三ヶ森へ行こう!
お山について登山口・ルート登ってみよう!メールホームへ
楠窪余野林道・鞍瀬へ

距離 約7.6km
標高差 約610m
距離 約7.3m
標高差 約180m
国道・県道
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所

登山口からの帰りは林道楠窪余野線を来た方と反対へ。
余野地区に向かって下りました。
左に大きく曲がると-

長~い下り坂、こっちも当分、砂利道です。
右下へ下ってる尾根の方へと向かって行きますが、
奥でカーブしてる白いガードレールのところまで行ったら-



土手が崩れたのか、道が狭く、路面が盛り上がってました。
ある種、峠や境界みたいな感じの場所がありました。

越えると、また長~い下り。
400mくらい進んだら大きくS字に下って高度を減らし-

またまた長~い下り。

途中にあった水飲み場。
黒いホースから直接飲んでしまいましたが、
したたり落ちる清水、美味しかったです。



  

西尾根を越える左カーブ。
林道がまだ楠窪側の林道と繋がっていなかった頃、
ほんの10年ぐらい前までは、
鞍瀬側から三ヶ森に登る人はこの辺りで西尾根に取り付いていました。

写真中央に見えているのは西日を背にした面木山のシルエット、
その右のうっすら写っているのは明神ヶ森などの山並み。
道は西尾根を大きく回り下り-

  

南斜面へ出ると今度は堂ヶ森が現れました。
更に下ると右にくぃっと曲がる急カーブがあります。



その急カーブ(標高720mほどのところ)。
カーブの外側は空き地になっていて、見晴らし抜群。
思わず停車して、写真を撮りました。

  

三ヶ森の南尾根から別れた西尾根の向こうに、
鞍瀬ノ頭以西の山並みが拡がっていました。
山頂で散散見た景色だけど-

  

保井野から堂ヶ森の右肩や相名峠への登山ルートは、
あんなとこを登るのかぁ。


ヘアピンカーブを抜けたところに車が一台駐まっていました。
下山中に擦れ違った人が乗ってきた車かも知れません。
登山口に車がなかったので。
写真を撮った空き地の奥にある小径から登ってったのかも。



標高600mから500mへ。
ヘアピンカーブを連ねて一気に100m下降します。
この辺りからカーブや急坂が多く、
路面保護のための簡易舗装が目立つようになりました。

5つも6つもヘアピンカーブを曲がり下ると、
少しずつですが、里に近付いてる気配がすごくしてきます。
竹林もその気配のひとつ。
写真のカーブの外側(背中側)には-

開拓の跡が残っていました。
石を積んで作った畑かなにかの跡にスギが植えてありました。
先人がひとつひとつ石を積んで苦労して作った跡が、
自然に還ろうとしています。



  

連続した急カーブが一段落。
しばらく真っ直ぐ下っていたら、ついに耕された畑、出現。
生活感を感じながら下ると-

  

アスファルトの道と合流しました。
アスファルトの道路は道幅が右に向かって大きく膨らんでいました。
丸太を満載したトラックが山から降りてきても、
安全に右折できるよう、道を拡げてあるのでしょう。
左にも狭いながら車道があります。
そちらには-

かやぶき屋根を守るトタン屋根の農家や奥の木立にも数軒。
棚田か段段畑がうねっていました。
標高450mにある余野地区です。
午後の日差しの下、お元気そうに農作業されてる姿が散見されました。
新緑に包まれた集落の光景はまるで小さな楽園のようでした。

そして林道もここ、余野まで。
県道までは余野地区の生活道です。
まだまだ標高が高いので、くねくね下ります。



1.5車線の山道はブラインドカーブも多い。
対向車に気を付けながら下ります。
この急カーブには開通を祝った記念碑が立っていました。

「昭和41年12月 余野農道改修記念碑」

見下ろすと、鞍瀬の県道が見えました。
谷の奥は国道11号線・桜三里方面です。

道は下るにつれ南へ転じ、余野の集落からどんどん離れ-



  

県道153号落合久万線と合流しました(標高260m)。
やっと着いた、というか、着いちゃった、というか…。
山道から大きな道に出る時はいつも、
安堵と淋しさがまぜこぜの複雑な気持ちになります。

角の小屋の後に「←三ヶ森 登山口」の道標があります。
そのほかにも、県道端に-

「告(入山禁止)
自然保護と環境保全のため、許可無く自然野性を問わず、
草木の採取を禁じます。
…地主同行なき場合は…盗採と見なし…処分します。」

こちらの大看板はパネルがそっくりありませんでした。
鞍瀬渓谷周辺の案内図かなにかあったのかな?

