勝岡丘陵へ行こう!
お山について登山口・ルート登ってみよう!メールホームへ
勝岡八幡神社・高月山

距離 約400m
標高差 約45m
国道・県道
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設
見晴らしあり
みかん畑
距離 約1.2km
標高差 約65m
  

旧国道196号・現県道347号平田北条線の、
平田町金比羅前バス停付近からスタート。
勝岡から延伸されてる県道がいずれ接続する場所です。
いま(2009.11)はまだ工事中だったので若狭橋は渡れず-

内宮中の横を通過し、陸橋をくぐって-



  

右に百均のダイソーがある、
丁字路の内宮信号交差点で左折。
「←太山寺 円明寺」の案内が目印。
左折して県道39号松山港内宮線線へ。

すぐの遍路橋を渡り、道なりに。

橋のたもとの達筆な道標。



  

左へカーブしたところにある次の信号で右折します。
左右の道が新しい県道39号線で-

左の若狭橋方面は工事中で通行止め。
完成すればと繋がります。

右折すれば新しめの二車線路。
JRの線路を高架で乗り越えます。

  

高架の一番高いところから見える、これから縦走する勝岡の山並み。

この先の道沿いには井関農機など、町工場がたくさん並んでいます。
数年前までは田んぼだらけだったのに、
マンションも建ったり、新しい家がどんどん増えてます。
愛媛県運転免許センターの方へしばらく進むと-



久万川にかかる中乃川橋があり、渡ってすぐ左に-

  

勝岡八幡神社へ向かう道が分かれますので、
左の道へ入って下さい。

久万川よりも幅が狭い太山寺川を勝岡橋で渡ると、石灯籠が出迎えてくれます。
ここからお山に向かっての500m弱が勝岡八幡神社の参道です。
無形文化財の“一体走り”のコースは、
この先のそごうマート前のお旅所までの100mで行われます。
お山もだいぶ近くなりました。



石灯籠から300m。
昭和60年9月と比較的新しい、けれど西日本一と巨大な鳥居が現れます。
大きさは隣の家と比べて下さい。
車道は鳥居をくぐってすぐ右へ曲がってます。
昔はこの道が県道でした。



赤く紅葉して綺麗な桜並木に縁取られた馬場の奥、小さな鳥居がお出迎え。

春、桜が咲くとこんな感じになります。

大鳥居ができる前はこの古い鳥居が馬場の入口に立ってたそうです。
正面に石段、右に手水舎、その横に「俳諧の天地自在に桜哉 北嶺」と刻まれた松本萬作の句碑があります。
右の斜路は社務所への道。

神社の杜は平成4年9月1日、
市の景観樹林保護地区に指定されています。

では、では、172段の石段からお山歩スタートです。

神社恒例の狛犬コレクション。

りりしい狛犬の後ろにチラ見しているのは、
第一次、第二次世界大戦の慰霊碑。

石段の途中、ひだりに小さな祠。

“たごりかみさま”だそうです。

石段はもったいぶるかのように中程で左へ曲がります。
踊り場のようなこの場所に石盤が並んでいます。

勝岡八幡神社由来

祭神

小千命オチノミコト 別名 孝霊天皇御孫小千御子オチノミコ
應神天皇 別名 品蛇和気命ホンダワケノミコト
仲哀天皇 別名 帯中日子命タラシナカツヒコノミコト
神功皇后 別名 息長帯日売命オキナガタラシヒメノミコト
日賣大神ヒメノオオカミ 別名 多岐津姫命タキツヒメノミコト
                    多岐理姫命タギリヒメノミコト
                    市杵島姫命イチキシマヒメノミコトの三女神

創立

今から壱千五百余年前應神天皇の御代に当地を襲った兇賊を小千命がここ白人うらと城に拠って討ちとり里人の危急を救った為この地を勝岡と名づけると共に命みことを敬慕の余り後に祭神として太山寺字小山の中野山に社を創り白人の宮と称え祀っていたが五百数十年前の永享年間戦火で悉く焼失の後も霊験あらたかな故命の縁りの城址戦場の地勝岡に構想を大にして遷宮と同時に宇佐八幡を勧請し名を勝岡八幡宮と改称した

勝岡の象徴馬場の松

遷宮の際社殿境内の整備とともに長い馬場の両側に数十本の松を植えこれが後に天下に類なき雄大な松並木の馬場として長く景観の美を誇るとともに勝岡を象徴して居が大正昭和になり樹齢尽きて勢い衰え或いは幹に空洞を生じ災害時万一の危険を慮り人命優先の見地から涙と共に数回に渡って伐り払い今では僅かに残る数個の切株に昔の俤を偲ぶとは洵に断腸の想いである

