旧別子銅山
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日浦~銅山越
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登山口~小足谷集落跡~ダイヤモンド水
距離 約1.5km
標高差 約200m
国道・県道
徒歩
下記写真の場所

県道47号新居浜別子山線沿いにある日浦登山口です。
道路の拡幅に合わせ、綺麗に整備された登山口です。

ちなみに、別子山方面から見るとこんな感じ。
坂の途中にあるのがよく分かります。

9台分の駐車スペースがあります。

その奥が階段で始まる登山道の入り口。

道路際に立つ公衆トイレ。

  

「旧別子銅山案内図(別子山)」

  

「赤石山系県自然環境保全地域」

ちなみに、2005年頃は谷側に駐車スペースや
公衆トイレがありました。

山側はまだ工事中でした。

ストレッチを(トイレも)済ませたら、
さあ、登山スタート!
大規模植林で甦った森と近代遺跡が待ってます。

旧別子登山口

旧別子とは過去に反映した別子銅山の跡と言った意味である。
ここの高さは海抜約800m、銅山峰は約1300m、高度差約500m、道程にして約3.2kmの間に元禄時代から大正5年まで225年にわたる間の無数の産業遺跡が眠っている。
それらの遺跡をたどれば、今日の住友グループ、そして工都新居浜発展の原点は、ここ旧別子にあるということが想像できる。
この辺りは吉野川の支流銅山川の源流域で、各所の河川の水は西側にある別子ダム(有効貯水量542万トン)に貯水してトンエルで新居浜側へ送り、発電や農・工業用水として利用されている。
別子ダムは新居浜市の貴重な水瓶である。



階段を登り切って道が水平になった頃、
小さな橋を渡ります。
この後もいくつか小さな橋を渡ります。



序章のようにそっと、近代遺跡が姿を現しました。
別子銅山の墓所、「円通寺跡」です。

  

円通寺跡

 別子銅山専用の墓所である。
この谷の上段に広い寺床があり、そこに銅山の頼み寺円通寺があった。
正しくは雲谷山三業院円通寺小足谷出張所で、本寺は別子山保土野にあった。
大正5年(1916)別子銅山が嶺北の東平へ移った後、大正8年(1919)火災により焼失したため寺の機能は別子山白尾の南光院境内に遷された。
 山内に眠る諸精霊の供養は今も続けられ、毎年8月初旬には住友金属鉱山(株)始め住友関係者が登山して南光院住職導師のもと懇ろな供養が行われている。
 寺床と無縁仏の卒塔婆は別子銅山開坑300年を記念して平成2年9月、住友金属鉱山(株)が建てたものである。



木漏れ日の中の快適な山歩き。
登山道というより、遊歩道の方がぴったりな、とてもキレイに整備された道です。

橋もいいものが架かっています。



城砦跡のような見事な石積みが出現しました。
「小足谷集落跡」です。

近代遺跡の始まり始まり、ですが、まだまだ小規模なので、
遺跡と云うより、廃村風景に近い石積みです。

昔はどんな家並みが拡がっていたんでしょう。
石積みのひとつひとつに歴史が隠れています。

  

小足谷集落跡と醸造所跡

 この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。
小足谷の集落は大きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る手前とその対岸の朝日谷集落には労働者が住み、この辺りには往還に沿って商家が軒を連ねていた。
そして、この先の接待館地並みから上は傭人(職員)の集落で俗に上前集落といって商人の住む下前集落と区別されていた。
 右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で、煉瓦造りの窯や煙突の跡が今も残っている。
 上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所跡である。
別子銅山で酒の醸造を始めたのは明治3年(1870)からで、最盛期には年間100キロリットルも製造していた。
銘柄ヰゲタ正宗、別名「鬼ごろし」ともいった。



十字に穴の開いてるレンガ壁がありました。
「小足谷接待館」です。

レンガ壁が綺麗に残っているのはここだけです。

十字の穴から壁の内側を覗いてみましたが、木しか見えません。
屋根もなにも建物らしいものはこの壁以外残っていませんでした。

壁の内側に入ってみました。
壁だけ残してまんべんなく植林されていました。

  