  

桜三里側から見た合流場所の様子です。
奥に堂ヶ森、青滝山がそびえています。
県道を更に溯れば保井野、堂ヶ森登山口へと至ります。
県道の名は「落合久万線」。
だけど、久万まで車道は通じていません。
堂ヶ森の西肩か、相名峠を歩いて越えないと久万には行けません。

鞍瀬川に下りたったついでに、保井野まで足を伸ばしてみました。
おまけなので、ざっと載せておきます。



写真左側は成地区、鞍瀬川を挟んだ右側は下影地区。
西にだいぶ傾いた太陽は黒森の山頂の上に。

成地区を抜けたところにある丁字路。
右に通行止めになってる橋があります。

橋を渡って山道を行けば、大野霊神社や赤滝城などへ行けます。
でも、この辺りにはもののけが棲んでいて、
廃道などで道に迷ったりすることがよくあるそう。
気を付けましょう。
この橋は渡れませんが、下影地区から林道御所線で来られます。

赤滝城・蜂ヶ森城・立烏帽子城など、この周辺には数々の城砦があり、
戦にまつわる話がたくさん残されています。
ちなみに御祓川の名も、亡くなった侍たちの怨念か、
川の水が赤く染まっていたのでお祓いしたら元の清流に戻った…、
そんな由来があったりします。

赤滝城跡

赤滝城跡は御祓川(おはらいがわ)の源流青滝山(1303m)の山腹あたりがそうである。
文台、大熊の前哨戦に敗れた平家勢が最後の拠点として逃げ落ちたのが赤滝城であった。
断崖絶壁の中に洞窟がある。
本城の岩屋、野地の岩屋、木釣の岩屋である。
しかし、洞窟戦は所詮は負け戦であった。
今はこれまでと覚悟を決めた目代とその一族9人は岩屋から討って出て乱戦の末、自害して果てた。
その地が九騎峠で温泉郡川内町滑川近くである。
源平両氏の興亡を占う戦いが丹原町で起き、源氏方の河野勢が大勝した文台、大熊、赤滝の城跡は、日本史を飾る大史跡である。

平成6年3月吉日 丹原町文化協会建立

沢の奥にあった滝。



成地区から3kmちょっと溯ったところにある保井之地区です。
とっても谷の奧にあるのに、想像以上に民家があって驚きます。

  

周桑バスの終点、「保井野集会所前」バス停付近から見える三ヶ森。

こちらは楠窪より2便多い、1日5便。
上り側(丹原行き)のバス停はまだ集落の奥にもあります。

青いトタンの小屋-

その入口の柱に-

バス停の時刻表が貼ってあります。
終点に来たバスはこの広い場所で待機しています。
堂ヶ森の帰り、バスに乗る時は気を付けてください。

  

そのバス停の先、また道が狭くなるところに-

夫婦滝・貝之口滝の登山口があります。
鞍瀬渓谷沿いを歩いて…なんと、約3時間かかります!

集落を上から。



集落からさらに2km進んだら、堂ヶ森登山口です。
駐車スペースがあります。
元元はキャンプ・BBQ場のために整備されました。

  

左は新しい公衆トイレ、右は廃屋、その廃屋の向こうに-

  

堂ヶ森の登山口があります。



車道の終点は、観光農園でしたが、いまは営業していません。
おじさんも番犬も牛たちもどこかへ行ってしまったのか、
けもの除けの電流柵の中には梅林だけが残っています。

看板。

  

