鹿島のお山
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周遊道・市道鹿島公園線
距離 約950m
徒歩
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設
通行止め

ここからは周遊道の紹介に移りますが、看板にある通り、
2010年現在、落石・山肌崩壊の恐れがあり、通行できません。
周遊道は市道です。
、管理上、なにかあったら困るのでこうなってしまったのでしょう。
先に断っておきますが、以下の写真は自己責任で訪ねた記録です。
真似しないで下さいね。

最初は「長磯ヶ浜」。
浜と云っても砂浜はありません。
水着姿の親子とすれ違いましたが、
水晶ヶ浜で泳いできたのかな?

この先、こんな風に落石や土砂が堆積した場所がありました。
島の白い岩肌はもろい花崗岩なので、
ボロボロ崩れたり、塊で落ちてきたり、浸食が激しいのです。

これだから、通行禁止なんです。



波に大きく浸食され、入り江っぽいところには、
写真のように橋が架かっています。

岩肌はひだひだに浸食され、洞窟もできたりしています。
この辺りは「犬戻り」。
道が狭く険しくて、犬さえ戻ってきた、というのが由来です。
ちなみに、僕が子供の頃に聞いたのは、犬戻りは洞窟の名前で、
深さを調べようと犬を送り込んだら、恐くなって戻ってきた、という話でしたが。
潮が満ちると道の上まで波が洗う状態になります。
波浪注意報+満潮時は特に危ないです。

二つ目の橋の右に縦に割れた洞窟があります。

名は「淡紅洞(たんこうどう)」

淡紅洞とは変わった名前ですが、
この周遊道の整備に貢献された人の名前から名づけられたものです。
その人は三由淡紅(みよしたんこう)、北条出身の人です。
三由淡紅は私財を投げ打って橋を架けたり、道を整備しました。
また、島のあちこちに句碑があるのも淡紅がきっかけで、
俳人・村上霽月(せいげつ)の弟子だった淡紅は、
俳人や文人を島に招待し、島を宣伝しました。
それも、すべて私財で。
鹿島が観光地になったのは、北条を豊かにしたい一心で私財を投じた、
三由淡紅のおかげなのです。



淡紅洞を過ぎると「水晶ヶ浜」と「石門」。
潮が満ち始めているせいもあってか、砂浜が狭くなったような気がします。
が、水晶ヶ浜で一番遊んだのは子供の頃だったので大きく見えたのかもしれません。
あの頃は浜辺いっぱいに人がいました。
すぐ深くなる浜なので子供たちは水際でばしゃばしゃするか、
「石門」に登ったり、磯でカニを見つけたりして遊んでいました。

ジャンボ注連縄(しめなわ)がかかった沖の小島を見るなら水晶ヶ浜。
「伊予の二見」と云われています。
三重県伊勢市二見町にある「二見浦」を摸しています。
注連縄には願い事が書かれた紙がたくさん編み込まれています。
毎年5月の鹿島春祭りに張り替えられます。
伊予の二見は「夕日の二見」ともいわれ-

夕方がやっぱりいいのです。

前に撮った写真ですが-

黄昏て黄金色に染まった空と海、最高です。

水晶ヶ浜の顔の「石門」はいまも現役です。
穴の上のアーチが大分、細くなった気がします。
始めてこの岩を見た時、僕はウルトラマンに出てきた怪獣ガバドンの姿を思い出し、
いまでも僕の中では「ガバドン岩」です。
ガバドンは、第15話「恐怖の宇宙線」に登場。
子供の落書きが怪獣になっちゃう話で、
2段階に変身するのですが、最初の姿にそっくりでしょ。

♪石門の中を~
 ♪貨物船が通る~

ガバドンといい、鹿島に来るとついつい、
レトロな気分になってしまいます。

僕のガバドン岩が…。

2021年夏に訪問したら、石の門のアーチ部分が崩落してました。
台風による高波が原因らしいです。

めっちゃ、哀しい再会でした。



水晶ヶ浜を過ぎると磯っぽくなり、泳ぐ場から釣り場へ。
山から崩れてきた土砂が道にだいぶ堆積しています。
崩れた花崗岩は砂浜の砂になっています。
島の斜面を保護するのは安全のためですが、
自然崩落を沮止すれば砂の供給も滞ります。

エメラルドグリーンな海がキレイです。
魚たちからしたら、釣り人が丸見え、かな。



また橋を渡ると-

  

