行基山・明神山・潮見山
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明神山~行基山

距離 約700m
標高差 約60m
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
見晴らしあり

  

明神山山頂手前、明神山荘裏の分岐を左折-

しばらくは轍の付いた道を歩きます。
最初、下りですが、すぐに登りになって-



東斜面に拓かれた畑の脇を通ります。
先にある小屋の所で-

轍の付いた広い道は終わりです。

この先はまた踏み跡程度、草むらを歩いて行きます。



  

小野谷から上がってきた道が右から合流。
登山ルートは真っ直ぐ。

ひざ丈のササの中を歩いて-



森の中へ入って行きます。
登るごとに左の方から尾根が近付いてきて-

雑木林のなかで尾根と交差します。
でもすぐ、道は左、尾根は右と分かれて-

尾根の左下のシダが生えた暗がりを歩きます。



また尾根と合流したらしばらくは尾根上を歩きます。

麓の県道を走る車の音やトラクターのエンジン音が時折聞こえてくるぐらい、静かな雑木林。
落ち葉をガサガサ踏んで歩いていたら、小鳥たちに「侵入者発見!」と威勢よく鳴かれたり、自然たっぷりな山道です。



  

尾根からまた左にそれ、またシダの中の道。
やがて道は少し下ったりするので、
ルート間違えたような気がしながら歩いていたら-

小さな谷を横切るところで、
路肩が崩れ、道が一層、狭くなっていました。
でも、崩れてたおかげで-

高い木も無くて、松山市街を望むことができました。



斜面を横切るような道をずっと歩いていたら、尾根を切り欠いた場所に 行き当たりました。
行基山は城址なので堀切みたいなものかと思ったら-

  

簡易舗装された林道に出ました。

こっちは左に曲がった方、山の上にあるみかん畑へ通じています。

  

切欠きから右に曲がると竹林。
こっちが行基山の山頂方向です。
下り坂になっています。



  

切欠きから十数m下り、右の道のように見えるところから竹林へ入りま すが-

  

倒れた竹で思うように進めません。
おまけに行き止まり。

なので、竹林に入ったらすぐ、土手を上がり、
尾根に向かって登りました。

尾根に乗ったらそのままたどって上へ上へ。
道はありませんが、雑木はそんなに濃くないのでなんとか登れます。

もうちょっとで山頂ってところで、
デカいキノコと遭遇。

GPSと大きさを比較。
怪しいキノコだなぁ。

森の中は瑞瑞しいので、倒木には小さなキノコもびっしり。



行基山山頂に到着です!
山頂はなだらかな平地になっていて、行基山城城址らしい郭の跡のようにも思えます。
左奥に見える四角い黒い影は-

配水用のコンクリート枡。
その向う側に北向きに林が開けたところがありました。

  

写真右奥のお山は高森山・岩伽羅山。


見晴らしも良くなかったので、
とっとと降りてきました。

舗装の上に落ち葉が厚く積もり、意外と滑る山道を麓へ下りました。

混んだ竹林は寂しいほど薄暗かったので、
日向に出るとほっとしました。



谷を下ります。
この谷からは6世紀後半から8世紀後半にかけての須恵器の窯址、
駄馬姥ヶ懐窯址が発見されています。

丁字路もスルーし、どんどん下降。

舗装された道は歩きやすいけど、
なんとなく、足が疲れるなぁ。

雑木のトンネル。

また、トンネル。
左側、もうすぐ繋がりそう。



  

かなり下って来ました。
左側にため池があって、下の丁字路の角に-

巡視路の案内杭。

見上げた山の上の塔が15番?

谷の先にも別の鉄塔。
この辺りは送電鉄塔がかなり立っています。

とっとことと降りて、やっと人の気配が。



右にカーブしながら下ってやっと麓、小野谷駄場へ出ました。
正面の丘陵が次の目的地、潮見山です。

  

下り着いた道を左へ、100mちょっと歩いたら-



斉院木橋。

下を流れるのは小野川。
前日の雨の影響で濁ってます。



県道196号河中平井停車場線に出ました。
次は潮見山…、さて、どこから登ろうかな?

ひとりごと

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明神山から行基山までの小径もたいしてヤ ブった場所もなく、よくある登山道っぽい踏み跡でした。
こちらもやっぱり、地元の人が利用しているのでしょう。
もしくは、イノシシたちが毎晩、ぶひぶひ、踏み固めているのかも。

行基山には行基山城という城砦があったようです。
小野村誌には、

行基山
 同浮穴舘得能氏事明徳応年中之人諱道興と云ふ嘉吉三年九月比叡山にて討死山ノ内十門城中山城岩伽藍城衣懸城由山城鳥越城平井城久米八禿城星岡城奥ノ城八 倉城大戸城由並城兼帯菩提所由井山大蓮寺河野左馬介居之

「行基山城趾」
 大字北梅本字小野谷に在り、「明徳応永の頃得能通興之を築く、河野左馬之助之に居れり」
と書かれています。


得能通興と云う人物が城を築いたようです。
梅本界隈は伊予来目部小楯の伝説の播磨塚があったり、古くから人々が住み着いていたところです。
小野川、重信川の扇状地は肥沃で耕作に適していて、農耕を営む者が集えば、それを支配しようとする者が現れます。
北条の河野氏が松山に勢力を拡大すれば、久万から大野氏が、西条からも黒川氏もやって来て、緑成す大地が焼け野原になったことも数知れずあったことでしょ う。
 小野村誌から



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