梅園から堂ヶ森を見上げて。


以上、長~い寄り道、終了。



というわけで、余野分岐まで戻り、鞍瀬川に沿って県道を下って行きます。
鞍瀬川は堂ヶ森を源に、夫婦滝など絶景の鞍瀬渓谷を形成。
その後、中山川に合流する、とても清らかな川です。
GW中だったので、河原からBBQの煙があちこちで立ち昇ってました。
焼き肉の匂いにお腹がぐーぐー鳴りっぱなし。
太陽がもっと傾いて、深い鞍瀬の谷は日陰に。
ロンTじゃ、ちと肌寒いくらいになりました。



山の上にある峯地区の入口に看板が並んでいました。

  

ひとつは「林道峰下影線」のもの。

こちらは、峯地区にある蜂ヶ森城城址についての解説です。

蜂ヶ森城

元弘3年(1333)、北条氏の鎌倉幕府は滅亡したが、その残党は各地にあって、建武の新政に対して反乱を起こした。
伊予の国では赤橋重時が恵良城(北条市)で兵を挙げた。
赤橋氏は北条市から出ているといわれ、重時は星の岡の戦い(土居通増、得能通綱の連合郡が長門探題・北条時直を破った戦い)に時直と気脈を通じ、敗戦後恵良山に城を築いて時期到来を待っていた。
「重時反す」の報せに土居得能の連合軍は恵良城を攻め、重時主従18人は自殺したと伝う。
所が今一つの説が丹原町で生きている。
重時は自殺と偽り、密かに城を遁れて周布郡に来て鞍瀬村(現丹原町)の面木山頂に立烏帽子城を築き、属城数ヶ所を構えて兵を挙げた。
建武元年(1334)4月2日、得能通持、今岡通任、大祝安親ら2800余騎を率いて先ず属城楠窪の砦を攻めて守将・阿曽太郎を討ち殺し、進んで蜂ヶ森城を抜き、重時の一族・金沢蔵人を走らし、弟藤丸を斬った。
同7日、赤岳城も落城して立烏帽子城は孤立無援となり、重時は城を出て遁れ遂に捕われて斬られた。
城山の中腹に5基の五輪石塔が並んでいる。
里人達兄弟を哀れみ、いつの頃か正面に胎蔵界の大日如来の種子(梵字)(他の三方は脇仏の梵字)を彫った立派な供養塔を建てた。
更に文政3年(1820)地蔵堂を建て、兄弟の霊をまつった。
現在同地に大正9年(1920)氏子中で建堂一百年記念碑と、同年河野岩蔵氏寄進の八ヶ森地蔵権現堂(茅葺宝形造トタンで覆った美しい屋根)とその碑が建っている。
ほんとうに故郷を愛する人達は、是非一度訪れて在りし日の歴史の跡を偲ぶべき貴重な遺蹟である。

昭和57年7月 丹原町文化協会



高座・長面地区を通ったら、
5月なので、こいのぼりが泳いでました。

それも鞍瀬川の上を一斉に。
風がなかったので、泳ぐと云うより、
干物みたいにぶらぶらしてましたが-

川面に映る姿は確かに泳いで見えました。



旧桜樹村当時の中心部。
郵便局や公民館(元役場)、「馬木」バス停があります。

  

公民館の壁にある「桜木地区ふるさと案内板」。
旧桜樹村村内の名所がたくさん書いてあります。
鞍瀬川沿いのほか、楠窪や千原(千羽ヶ岳)の方も旧桜樹村に含まれていました。



  

県道が分岐合流する丁字路へ。
右に曲がった方が県道で-

  

鞍瀬橋を渡り、対岸を国道へ下りますが、
こっちに行かなくても国道に出られます。

丁字路に古い石の道標。
「松山道→」「←くらせ道」手のレリーフ付き。

橋の方へ行かず、直進すると、また看板。
左上に「新田塚(通称 梅之木さん)」というお堂がありました。

新田塚(通称 梅之木さん)

