピークが延喜の端です。
けれど、向かい側の目出度町など、
かつて別子銅山支えた一帯を一望することができます。
鉱山街があった頃の写真を見ると、
採鉱関係者の住居が斜面に張り付くように並んでいました。
薪や建材用に次々と伐採され、山はみな禿げ山のようでした。
地力を失った山に台風が来襲、大雨により、
山肌はもろく崩壊を始めました。
明治32年8月、山津波と例えるほどの大規模な土砂崩れが発生。
死者総数513名、倒壊家屋122戸。
一瞬にして大勢の人々を命を奪いました。

そんな悲劇に見舞われた山は100年かけて植林が繰り返され、
山津波の話が嘘のように緑に包まれています。

前山と牛車道

 正面に見える範囲を前山という。
稜線の窪んだところが銅山越えで、そこから左に一条の線が見えるのは明治13年に造られた牛車道である。
峠からジグザグに下った道が昔からの中持道で沢山の人々が行き交っていた。
その下のヒノキ林の中には歓喜・歓東間符があり、辺り一帯は山方集落といって鉱夫さんが住んでいた。
更に手前の雑木林の中には江戸時代に砕女かなめ小屋という選鉱場があって、ひねもす選鉱婦の嬌声がこだましていた。
更に手前の方は鍛冶屋谷集落といって、選鉱関係者の住居がひしめいていた。
 左の山肌にかすかに見える横線は牛車道の跡で、重任局の銅蔵を出発した牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。

勘場(かんば)見花台(けんかだに)

 正面の深い木立のある辺りが元禄7年(1694)以来銅山の本部である勘場があったところで、その下の方が目出度町鉱山街であった。
右の方で岩山の山頂が石垣で囲われているのが蘭塔場である。
櫓太鼓のある勘場の右の谷は土持谷で、蘭塔場の裾を巻いていた牛車道は土持谷に架る永久橋を渡って勘場の表門まで通じていた。
 左の谷は見花谷(喧嘩谷)、更にその左の谷は両見谷(了見谷)といい、あの急な山肌にしがみ付く様に製錬関係者の住宅が重なるように建っていた。
明治32年8月28日に来襲した台風で背後の山が崩れて山津波となり、513人という生命が一瞬のうちに奪われた。

※表門:勘場(重任局)入口に石積みの門があり、これを表門と称した。

旧別子中心部の展望

 正面、西南に見えるのがつなくり山で、その裾の樹林帯の中に銅山の中心街目出度町があった。
樹林帯の中央部三本のもみの大木の左に重任局跡が残っている。
つなくり山の左半分を梳る二本の沢の左が両見谷で右が見花谷である。
西の風呂屋谷と北の歓喜谷に挟まれて眼下に見える石積みは別子病院跡で、明治末期には鷲尾翁の自彊舎が開かれたところである。
車道の跡が残り、背面東南の寛政谷の両側には焼鉱炉の跡が多数ある。
南東の東延谷の彼方稜線の端に見える砲塁の様な石積みは高橋上部の焼鉱炉跡で、東の山腹に見えるコンクリートの壁は東延火薬庫の跡である。

寄り道終了、木方へ下ります。



「勘場跡」です。

左の土手に小さな祠を見つけました。

木方部落跡

 この一帯を木方といい、道をはさんで上下に多くの焼鉱炉が河原から上の樹林の中には建屋や住宅がびっしりと並んで建っていた。
石垣は明治25年(1892)目出度町から移転した重任局(銅山事務所の跡であり、その左側には勘場(会計)が並んでいた。
目出度町と木方との間には足谷川を挟んで多くの橋や暗渠があり、橋脚の石積のみが見られる。
この先の谷や両見谷つづいて見花谷で下部の樹林の中には鉱夫の往宅が密集して建てられていたが明治32年(1899)8月の台風で見花谷の部落は山津波によって下の川に流され多数の死者(金山で513名)が出た。



「木方吹所」へ。
雑木にすっかり埋もれてます。
木方の森は旺盛でなにもかも呑み込もうとしているかのようです。

  

木方吹所と焼鉱窯場

 吹所とは製錬所の古い呼称である。
開坑当初は下の床屋ともいった。
下の方の谷間は両岸とも絶壁になっていて、その上にせり出す様に荒吹炉と間吹炉が建ち並んでいた。
ここに吹床(昔の熔鉱炉)が置かれていたのは開坑後まもない元禄年間のことである。
以来明治30年頃まで200年余り鉱山の心臓部として機能してきた。
 この辺りの地名はキ力タと呼ぶが、木方とは薪を多量に使って鉱石を焼くことから、そう呼ばれる様になった。
これから上部一帯には何百という焼窯が重なるように並んでいて、立ち上がる排煙はしばしば日光を遮ったという。
この平坦地には千窯という明治になってから改良された効率の良い焼鉱炉があったらしい。



