旧別子銅山
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日浦~銅山越
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目出度町入口~歓喜坑~牛車道~銅山越
距離 約1.2km
標高差 約140m
徒歩
下記写真の場所

目出度町ルートと木方ルートの合流分岐点の三叉路から。
石段を登り、牛車道、そして銅山越を目指します。

「←登山口 銅山越↑」

石段を登って行ると、間もなく-



右斜め後ろに、山に向かって登る分岐があります。
これは「延喜の端」という展望の利く小高い丘へ行く道です。
紹介は後ほど、下山ルートの「木方」篇にて。



道端に、口を開いた横穴を見つけました。
坑道の跡でしょうか。
しゃがんで入れるくらいの大きさなので、空気穴かな?

そんな発見もありつつ、
ゆるゆると登っていると-

石畳になりました。
またなにかあるぞ、と思ったらやっぱり-



「歓喜坑」エリアへの入口がありました。
道標が案内する右の道へ、寄り道します。

「歓喜坑入口→」



小径を抜けるとそこは小ぎれいな広場になっていました。
二つの坑口が並んで出迎えてくれます。
左が「歓喜坑」、右が「歓東坑」と云って、
江戸から明治にかけて200年間も採掘が行われた、
別子銅山の生命線でした。
広場にはベンチセットもあり、休憩に最適です。

歓喜坑。
歓喜坑共に、坑内立ち入り禁止です。

歓東坑。
坑口脇の甕に清水がなみなみ注がれています。
美味しくて再び、体力復活しました。

  

別子本鋪(標高1210m)

 本鋪とは一山の主たる生産坑のことである。
元禄4年5月9日、幕府の稼行許可を得て、泉屋は直ちに開坑の準備に取りかかった。
その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を摘り出すまでの工程を組み込むために、こにに中心となる坑道を開けることにした。
前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭田向重右衛門が下した決断であった。
かくして別子山中に最初に開いた坑口がこの歓喜間符と歓東間符である。
重右衛門が考えた通り、以来明治になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。
背後の平坦地には鋪方役所があって、負夫によって運び出された鉱石は重さを計って買い取り、砕女小屋へと運ばれた。
 上方一帯、ヒノキの木立の中には、山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。

※現在も稼行許可の日に大山積神社(新居浜市角野新田町)にて、在浜住友連系各社による例大祭が斎行されている。

石畳の登山道に戻り、
とぼとぼ、登ります。



またまた分岐。
左が牛車道経由、まっすぐは銅山越への近道です。
今回は左の牛車道へ進みます。

「←牛車道経由銅山越 銅山越近道→」



等高線に沿って登るような小径は不意に、
木立が途絶えて見晴らしのいい道に変わりました。

日当たり良い小径に咲いてた白い花。

やっと、登山口方面を見下ろせる高度まで来ました。
真下のピークのコの字の石積みはさっき寄り道した蘭塔場(蘭塔婆)です。
登ってきた目出度町ルートは谷の右側に、
左斜面に木方ルートがあります。
もやがかかっていなければ、
谷の遙か先に三ツ森山や大座礼山を目にすることができます。

  

蘭塔場と木方展望

 眼下に見える岩山の石ガコイが蘭塔場である。
後ろの谷間には木方役所があって、その左の斜面では無数の焼窯が年中白煙を吐き、右の山側には吹方(製錬関係者)の住宅が重なるよう建っていた。
その手前の森が勘場で、下方の林の中には目出度町があった。
開坑以来銅山の心臓部として繁栄した。
然し、銅山の繁栄には尊い命の代償があった。
中でも元禄7年(1694)に発生した大火災は、山片の元締めであった杉本助七をはじめ132名にのぼる焼死者を出し、設備の大半が焼失するという大惨事であった。
泉屋ではその犠牲者を手厚く葬り、一祠を建てて供養したのが蘭塔場で、以来、職に殉じた御霊を合祀し、盆供養を欠かしたことはない。

※蘭塔法要

旧別子蘭塔法要:毎年、住友金属鉱山(株)をはじめ住友関係者が登山し、盆供養が行われている。

瑞応寺蘭塔供養:瑞応寺境内に移された墓碑の前で、住友金属鉱山(株)関係者による盆供養が毎年行われている。

「牛車道」は文字通り、牛が車を引いて荷を運んだ道です。
なだらかな迂回路になっています。



緩やかに開けた谷に入ったら、銅山越の尾根までもうひとふんばり。
明治7年、広瀬宰平はフランス人技師ラロックを雇います。
彼の近代化プランを元に牛車道は、東延斜坑、高橋製錬所と共に建設されました。
この道が開通するまでは仲持(なかもち)と呼ばれる人たちが、
担いだり、背負ったりして新居浜まで運んでいました。
開通後、運搬は、人から近江牛18頭に交代しました。
当時としては画期的な進歩でした。

牛車道

 正面に見える範囲を前山という。
稜線の窪んだ所が銅山越えで、そこから左に一条の線が見えるのは明治13年に造られた牛車道である。
 重任局の銅蔵を出発した牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。



森の中を歩いていた時は前ばかり見て歩いてたのに、
見晴らしが良くなったら-

振り返って見下ろす回数が増えました。
思えば遠くへ来たもんだ…。



大きくジグザグと登っていたら、
左から来た道と合流しました。
今度の分岐は、外へ通じる分岐です。

「笹ヶ峰→」の道は、西山の裾を巻き、
大永山トンネル脇の登山口に通じるルートです。
笹ヶ峰、平家平への尾根縦走路に繋がっています。

三ツ森山や大座礼山の輪郭がなんとか見えました。



標高1200mをとっくに越えて、心なしか木々の背が低くなってきたような。

道の脇に生えてたこの植物(?)。
一体何者?



銅山越目前の丁字路です。
で別れた近道と合流、銅山越は左です。

「←笹ヶ峰 日浦↓」

銅山越まで、ラスト数十m。
にしきぎ科のツリバナが実を付けていました。
にしきぎ科はマユミが好きです。



そして、ついに到着です!

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