興国元年(1340)、新田義貞の弟・脇屋刑部卿義助、今張(今治)に上陸、国分城に入り5月4日急死す。
新田の一族に義光と云う無精あり、再起を図ってこの地に隠れ住しも志なかばにして病のため死亡。
臨終は白梅の古木の側であったと云う。
文化11年(1814)里人武将の死を悼み佛塔を建てて供養を行う。
爾来誰言うとなくこの祠を梅之木さんと稱えるようになった。
毎年旧暦11月5日、臘梅(ろうばい)ようやくふくらむ頃、里人相集い在りし日の武将を偲び懇なる供養を続けている。 

注 興国は南朝の年号である。
  北朝の年号は暦応で、興国元年は暦応3年である。

昭和59年7月 丹原町文化協会
丹原町観光協会



  

国道11号線に出ると車の騒音で一気に騒々しくなりました。
の橋を渡って県道を進むと、写真右の点滅信号のある交差点へ出ます。
ふたつの出口を結ぶように国道にはふたつの橋がかけられています。
鞍瀬川もここで中山川と合流します。

松山側から見た鞍瀬の入口。
「落合」バス停と案内図。

  

色褪せた鞍瀬の案内図。

ひとりごと

同じ道を帰るのはつまらないし、少し遠回りになるので、余野方面へ下ることにしました。
余野からの林道と繋がってるという情報を耳にしていました。
神部から上ってた時に追い越していったバイクが戻ってこなかったので、気分は、それ行け、ドンドンでした。
上りでだいぶ、ガソリンを消費したので、下りはエンジンをかけず、原動機付自転車から原動機使わない自転車モード、エコ下り。
地球に引っ張ってもらうだけなのでスピードは出ませんが、砂利道なのでタイヤにも優しい、のろのろ運転。
エンジン音がしないエコ下りしてると、時々、イノシシやシカに鉢合わせしたりします。
でも、今回はなんにも逢えず仕舞いでした。
余野の手前のジグザグ路まで、エンジン使わずに下ることができました。

余野地区はあんな山の上にあるのに何軒も家があります。
日だまりの下、お年寄りが畑をのんびり耕していて、ふるさとを絵に描いたような風景でした。
TVと電話と車があれば、体が元気なうちならこんなところに住みたいなぁ、と思ったりしました。
ホントは、近くにジャスコでもあったら最高ハッピーだけど (^_^;)

ちなみに、余野のバス停は県道との合流場所より下流にあります。
というのも、そのバス停に向かって山から真っ直ぐ下れる小径があるからです。
ちなみに、ここを走るバスはフリーストップなバスなので、運転手さんに声をかければ好きなところで下車できます。

「桜樹村の足跡」に三ヶ森がらみの一文があったので。

120 - 小倉の塚 三ヶ森中腹

 遠き武家政治の頃、一人の旅僧が此の地方に来て貧しく生きる人々に一片の希望を与え善根を施し、布教の日々を送っておりました。
 年映り老いて病になり、床に付く毎日となりましたが、その頃は訪れる里人もなく共に教を受ける者も無く、何時か老僧は死期を悟り一人寂しく土中の人となり生きたまま仏界に入って行ったという。
僧の死後に於いてその教の偉大さを知り、此処に塚を築き霊を祀り徳を敬い参詣する者は後を絶たず、線香の煙は終日谷にたなびき周辺に幟は林立し、大変な賑わいであったと伝えられております。
その塚は特殊な技法が使われ、当地方では見る事のない石積であったといい、塚の周辺から多量の古銭が出土したと伝えられる。
明長寺の本堂は明治42年奥之院から移築したというが奥の院は何処か。

こんな話も。

175 - 石鎚の投石(黒滝の投石)

 熊野神社の東南300米辺りでしょうか、三ヶ森山に行く尾根道の傍に雲母片岩系かと思われる直径1米余りの岩が転がっております。
 特別に変わった岩種ではないのですが此の地方の人達は石鎚権現(一説には黒滝権現)が投げた岩が途中で落ちたものだといい伝えております。
何時の頃であろうか石鎚山と黒滝山との間に大変な争が持ち上がりました。
 地方の山々が集まり話し合いで修めようとしたけれども解決が着かず手を引いてしまいました。
そうして石合戦が初まりお互いに投げられた石で山は崩れ肌は欠け、現代のような絶壁の峻険な山容となったのだといわれます。
その投げ石の一個が此の石だとの伝説が残っております。