更に下ると、木方ルート一番のびっくりポイント!
高くて狭い堤防の上を歩くんです。
ヨソなら立ち入り禁止、渡るべからずゾーン。
手すり代わりのワイヤーが片側にあるけど、
やっぱりビビりました。



東延への分岐がある三差路に到着。
またまた寄り道、左折して東延へ行ってみます。

「ダイヤモンド水経由45分 登山口↓」
「←銅山越 寛政谷木方経由40分
 南口(代々坑)経由20分 東延斜坑→」



東延へはまず、用水路沿いの道から。
道の脇に-

なにかの建物跡らしい、レンガの塊がありました。
壊れたのか、壊されたのか、元の姿形が全然想像つきません。



用水路の先の広場に出ました。
坑口がぽっかり開いた「第一通洞南口」です。

当然、こちらも立ち入り禁止です。

  

第一通洞南口(標高1,110m)

 この附近一帯は通称ミナミグチと言う。
別子銅山の近代化はこの附近から始った。
明治9年(1876)東延斜坑の開削が始り明治19年には嶺北角石原からの通洞が代々坑に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1,020mにおよぶ水平坑道が初めて出現した。
以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平へ移るまでの30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。
また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、はじめて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の拠点東延時代の一翼を担っていた。
往時はこの谷にトラス橋が架かり高橋製錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された組銅を運んでいた。

坑口の右にある小径を登ると-



谷を大きく塞ぐ、すごく立派な石垣がありました。
積まれた石が大振りで、これまでの石積みと違っていたので、
最近作られたものかと思ってしまいました。
石垣下部にある穴はずっと上まで繋がっています。

  

東延地区

 この谷の上部が東延地区である。
明治7年(1874)住友家が招いたフランス人鉱山技師ルイ・ラロックの構想に基き明治9年から近代化の開発が始まった。

 あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。
谷川の流水は赤煉瓦30万枚を使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。
造成当時の用地面積は約6,600㎡、造成に要した作業者の数は延べ23,000人であった。
ただし、冬季4~5ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦を作った。



さらに登って、「東延」の中心部へ向かうと、
さらに訪れる人が少ないせいか、雑草が廃墟の主。
またレンガの塊がありました。
背後の崖は崩れて危険なため、ロープで規制されたりしてました。

柵で厳重に囲まれた「東延斜坑」です。

覗いても草まみれの穴が見えるだけです。

東延斜坑跡

 この辺りは別子鉱床の東の端に当たるが、地下深部に三角と言う所があり、そこにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っている事が以前から分かっていた。
明治7年(1874)住友家の要請を受けた鉱山技師ルイ・ラロックは、この一転を選んで斜坑を掘り、三角の富鉱体に到達させ、その間に階段状に水平坑道を開削して鉱床に逢着させる。
採掘した鉱石は斜坑に集約して出鉱するという新生別子鉱山案を提起した。
ただ、当時日本の鉱山では本鋪という大きな坑道でも5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度であったが、ラロックの東延斜坑口は幅20尺(6m)高さ9尺(2.7m)もあった。
しかし、当時の住友の実力者広瀬宰平が、敢えてこの大起業に挑んだのは、彼が11歳で別子鉱山に奉職し、三角の大富鉱体を見ており、三角に賭ける山内の熱い空気に触れていたからであろう。

谷に近寄って見つけた水路。
この穴が先の石垣の穴に通じています。

煉瓦造りの建物も残っていましたが、
雑草に行く手を阻まれ、近づけませんでした。

今日はキノコにも沢山、出会えました。

寄り道、終了、分岐へUターン。

の分岐に戻り、階段を下ります。
どんどこどんどん、下ります。

丸太の運搬装置を横目で見つつ、
どんどこどんどん、急降下。



目出度町ルートと木方ルートとの分岐まで戻ってきました。
急な階段の先にある橋は、
鉄パイプなど、廃材でできたユニークな橋。
歩くとパイプの床が微妙にたわんでちょっとドキドキしました。

「…しました」というのは、
実はいまはもう架けかえられてすでに無いからです。
2007年、木製の橋に架けかえられました。

小足谷川の清らかな流れ。
あのエメラルドグリーンはいまでも網膜に焼き付いています。

ここから先は往路と同じ、ダイヤモンド水、劇場前を通って下山します。

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