北条港渡船乗り場から

雄甲山から

波妻の鼻・長浜海水浴場から

新城山から

高縄山から

鹿島(かしま)
愛媛県松山市辻鹿島
標高114m
▲山頂の三角点
点 名 鹿島
種別等級 四等三角点
地形図 松山-松山北部
緯 度 33°58′25.9628
経 度 132°45′49.496
標 高 114.04m
所在地 愛媛県松山市大字辻字鹿島1596の2番地

鹿島は、旧北条市の沖合に浮かぶ小島です。

国立公園(昭和31年(1956)5月指定)。
えひめ森林浴88ヵ所 59番。

北条港の250m沖合にあり、周囲1.5km(松山城の堀之内にすっぽり収まります)。
山頂の標高は114mです。
(港との距離は、各種資料では400mと紹介。
けれど、島、港ともに護岸化、埋め立てが進み、現在、渡船の航路上は300m足らずです。)
「伊予の江ノ島」との別名もある鹿島。
海水浴や遠足で一度は訪れたことがあるだろう、広く愛されている島です。
北条港から市営の渡船が、2、30分置きに朝7時から夜は9時頃まで頻繁に結んでいて往来がとても便利です。
釣り、キャンプ、森林浴、野生のシカ見物、避暑など、季節を問わず年間を通じて多くの人が島に渡り、楽しんでいます。

島の森は古くから伐採を禁じられてきました。
そのため、植生が豊かで、クスノキ、タブノキ、シロダムなど暖地性常緑照葉樹を中心に約260種の植物が繁茂しています。
豊かな森の主は“鹿島”の名の由来にもなっている、県指定天然記念物の野生のシカです(昭和23年(1948)10月指定)。
シカは昔から生息していて、九州の屋久島にいるヤクシカに近いニホンジカの亜種で、ひとまわり小さくて可愛らしいです。
小さな島なのでエサ不足で頭数の上下が見られ、明治・大正頃は「シカ守り」と呼ばれる人を配置し、エサを与えて保護していました。
ちなみに、明治時代、シカ守りさんが島に渡るのに使っていた手漕ぎ舟に客を乗せたのが渡船の始まりです。
昭和35年(1960)からは一部を柵の中で保護育成飼育しています。
島内のあちこちで何度でも出会えます。
でも、島の売店で売られてるシカのエサでもないと近付くことも、近くに来てもくれません。
登山道脇に金網が巻かれた若木が多数あります。
シカによる食害防止のほか、角を木に擦りつける行動から保護するためです。
立派な角が見られる期間は短く、毎年10月に行われる「ツノ切り」という行事で、観光客の安全を守る目的で切り落とされます。

周囲1.5kmの海岸線は波による浸食で凹凸と変化に富んでいます。
洞窟状にえぐれていたり、小さな入り江を小橋で渡たるような場所がいくつもあります。
黒岩・梅の木谷・犬戻り・淡紅洞・水晶ヶ浜・長磯・石門などの名前が付けられています。
けれど、その浸食・風化しやすい地質が災いし、周遊道は落石・崩落の危険があるとして現在、通行止めになっています。

島の歴史は古く、『日本書紀』にも登場します。
神功皇后が三韓征伐の途中、鹿島に立ち寄って支度を整えました。
神々に戦勝を祈願したという神話を秘めた、「御野立の巌(おのだちのいわお)」という岩が山頂にあります。
東海岸には、「神洗磯(かみあらいいそ)(“髪”洗磯の表記もあり)」と云う場所があります。

山頂には鹿島城と呼ばれた中世城址があります。
築城者は不明です。
一説では、天智2年(663)の白村江の戦いで敗れた大和朝廷軍が、海防のために対馬・筑紫・瀬戸内海に城を築きました。
瀬戸内海に築いた、大三島尼崎の上門島、大島中途の中門島、風早の鹿渡島(下門島)の鹿渡島がこの鹿島だと云われています。
河野氏が伊予を治めていた頃の鹿島は島全体が河野水軍の拠点となっていました。
建武年間(1334~1336)、河野通盛が道後の湯築城へ本拠地を移しました。
その際、海防目的で、風早郡那賀郡の地頭職だった今岡四郎通任が城砦を築いたと云われています。
現在も残る階段式連郭構造がそうです。
城主については、河野通友、通重、通儀、通興、通定、通秀の名が記録に見られます。
豊臣秀吉の四国侵攻に先だって小早川隆景が鹿島城を調べさせた記録(萩藩閥閲録)も残っています。
四国侵攻では、河野氏から離反していた来島通総が豊臣方の先鋒として活躍しました。
戦後、風早1万4千石を領有するとともに、鹿島城主に任ぜられました。
その後、城代は二神豊前守から通総の兄の得居半右衛門尉通之へ。
けれど、朝鮮出兵で通之(文禄の役)、通総(慶長の役)が相次いで戦死。
通総の子の康親(長親)の代、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで豊臣方に味方。
豊臣方西軍の敗北により、康親は豊後の森に転封され、鹿島城は廃城となりました。

鹿島城跡の山頂(一の平)には展望台が設置されています。
高縄山の雄大なすそ野に拡がる北条の街並みや、瀬戸の多島美など、素晴らしい眺望を楽しむことができます。

毎年5月に行われる「北条鹿島まつり」も河野水軍時代の名残りが垣間見られる行事です。
伝統の「櫂練(かいねり)踊り」は、愛媛県指定無形民俗文化財の指定を受けています。
河野水軍の戦勝祈願や、凱旋時の祝勝奉賛が始まりと云われています。
提灯や幟で飾り立てた「櫂練り船」では奉納の踊りが舞われます。
お神輿を載せた2隻の「お供船」は転覆しそうなくらい、船を左右に揺らします。
鹿島沖の小島、玉理・寒戸島にかかる大注連縄の張替も行われます。
高縄城城主・河野通信が龍神を勧請、海上安全と五穀豊穣を祈ったのが始まりと云われています。
長さ30㍍以上、直径40㌢もの大きな注連縄が張り替えられます。

昔話。
鹿島のお山が陸にあった頃のお話し。
腰折山と鹿島山が力比べに相撲を取りました。
行事は恵良山。
腰折山が鹿島山を海に投げ飛ばしました。
鹿島山も投げ飛ばされる直前、腰折山を蹴飛ばしました。
鹿島山が落ちた場所がいまの鹿島になりました。
はずみでお山は二つに割れて千霧島と小鹿島になりました。
落とした涙は玉理と寒戸島の2つの岩になったと言われています。
蹴れた腰折山は腰が曲がり、現在のあのお山の姿になったそうです。

島の東部に桟橋や博物館、売店、宿泊施設が集まっています。
鹿島鉱泉という温泉の源泉も発見され、国民宿舎「鹿島荘」に引湯されていました。
国民宿舎は長年の赤字で取り壊されました。
島の名物・鯛めしで有名で太田屋は宿泊も可能です。
鹿島博物展示館には海で見つかったナウマンゾウの化石などが展示されています。
鹿島神社は、茨城県の鹿島神宮を勧請したとも云われていますが、創建について書かれた資料は残っていません。
境内には、鹿島信仰と切り離すことができない「要石」が祀られ、地震を起こす大ナマズを押さえて動けないようにしている石です。
近年、島の南部が整備され、散策できる護岸やキャンプ場施設、海水浴場向けの砂浜ができました。

~ 渡船 ~ 400m 北条駅前交差点
鹿島 渡船乗り場 600m
土手内 700m
10km
10km
平田
6km

松山市駅

松山駅

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