旧別子銅山
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日浦~銅山越
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ダイヤモンド水~目出度町~蘭塔場
距離 約1.2km
標高差 約130m
徒歩
下記写真の場所

休憩ポイント、「ダイヤモンド水」広場に到着です。
ベンチセットやトイレがある休憩や給水に最適な場所です。
「体力的・時間的に銅山越までは行けないけれど、
代表的な近代遺跡を堪能しながらハイキングしたい」
そんな時はこのダイヤモンド広場を折返しの目安にするのもいいでしょう。

広場に入ってすぐの場所で、渇いた喉が一発で潤う美味しい水が、
こんこん、いえ、とうとうと湧き続けています。
この水が「ダイヤモンド水」です。
その由来は、“ダイヤモンドが発見されたから”ではなく、
ダイヤモンドが着いた工具が残ったままの穴から水が湧いてるからです。

当地は銅鉱山跡地です。
飲料水は銅が検出されない水源から補給する必要があります。
ダイヤモンド水は安全で美味しい水です。
水の補給はこちらでどうぞ。
下山時に飲むと生き返りますよ~!

  

高橋熔鉱炉とダイヤモンド水

 古くはこの辺りの地名はタカバシであったが、明治12年(1879)頃この対岸に洋式の熔鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。
ところが戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある釜鍋鉱床というのを探し当てるためにボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行った。
予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミングという事故が起きてロッドの先端部分がネジ切れ、掘削不能となった。
ダイヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残っているので、誰言うともなくダイヤモンド水と呼ばれるようになった。
 明治10~20年代にかけて対岸の絶壁の上に焼窯という鉱石を焼く所があって、硫黄を取り去った後の鉱石は箱状の桶でこのレベルまで落とし、熔鉱炉に入れて粗銅を採っていた。
最盛期にはこの辺り一帯に製鉱課の施設や木炭倉庫がひしめいていた。

トイレがある広場上部から出発です。
お山歩再開は小足谷川に沿って歩く渓谷ゾーンから。



一度、右岸へ渡りますが、
透き通った流れがあまりにも美しくて、
ついつい足を止めて魅入ってしまいます。

手すりもない橋は幅もそんなに広くないので、ちょっとドキドキ。
写真左が上流、右が下流です。

下流の流れ。

上流には小さな滝。

岩の赤い染みは鉱山だから?

今度は吊り橋で左岸に戻ります。



川もだいぶ浅くなりました。
向こう岸にまた石積みが現れました。
製錬所の焼窯がたくさんあったところと云われています。

  

トラス橋の焼鉱窯群

 この辺りの地名はトラスバシという。
正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。
これをカラミ(鍰)という。
カラミがあるということは、ここにも製錬所があったという何よりの証である。
 無数の焼窯が建ち並び、その前は溶鉱炉があった。
このように別子銅山では古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わっていた。
 焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。
続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉に入れて淘汰すると、銅の含有率が90%ほどの粗銅となる。
岩山の上に焼鉱用の薪が高く積まれていた。



橋が架かった、「目出度町(めったまち)」ルートと
「木方・東延」ルートの分岐です。
目出度町はまっすぐ、木方方面は橋を渡ります。
※2007年、写真の鋼鉄の橋は木製の橋に架け替えられました。

「↓登山口 ダイヤモンド水経由40分
 目出度町経由50分 銅山越↑
 木方経由50分 銅山越→」

木方方面は急なハシゴも待っています。
今回は下山時に利用します。

  

木方吹所と裏門

 足谷川に面して右の山側に建ち並ぶのは木方吹所(製錬所)である。
この時点では高橋製錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。
 明治13年から生産が始った最初の湿式製錬所(沈澱銅)の施設であろう。
巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積が天に突き出ている。
当時の和式製錬では1トンの銅を作るのに4トンもの木炭を使っていた。
木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心臓部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。
因みにこの辺りを裏門と呼んでいた。

橋を見送った後、川沿いにまっすぐ進むと、急坂が現れました。
昔の人たちもこんな坂、登ってたんかなぁ?
生活道はもっと緩かったんじゃないの?
なんて毒づきながら、うんとこしょっと登りました。
でも、ずっと続くのかと思った急坂はあれって云うほどすぐに緩くなって、
木立に入ると道端の花を愛でられるほど楽になりました。
季節の花から珍しい高山植物まで、道沿いにたくさん、咲いていましたが、
お花の知識が皆無なので、スルーしっぱなしでした(^_^;)



ところどころに道標があるので安心です。

傾斜地を横切るような小径。
川からもだいぶ離れました。

高度もだいぶ稼いだので赤石の尾根も見えてきました。



カラマツ林の隙間から、銅山越以東の山並みが望めました。
一番高い頂が東山、銅山越は左の一番低いところ、
西赤石山は稜線の奥にあるのでここからは見えません。
手前の少し地肌が見えるピークは「延喜の端」です。

木方部落跡(対岸)