さて、県道に着いて、まだ明るかったので、保井野まで足を伸ばしました。
楠窪へ下ったら遠回りになる、とか云いながら、もっと遠回り。

この辺りは中世城址が点在しています。
赤滝城、蜂ヶ森城、それと立烏帽子城は面木山山頂にあったそうです。
川内の大熊城などを巻き込んで城取合戦が繰り広げられ、1180年代には源氏と平家の争いの延長戦など、数々の伝説が残されました。
赤滝城の戦いは特に激しかったようです。
御所川の水は平氏方の血に染まってカニも赤くなりました。
九騎川のカニは食料不足を偽装したイモのとぎ汁を流したせいで白いんだそうです。
赤滝城ですが、林道御所線などを使って大野霊神社までは簡単に行けます。
その後は分岐も多く、迷いやすい山道となっていますので、注意が必要です。

保井野は遠いですねぇ。
でも、民家がいっぱい、住めば都。
保井野から堂ヶ森に登ったことがないので、いつか挑戦してみたいなぁ。

保井野から相名峠を越える道は昭和の初期まで重要な峠路だったそう。
結構、往来があったそうです。

131 - 相名峠、お吉親子の墓

 青滝山と堂ヶ森の中程に旧桜樹村と旧杣川村を結ぶ相名越があり、相名峠と呼ばれております。
此の峠は明治末期か大正時代迄は両村を結ぶ重要な道でありました。
遠くは明河地方で生産された木地類は梅ヶ市方面に送られ、黒森越で問屋部落に運ばれたのです。
両村の交流も深く婚姻関係も密であり、杣川村には明長寺の檀家も多くあって同寺の経文六百巻中三百巻が笠方にあるのでしょう。
笠方には明長寺の末寺があったと思われます。
天文の頃は大野利直、黒川通俊らの密計にも此の道が使用せられたでしょう。
頂上の窪地の西手にお吉親子の墓があります。
 「相名の峠や人遠や新吾郎恋しやおもの木(ブナの木)や」と語り伝えられる民話の中に夫婦に対する教えを見ます。
面河村には源吾郎で同様な民話があります。

いまはだいぶ寂れてしまったそうですが、まだオオカミがいた頃の哀しいお話を。

相名峠の哀歌 保井野

 昭和の初期迄杣川村と明河村を結ぶ重要な峠道で往来が盛んであった。
保井野地蔵堂の近くに新吾郎と嫁のお吉が5歳になる一粒種の男の子を可愛がりながら仲良く生活しておりました。
お吉は梅ヶ市の娘で、新吾郎と恋仲になり、峠を越えて嫁に来ており、はた目も羨む程の夫婦でした。
 ところが、或る日些細な事から夫婦げんかを起こし、お吉は夫の止めるのも聞かず梅ヶ市へ帰って行きました。
子供の手を引いて夕暮の峠道へさしかかると千匹連れの狼が襲ってきました。
二人は素早くオモノ木(ブナ)に登りましたが、狼は次々と踏台を作り二人を喰べてしまいました。
心配した新吾郎が火縄銃を片手に後を追いましたが、峠の方で叫ぶ「相名の峠や人遠や 新吾郎恋しや面の木や」の声を聞いただけで、親子は居ませんでした。

相名峠にも登って青滝山まで行ってみたくなりました。

引き返し、国道11号線へ。
GWでしたから、鞍瀬川には釣り人の姿や、河原でやBBQする家族連れがちらほら。
おやつだけ、弁当持ってこなかったから、道路までたなびいてくる焼き肉の匂いはたまらないのなんのって。
焦げ焦げの余り物でいいからおすそ分けして欲しい気持ちを抑えながら、県道を急いで帰りました。
でも、なかなか国道に出ません。
お腹も空いたし、のども渇いたので自販機あったらコーラでいいから買いたい…。
でも、結局、川内に戻るまで自販機に出会いませんでした。

以上で、三ヶ森のお山歩終了です。
また今度、三ヶ森を訪ねる時は、砂利道区間が短くて済む鞍瀬・余野側から林道に上がろうと思っています。

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