小足谷接待館と傭人社宅

 明治期に入って急速に鉱業の近代化が進むなかで、それに伴う各界の要人が頻繁に来山するようになった。
そこで明治34年(1901)一般人が経営していた泉亭を改装して別子接待館として営業を開始した。
因みにこの年10月には住友家15代家長(友純公)が宿泊されている。
この煉瓦塀も恐らくその時点で築かれたものであろう。
 この50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅の跡は、歴代の採鉱課長が住んでいたと言われている。
その隣が醸造課長宅で、これより、小足谷に沿って20棟ほどの傭人社宅やクラブなどが建ち並んでいた。
 また、醸造所に向けて下るところの住居跡は明治19年に開校した小足谷尋常小学校のあった所で、明治22年黒橋に新築開校した別子尋常小学校に統合されてからは、改装されて教職員の住宅になっていた。



左下に下る道があり、足谷川まで降りられるようです。

  

小足谷疏水道と収銅所

 この道を下ると足谷川に出る。
そこに小足谷疏水道の坑口がある。
別子銅山の深部に溜まった坑内水を排出するために寛政4年(1792)に着工した。
坑道の長さは940mもあり、これは手掘りの時代においては常識はずれの大工事であった。
従って、途中何度か中断があり、明治元年(1868)4度目の着手で黒色火薬やダイナマイトを使って明治16年(1883)に4番坑道に貫通した。
 この完成によって坑内水の排除と通気問題が一挙に改善された。
 但し、坑内水には硫黄や重金属が含まれており、川に直接流すことはできなかった。
そこで排水は延々と箱樋の中を流し、鉄屑を入れて銅を沈殿させ、余水は沈殿池に溜めて浄化し、上澄みだけを放流していた。
この対岸一帯にはその施設が構築されていた。



次に現れたのは、「足谷小学校跡」です。
石積みの規模はさらに大きく、長く、
道に沿って土手のように続きます。
こんな山の中ですが、
銅山の最盛期には300人近い子供たちの声が満ち溢れていました。

  

小学校と測候所跡

 政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務付けられるようになった。
これを受けて別子銅山では明治8年(1875)に勘場の下方、通称目出度町に私立の足谷小学校を創設した。
その後も学校教育は次第に一般化し、明治19年5月には人口の急増もあって小足谷に尋常小学校を開校、さらに明治22年9月には、ここに私立小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も併設した。
更に明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となった。
最盛期の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員7名であった。
 学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治31年に設立された。



小学校跡の次に現れたのは、
石の山のようにひときわ巨大な「小足谷劇場跡」と「大階段」です。
登り坂に作られたため、
手前はこのように高い石積みとなっています。

大勢が出入りしても耐えられる幅を有する大階段。
コケむした石段が時の流れを感じさせます。

劇場跡と小学校跡

 道ばたに残る長い石垣は、上段が山林課と土木課の事務所兼小足谷劇場の跡で、下段が住友別子小学校跡である。
 劇場は明治22年に建てられ、毎年5月の山神祭の3日間は、歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで、数千人の観衆をうならせたといわれる。

劇場跡もまんべんなく植林されていて、往時の面影は平らかな地形だけです。
登ったついでに劇場跡の林を抜けて行きました。

人の手で改変された人工的な自然だけれど、
あっという間に四季の営みを取り戻していました。

振り返って。
劇場跡の上部は坂の上なので、
石積みもそんなに高くありません。



少し狭くなった小足谷川を渡り、対岸へ。

清流を見ただけで心まで潤うのはなぜでしょう。

光る水面、透明度も抜群です。

しばし、左岸を歩きます。
川沿いの、山道らしい山道です。



対岸に遺構を発見。
でも、下の案内看板がなかったら、正直、見落としてたかも。

石積みのアーチも目にすることができました。

  

高橋製錬所と沈澱工場

 対岸の高い石垣は高橋製錬所跡である。
この石垣は更に300m上流まで統いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式熔鉱炉(左)と沈澱工場(正面)があった。
明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。
そこで製錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱滓堆積広場になっていた。
それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。
 ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。
 正面には沈澱工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時期移転していた。

 ※鉱滓:鉱石を精錬する際に生ずる不用物



小沢に架かる橋から見下ろした小足谷川。
エメラルドグリーンの流れをたどり登ると-

標高が1000mを越えた頃、右の沢に滝が現れました。
大きな水音に惹かれ、レンズを向けると、碧色の滝壺が見えました。
滝を過ぎれば、いよいよ「ダイヤモンド水」広場です。

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