 対岸一帯を木方といい、道をはさんで上下に多くの焼鉱炉が、河原から上の樹林の中には建屋や住宅がびっしりと並んで建っていた。
正面に見える石垣は明治25年(1892)目出度めった町から移転した重任局(鉱山事務所)の跡であり、その左側には勘場(会計)が並んでいた。目出度町と木方との間には足谷川を挟んで多くの橋や暗渠があり、橋脚の石積のみがここからよく見える。
この先の谷が両見谷、つづいて見花谷で、下部の樹林の中には鉱夫の住宅が密集して建てられていたが、明治32年(1899)8月の台風で見花谷の部落は山津波によって下の川に流され多数の死者(金山で513名)が出た。



小さな沢に架けられたいくつかの木道を渡ります。

現在の光景からは想像できませんが、
この辺りには大きな鉱山街が形成され、
多くの鉱夫と鉱山職員、その家族らが暮らしていました。
通りにあふれていただろう、学校へかけて行く子供達の歓声も、
雑談する主婦らの笑い声も、とうに雲散霧消。
いくら耳を澄ましても、
聞こえてくるのは木立を抜ける風の音だけです。



遺跡の気配のする石段をあがると少し広い場所に出ました。
いまでこそ木々に埋もれた空間ですが、
別子山村役場や大山積神社があった鉱山街「目出度めった町」跡。
商店街に料亭、病院など、賑やかな場所でした。

  

重任局と大山積神社

 元禄7年(1694)の大火の後、歓喜問符の隣にあった勘場がここに移され、明治12年に重任局と改称された。
明治25年の火災で焼失するまでは銅山の指令所として重要な位置を占めていた。
火災のあと重任局は木方に移ったが、その跡は元禄4年より銅山の鎮護の神として奉られていた大山積神社が、対岸の延喜の端から遷座した。
 また、モミの大木の向う側には別子山村役場があって村の行政もここで執行されていた。
 左の広場には住友新座敷と言う来客接待所があったが、大山積神社の遷座と同時に、その跡が相撲場となり、5月の山神祭には大いに賑わった。
 下方一帯は目出度町という商店街で、今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭一心楼、鰻頭の奥定商店等々軒を連ね、更に郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった。
対岸の一段高い所には住友病院もあった。

階段を登った正面にあるお百度石。
大山積神社があった名残です。

神社跡のどこかに狛犬さんがいます。
目出度町に行ったら、探してあげてね。

狛犬探しの途中で見つけた雑キノコ。

すっかり森に戻った目出度町跡を後にして、
石垣の脇から出て-

道標に従って先へ進みます。

「←目出度町を経て高橋  蘭塔婆入口→」
「←登山口 銅山越→」



右斜めにカーブするところで、
「蘭塔婆」の登口に出会いました。
左の道へ入り、蘭塔婆へ寄り道です。

「←蘭塔婆登口 3分」

急坂ですが、ちょっとのガマンです。



銅山の谷をぐるり見渡せる小高い丘の頂上に築かれた「蘭塔婆」。
蘭塔婆とは墓所のことです。
コの字に四角く、ひときわ丁寧な石積みの囲みの正面に、
祭壇がしつらえてあります。
元禄7年(1694)春に起きた山火事で亡くなった、
131名の御霊を供養するため、住友家が築いたものです。
300年以上経った現在でも住友関係者による供養が行われていて、
訪問時も真新しい花がお供えしてありました。
合掌。

蘭塔婆

 開坑以来銅山の繁栄には尊い生命の代償があった。
中でも元禄7年(1694)に発生した大火災は、山方の元締であった杉本助七をはじめ132名にのぼる焼死者を出し、設備の大半が焼失するという大惨事であった。
泉屋ではその犠牲者を手厚く葬り、一祠を建てて供養したのが蘭塔婆で、以来、職に殉じた御霊を合祠し、盆供養を欠かしたことはない。

※蘭塔法要
旧別子蘭塔法要:毎年、住友金属鉱山(株)をはじめ住友関係者が登山し、盆供養が行われている。
瑞応寺蘭塔法要:瑞応寺境内に移された墓碑の前で、住友金属鉱山(株)関係者による盆供養が毎年行われている。

登山道へ戻り、谷に向かって下ります。



小足谷川もせせらぎになりました。
この辺りは「風呂屋谷」と呼ばれています。

沢を渡ったら再び、登ります。



木方ルートと合流しました。

左へくぃっと曲がる石段を登り、牛車道へ向かいます。

目出度町(めったまち) 鉱山街入口

 ここから足谷川の源流(風呂屋谷)を渡り、蘭塔場の裾を廻って土持谷を過ぎると広大な平坦地に出る。
いまそこは深い森の中だが、かつては別子銅山の中枢で勘場という大きな建物があった。
大阪の泉屋本店から派遣された支配人や手代衆が多数詰めていた。
また、勘場には銅蔵や食料庫・資材庫・来客接待所などが付属していて、その周辺は厳重な柵が廻らされていた。
 勘場の下の方はいわゆる目出度町という商店街で、今日のデパートに当たる伊予屋を始め料亭一心楼、饅頭の奥定商店等々軒を連ね、更に郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった。

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