右隣のは社家の由緒について刻まれています。
内容は人格がすぐれているとか自画自賛なので、
詳細はパスさせていただきます。

踊り場から更に登るとお守りとか売ってる建物の前に着きます。
ここでまた曲がります。
右にくぃっと方向転換すると-

境内に到着です。



広い境内に聳える、勝岡八幡神社の拝殿です。
切り立った甍が特徴的です。
左側にトイレがあります。
では、お山歩の安全をお参りをしましせう。

二礼二拍手一拝、むにゃむにゃむにゃ…。

お参り済んだら右の小径を奥へ。
壁の向こうにある神様がお住まいの本殿、とっても立派です。
なにか作業してたので撮影は遠慮しました。

高月山に通じる舗装された裏道があります。
坂をちょいちょいっと登ると-

  

農道に出ます。
チェーンをまたいだら右へ。

  

すぐの分岐を左へ。
軽トラ幅の狭くて急な坂道をS字に登ると-



突然、ぱぁっと視界が開けます。

  

みかんの木の向こうに堀江の海と北条へ弓なりにカーブした海岸線。

みかん畑ではおなじみのコンクリート舗装の農道を行けば-

  

高月山山頂はもう目の前。
右に拡がる和気地区の町並と、
高縄山・大月山を頂点とする松山・北条の旧境の山並みに釘付けです。
そんなに高くないの良い眺めです。



標高約50mの高月山山頂に到着です!

山頂には祠が祀ってあります。
瓦のミニ祠もたくさん。
高月山古墳(6世紀の円墳横穴式遺跡)が発見されたので、
畑の人がお祀りしたのかも。

祠の裏の最高地点はササに覆われてます。
一応、踏み入ってみたけど、
特になにも発見できませんでした。

振り返って。
貯水タンクがある小ピークが向かいにあります。
あそこからも古墳が発見されています。

…というわけで、勝岡へ向かう前にもう一度、パノラマを堪能。
午後にかけてだんだんと曇り空に。
あいにくのお天気で、皿ヶ嶺連峰のお山も霞んでしまいました。

  

和気の町並。
昔、火力発電所があったところは記念公園としてグランドに。
隣の入り江はマリーナ状態の和気浜漁港。
堀江の海水浴場に沿ってグリーンタウンやみさき団地って名前の宅地が密集。
ごちゃごちゃと奥の山まで家だらけです。

  

奥に高縄山、大月山、その前に宅並山、要害山、横山、
また奥の霞んだお山は東三方ヶ森から明神ヶ森、福見山に至る山並み。
その前に伊台の国見山、そのまた前に内宮から谷町にかけての丘陵。
またまた奥に奥道後の杉立山から関ヶ森、観音山。
平野にぽこっとある潮見山や室岡山、そして姫原丘陵、
松山城は白く霞んじゃってます。
皿ヶ嶺や石墨山は肉眼では見えたのですが、
僕のデジカメでは白飛びしてよく撮れませんでした。

さて、反対側、西側の景色はこんな感じ。
みかん畑の上の雑木林に紅葉が混じってとっても綺麗でした。
ホント、とっても綺麗だったので、
写真右の方の紅葉をアップにしてみました。

市内にこんな紅葉スポットがあったとは!

  

ちら見えた海もアップで。
小さな岩礁・犬ノ頭島の奥は野忽那の忽那島。


  

さて、さて、勝岡目指し、農道を戻ります。
神社の裏道には戻らないで、
スルーしてそのまま農道を下ります。



  

次のカーブに分岐があります。
明るい陽の差す方へ反れると-

太陽いっぱいのみかん畑の中へ。
下に見える農道が勝岡の尾根に登れる農道です。
そっちへ降りるには-

  

この道をもちっと進んで、みかん畑の端っこの小径を下ります。



  

舗装が終わったところにその-

農道へ下れる急坂の小径があります。



  

神社に戻るよりこっちの方が近道です。
右に曲がって坂道をてくてく登ります。



谷に沿って登る農道沿いは紅葉が盛り。
みかん色と一緒になって、うっとりするような綺麗さでした。

左にあった鉄塔への小径。

地図で測ったら尾根まで800mくらいありました。
歩いてた時はそんなに歩いた感じはしませんでした-

こんな怪しげな実を見つけたり-

野花を撮ったりしてたので。



標高100mくらいでまた海が見えてきました。
海辺の白いビルは自動車免許の更新でお世話になる運転免許センター。
免停講習でお世話になったこともあったっけ (^_^;)

携帯電話の基地局アンテナが見えたら-



  

尾根に到着です。
尾根道と和気からの農道、高浜からの農道が、
交差した四差路になっています。

標高110mちょっとだけど、
堀江から北条界隈を見下ろせる良い場所です。

紅葉の綺麗どこをピックアップ。
WEB用の荒い画質だと絵の具まみれの画板みたい。

  

左が和気の道、右が高浜の道、真ん中が-

  

勝岡への道です。
ちなみに、右の高浜の道は-

  