また橋があるこの辺りは、島の北海岸。
北条スポーツセンター、道の駅「風和里」、
長浜海岸がある波妻の鼻が半島のように見えます。

再訪時、遊歩道の石畳タイルはボロボロになってました。



岩場を越える辺り、「川獺(かわうそ)谷」と呼ばれています。
文字通り、カワウソが棲んでいたそうです。
“川獺”ってくらいですから、海にいるの?って思いますが、
ラッコもカワウソの仲間です。
昔、カワウソは“カワソ”とも呼ばれていました。
伊予でカワソは河童の一種で、旅人を化かした話が各地に残っています。
鹿島のカワウソにはそういう話はありません。
南予のお山にいた天然記念物のニホンカワウソは全滅しました。
鹿島のカワウソもどこへ行ったのかなぁ。

  

句碑が立つ岩場からの眺めです。
写真左から、睦月島、中島、広島県倉橋島の岳浦山、火山、
呉の三津峰山、灰ヶ峰、野呂山、手前の海に安居島、小安居島、蒲刈島の七国見山。
そして、北条の波妻の鼻、観音嶽、尾ノ峰、新城山、腰折山、恵良山、高萩山。



島の北側は磯場が多いせいか、ごつごつした感じがします。
この辺りは「神洗磯(かみあらいいそ)(髪洗磯とも)」といいます。
『日本書紀』に登場する神功皇后が戦の途中に立ち寄り、
この磯で身を清め、神に戦勝を祈願したのが謂われだそうです。
神功皇后は応神天皇の母。
別名・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(もしくは息長帯比売命)と云い、
気長足姫尊を祀っている神社は愛媛に多数あります。
実在が疑われ始めた人物ですが、伝説が伝説を産む、面白いものですね。

子供にとって磯の潮だまりは最高の遊び場。

アメフラシにも会えるかも。

再訪時の写真。
土砂崩れがさらにしちゃってます。
遊歩道の上を歩けない状態に。
ここ数年、土留め工事などする様子もないので、
遊歩道の通行止めが解除されることはないでしょう。



周遊道の反対の入口に着きました。
当然こちらにも「通行できません」がありますが-

「全面通行止」もプラスされています。

この先、太田屋さんまでは山側に落石対策が施してあります。
この写真になんとなく違和感を感じられる方がいらっしゃるかもしれません。
数年前まで、この場所に国民宿舎「鹿島荘」があったからです。
昭和37年に建設され、鹿島鉱泉や鯛めしで有名だった国民宿舎。
後年、海の家として営業していましたが、赤字で売りに出されていました。
でも、老朽化した建物は島が国立公園な為、建て替えができませんでした。
買い手もなしで、解体されました。

跡地の浜からの眺めです。
対岸は波妻の鼻から北条港にかけての海岸線で、
鹿島渡船の桟橋や高縄山も見えます。
写真右の建物は太田屋さん。



遊歩道から陸へ出たところに、“縁結”の文字がある「康塚」。
謂われはどこにも載ってません。
まさか、おさい銭が目当てで?

塚の前にある、太田屋さん。
食事も宿泊もできます。

こっちが宿泊客向けっぽい玄関。

桟橋に近い方の入口は鯛めしを食べに来たお客さん向け。

海の上に迫り出した“海上座敷”でお食事を楽しめます。

太田屋さんの前で、シカのお出迎え。
シカ:「お腹空いたなぁ…」
僕もお腹が空きました。



夕方の船で島を出ました。
キップは島に来た時に渡したので、
帰りは船に乗るだけ、北条まで乗せていってくれます。

桟橋に停泊してた1艘の船は、多分、鹿島の遊覧船でしょう。
遊覧船は夏休みの間だけ運航してて、2名以上で運行します。
北条発は大人700円、鹿島発は500円となっています。

おまけ



鹿島を散策中、北条の港から、♪~♪~、
一日中、歌が聞こえてました。
埠頭には青いテントが並んでるのが見えて、
運動会かイベントでもやっているのかと思っていたのですが、
鹿島から北条の船着き場に戻ってやっと、その正体がわかりました。
訪問した7月24日は「風早海まつり」の日だったのです。

青テントが気になって港を歩いたら、露店が並んでました。
浴衣姿もちらほら。

人の波は鹿島から見えた埠頭へ向かって流れていました。
埠頭に着くとテントがずらり。

ブルーシートの屋根のテントから、いい匂いが辺り一面に。
北条のいろんな団体が模擬店をやっていました。

テントがぐるりと取り囲む広場には、
キャンプで見かけるテーブルセットが会場いっぱいに並べられ、
ちょっと壮観でした。
まつりの夜に行われる花火大会のための観覧席も兼ねているので、
至れり尽くせりなのでした。
テーブルには場所取りはダメ的な貼り紙がしてありました。

花火は、会場のすぐ目の前。
鹿島との間にいる船の上から打ち上げられました。
写ってる船がその船です。
このお天気なら、夜の花火は間違いなくキレイに見られるだろうということで-

