勝岡、高月山、西山は、松山市和気地区と高浜地区の間に横たわる、太山寺丘陵北部・勝岡丘陵の山山です。
太山寺丘陵は、南は梅津寺の岩子山から北は白石ノ鼻で海に没する、南北4km弱の山並みです。
南東支尾根の延長は衣山丘陵に連絡し、併せて市街地と海岸部を隔てるように連なっています。
そのうち、勝岡丘陵は太山寺以北から白石の鼻で海に没するまでの山並みです。
粗粒状閃雲花崗岩、和泉砂岩からなる地質で、豪雨による浸食も見られますが、全体的には緑濃い木々に覆われ、自然豊かです。
県道39号松山港内宮線が山裾を通る西麓から北麓は直に海に接し、東側は高縄山系との間に肥沃な沖積平野が拡がっています。
山上に多く見られた名物のマツは松枯れ病ですっかり姿を消してしまったものの、そのほかの樹木は依然、おう盛です。
柑橘類栽培に適した日当たりの良い斜面を多数有し、みかん・伊予柑のシーズンになるとオレンジ色の水玉模様に彩られます。
勝岡は太山寺丘陵北部に位置するなだらかなピークです。
山名、及び字の“勝岡”の名の由来は4世紀後半、日本神話で描かれた神武東征まで遡ります。
神武天皇の東征に先駆け、国造(四国平定)を任じられ、“小千命(小千御子)”が伊予に下向しました。
堀江の浜(もしくは三津)に小舟でたどり着き、現在、勝岡八幡神社がある場所にあった“白人城”を拠点としました。
小千命は、神話では“鬼”と形容される賊や反乱分子を瀬戸内海側だけでなく土佐まで出向いて掃討。
その戦勝にあやかって白人城のあった地を“勝岡”と改名したと云われています。
里人らは太山寺町小山の中野山に“白人宮”という社を造営し、小千命を祀っていました。
平定した8月7日を記念して行われていた白人宮の祭りが終わらないと、松山の神社は祭りを行えないほど、深く敬われていました。
けれど、永享年間(1429~1441)の戦禍により、社殿、宝物すべて焼失。
後年、宇佐より八幡神を勧請・合祀、改称の上、高月山に再建・遷宮されたのが“勝岡八幡宮”です。
社名と同じ名は畏れ多いと、地名の“勝岡”が“片岡(かとか)”に変わっていた時期もあったほど、遷宮後も敬われていました。
“勝岡”は昭和17年の町名変更で正式な町名になりました。
西日本最大とも云われる大鳥居が目印の勝岡八幡宮は、松山の秋祭りに行われる神事、お神輿の“一体走り”で有名です。
松山市の無形民俗文化財に指定されています。
潮垢離で身を清めた10人の青年が鉢巻き、ふんどし姿で参道を約100m、威勢よく御輿を担いで走ります。
江戸時代の記録にも記述が見られる古い行事です。
勝岡八幡神社の裏山、高月山では、勝岡古墳群に所在する高月山古墳群が発見されました。
北尾根に3基、頂上部に4基の計7基の古墳が確認され、組み合わせ式箱式石棺などが出土しました。
祠が祀られている山頂周辺はみかん畑になっていますが、耕作時には直刀、人骨、須恵器、玉類などが散見されたそうです。
太山寺丘陵周辺は勝岡古墳群をはじめ、船ヶ谷古墳群、鶴ヶ谷遺跡、坂浪古墳群、赤子谷古墳、大渕遺跡など。
特に古墳が多い場所です。
西山は太山寺丘陵の最高峰・経ヶ森のすぐ北に位置した、三角点を頂いたピークです。
地図には載っていない山名ですが、明治時代の地誌・地図にこの名が見られます。
遊歩道が整備された経ヶ森・岩子山側とは異なり、訪れる人も少ないです。
西山から北端の岬・白石ノ鼻まで尾根伝いに小径の縦走路が存在しています。
山麓にみかん畑などがあるせいで、脇道・エスケープ路も多数あります。
縦走路のほとんどは自然林に覆われ、すぐ真西にある海を見晴らせる場所は少ないです。
けれど、住宅街の真近で縦走を楽しめる貴重な場所です。
蛇足ながら、近年、柑橘類の売価低迷などで耕作放棄地も増えています。
縦走中、取り残され、雑木雑草に覆われたモノラックの軌道をあちらこちらで見かけました。
尾根から見下ろす、和気地区はかつて、緑成す豊かな風景でした。
県道の拡張などに伴い、宅地開発が急速に進み、農地が宅地へ、オセロのように転換し続けています。
また、松山市の人口増加に伴う影響は、ゴミの不法投棄、廃車の放置という負の姿となっても現れています。
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