こんな狭い感じでまたみかん畑の中を下ってゆきます。
沖の島は興居島で、小富士がそびえる泊地区側が撮ってます。

ひとりごと

勝岡八幡神社の由来に登場する“小千命(おちのみこと)”について調べてみましたが…。
いまいち、よく分かりませんでした。

小千命は、小千御子とも、乎千命とも書いて、家系図的には、

孝霊天皇 - 伊予皇子 - 小千命

となるみたいです。
孝霊天皇は第7代の天皇で、紀元前342年の生まれです。
“欠史八代”という古事記や日本書紀には載ってます。
一方で、もしかしたら創作された架空の天皇かも知れない8人のひとりとも云われています。
じゃあ、その孫の小千命って…?
神社までできてるのに…。

小千命は、“おち”って云うくらいですから、今治方面にたくさんいらっしゃる越智氏の始ともされています。
大三島の大山祇神社は、神武東征に先駆けて四国に渡った小千命が四国平定を祈願して鎮祭したのが始まりだそうです。
樹齢2600年の国指定天然記念物の御神木、巨大クスノキは小千命のお手植えだと云われています。
大山祇神社では小千命は大山積大神の子孫だとも。
オオヤマツミは日本神話に登場する神様で、山も海も支配する神様。

対岸の興居島にも伝承があります。
興居島はその昔、小千命の“母親が居る島”という意味の「母居島(ぼごしま)」と呼ばれていました。
“居る”というのは埋葬されたという意味です。
和気姫は島の和気比売神社では祭神として祀られていて、船越地区にお墓があります。

興居島の伝説では、小千命の母親は和気姫という名前で、漁師が流れ着いた壺の中から見つけた女の子です。
かぐや姫にも似た伝説です。
「私は和気姫。唐の国の生まれなんだけど、訳あって壺に入れられて流されたの」みたいなことを助けてくれた漁師に語ったんだそうです。
でも、壺から出て来た時、いきなり漁師と会話が通じってことは、唐の国出身って怪しい。
伝説を怪しんでもしょうがないけど、唐の下りは後年、かぐや姫のお話とミックスされてできたのかも。

美しく育った和気姫は伊予皇子と結ばれ、三つ子を産むんだけど、そのひとりが小千命。
姫がホントに唐=中国出身なら小千命はハーフってことになるのかな?
和気姫が結ばれた伊予皇子は孝霊天皇の子供で、別名を彦狭島命(ヒコサシマ)と云います。
孝霊天皇の勅命で蛮族が横行していた伊予の国に下向して統治しにきた人物です。

三つ子が産まれた後ですが、皇子は子らを育てることをしませんでした。
海女と皇子というなにもかもが違いすぎたラブロマンスの破綻か、今風に云う育児放棄?
それともお坊ちゃま皇子の“お遊び”にすぎなかったのか?
結局、姫は皇女にはなれませんでした。
出産後、和気姫は興居島へ戻ります。
でも、3人の男子はなんと、和気姫自身の手によってそれぞれ小舟に乗せて流されてしまいます。
おいおい!
なにがどうしたら、そんなことができるのでしょう。
まぁ、次女のひとりやふたりは同船させたとは思うけど。
流された子らは、ひとりは伊豆の国に、ひとりは備前児島に無事に流れ着き、伊予の国の三津浦に流れついた子供が小千命でした。
そういえば、神武東征に先駆けて四国に渡ってきた時の状況も、小舟で三津浦に流れついたとあります。

文武の才に富む少年に育った小千命は7歳になった時、なんと天皇から勅命を受けて都へ上ります。
そして、四国の主に任命されて帰国するのです。
小舟で流れ着いたような子供にそんなラッキーなことは起こり得ないので、伊予皇子の庇護があったのは確実でしょう。

帰国した小千命については、中世に伊予を支配した豪族・河野氏の来歴を記す『予章記』にあります。
白人宮をベースに近隣の賊と戦ったり、土佐まで遠出して鬼たちを捕虜にして戻ったりします。
鬼と云ってもトラのパンツを穿いたツノ頭の赤鬼なんかがいたわけじゃない。
当時の物語では、時の政権に敵対する集団や、主人公に敵対する悪者はみんな、“鬼”扱いでした。
捕虜となった鬼たちは、太山寺の裏の谷、高浜へ下る谷に埋められてしまいました。
その谷は“鬼(き)の谷”と呼ばれ、“鬼”は“木”に佳字化され、木の谷と云う名で地名として現存しています。

それにしても、小千命はよく分からない人物です。

大三島の大山祇神社には小千命のお手植えのクスノキがありますが、樹齢2600年だそうです。
伊予皇子の父、孝霊天皇は紀元前342年の生まれで大体合っています。
けれど、勝岡神社の由来では小千命が伊予に来たのは応神天皇の御代で4世紀後半、1500年前となっています。
勝岡と大三島や興居島の話は1000年も開きがあるのです。

別人なのか、それとも…。

とにもかくにも、勝岡での小千命は、1500年経てもお祀りされてます。
それだけでも、凄い人だったことは間違いありません。
世紀を超えてお祭りしてもらえるような人、現代にはひとりもいませんもん。

鬼が跋扈してた時代、民衆にとって小千命は、救世主で正義の味方だったのでしょう。
伝説が生まれるほどのヒーローだったことは間違いありません。

ブログパーツ
     
inserted by FC2 system