花火まで3時間、時間潰しにあちこち、うろうろしてました。
夕焼けは立岩川の河口で迎えました。

振り返ると、高縄山と大月山の上に丸~いお月さん。

30分ほど遅れましたが、花火スタート!
計3000発の花火が北条の夜空を彩りました。

ひとりごと

何度も書いてますが、周遊道は2010年現在、通行止めになっています。
自己責任でも入ったら危ないので、真似しないで下さい。
このページだけは、写真を見ながら、あの頃、よく行ったなぁって、昔を懐かしんでもらえればいいだけのものです。
通行止めが解除される日までは無理はしないで下さい。
お願いします。

今回、時計回りに歩いてみました。
通行止めになって以来、遊歩道のあちこちに土砂や落石の堆積物が見られました。
土砂が堆積してる部分以外は昔と変わりがありませんでした。
昔は落石注意の看板もなく、頭の上を気にする必要がまるでありませんでしたが、今回はさすがに気になります。
道に土砂が溜まっているところは大きく避けたり、立ち止まらないようにしたり。
写真を撮る時もなるべく長居しないようにしました。
純粋に景色だけを楽しんでいられた昔との大きな違いでした。

人の心は動いても、水晶ヶ浜や石門、川獺谷は、思い出のままの場所で迎えてくれます。
小学校の遠足でみんなで登って記念写真を撮ったりした石門は特に思い出深くて、僕にとっての鹿島の顔的存在。

でも、2021年夏、あの石の門も、門ではなくなってしまいました。
崩れやすい花崗岩だから、崩壊は時間の問題でした。
だけど、生きてる間に崩れるとは思っていませんでした。
子供の頃、あのアーチの部分に乗って遊んだりしたけど、びくともしなかったもの。
形あるものは、いつか壊れる、か…。

太田屋まで戻って散策終了。
太田屋さんの横に国民宿舎があったのですが、残念ながら、覚えていません。
島のあっち側は遊び場じゃなかったし、国民宿舎のお風呂に入ったこともなかったし、鯛めしも食べたことがありません。
鯛めしと云えば、愛媛には2種類ありますね、炊くタイプと冷汁タイプ。
北条のは炊くタイプ。
お米と一緒にタイを丸ごと炊いて、炊きあがってから身をほぐほぐしてご飯とまぜまぜまぜ御飯に。
子供の頃、梅津寺の納涼台で食べたことがありますが、美味しかったなぁ。
骨もそのまま混ぜてあったから、そこだけはちょっとイヤだったけど。

鹿島の鯛めしも神功皇后の伝説に由来しています。
鹿島で戦勝を祈願した際、漁民たちが吉兆の印のタイを持ちより、米と一緒に炊いて献上したところ、皇后はとても喜ばれたとか。
神功皇后は伝説の人物ですが、実在の人物では、松山藩の4代目藩主・久松貞直が食して喜んだという記録はあるそうです。

僕が島を出た時、戻る船に浴衣姿の人がたくさん乗って行きました。
対岸・鹿島側からの花火見物に向かう人たちでした。
夏の渡船は夜10時が最終なので、夕涼みがてら、太田屋さんで鯛飯食べても余裕です。

鹿島にしばらく行ってないみなさ~ん、思い出探しに、ぜひ、鹿島へ渡ってみて下さい。

さて、北条が祭りだって気がついたのは、港に着いて、待合所に貼ってあった「風早海まつり」のポスターからでした
港の船溜りに面した道路は車両通行止め。
駅の方から歩いてくる浴衣姿の人波が向かっていたのは、埠頭に設けられた祭りのメイン会場でした。
露店が並んだ通りからは、ソースの焦げる香りが鼻をくすぐり、腹の虫がぐ~ぐ~。
メイン会場の屋台は、秋祭りで御輿を担ぐ青年団が出店していました。
地元の人が祭りを盛り上げてる感じがいい感じでした。
今年最初の花火でした。
だから、どーしても見たくて、そのまま夜までいました。
開始予定時刻の夜8時を過ぎても海上の船の整理が追いつかず、30分以上遅れて打ち上げスタート。
打ち上げ場所に近い堤防で見物しましたが、山歩用に用意してた虫よけスプレーが役に立ちました。
鹿島と港の間に停泊した船から、3000発の花火がどんどこ、どんどこ打ち上げられました。
花火、何度見てもいいなぁ。
できるなら、誰かと一緒に見たいけど。
花火を撮ってみたけど、最近のデジカメは難なく撮れますね。
撮れるけど、最高に華が開いた瞬間にシャッターを押すのが難しい。
撮影が気になって花火どころじゃなくなりそうだったので、途中であきらめました。

そんなこんなで、夏の良い一日を鹿島・北条で過ごすことができました。

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