重茂山・無宗天山・高仙山
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登山口~高仙山~林道高仙線
徒歩部分
距離 約200m
標高差 約50m
一般道
林道・農道
徒歩道
下記写真の場所

農免道路。
総合体育館や太陽石油精油所への丁字路付近に登り口があります。

案内板が目印。



目指す高仙山山頂。



みかん畑上部。
こちらのルートは道幅が狭いので、対向車に注意です。



丁字路では左折。
後は道なりにどんどん登ると-



山頂下の駐車場に到着です。
写真は振り返って撮影。
右にある看板の所へ出てきます。
左は林道高仙線です。

林道高仙線を利用する、もう一つのルートの紹介。



大城寺地区から上るもう一つのルートです。
の入り口より300mほど東にあります。



こちらも曲がってすぐ、高仙山山頂が目に入ります。



分かれ道には案内板が立っています。

「高仙山城跡 あと2.5km→」



道なりにまっすぐですけど、左には-

「ホタルの生息地」の看板が立っていました。



林道高仙線の起点です。
右折します。

「林道高仙線 起点
巾員3.0米 総延長 1610.3米」

「高仙山城跡 あと1.7km→」

林道は道なりに。
こちらの方が道幅が広いので離合も比較的安心です。



駐車場から奥へ、公衆トイレの横を抜け-

鳥居をくぐって山頂へ向かいます。

「高仙神社」



時計回りに登ってひとつ目の祠へ。

(割れてたけど)ガラス窓の祠です。

祠正面にある見晴台。

見晴台からの景色です。
上ってきた麓の山並みから、
太陽石油精油所方面、写真奥の島は芸予諸島。

祠の左から山頂へ。



祠のある、高仙山山頂に到着です!

お堂の右の草むらの中に-

三角点がかくれんぼ。
「子瀬山」三等三角点。
標高は、248.37mです。

高仙山城跡

寛治四年(1090年)この地に加茂別雷神社、貴布祢神社が祀られてあったが、数度の遷座の末、加茂社は菊間へ、貴布祢社は岩谷へ移される。
現在の高仙神社には加茂別雷神社と貴布祢神社が祀られ、池原神社には城主池原兵部通成以下将兵を祀る。
正平年間(1346年頃)伊予の名門河野一族である池原近江守通去が山城を築き居城とする。
永禄年間(1558年頃)池原兵部通吉が城主となる。
天正13年7月(1586年)豊臣秀吉が天下統一のため小早川隆景に命じて四国平定の軍を起す。
隆景は数万の大軍を率い、来島通総を先兵として新居浜に上陸。
連戦連勝破竹の勢いで東予の諸城を陥し入れ、重茂城、無宗天城を降伏させて高仙城を攻める。
時の城主池原兵部通成は、二百余名を率いて大門大松山(伊予亀岡駅付近)に迎えて防戦につとめたが多勢に無勢、大門大松山は破られ(今も此の地に当時の戦死者を祀る千人塚あり)長谷の山崎の砦も落とされて残兵わずか19名と共に城に引き上げる。
高仙城では決死の攻防が続けられたが、遂に刀折れ、矢は尽きはて、谷に充満する大軍を眺めながら若干19歳の勇将通成自刃し、高仙城と共に生涯を終える。
時、天正13年7月13日、真っ赤な日が西ノ海に沈む頃であった。

平成4年4月吉日
種部落

帰りに、もう一度、海を。

ひとりごと

最後に上った高仙山。
山頂下の駐車場まで舗装されて、旅の終わりは楽ちんに終了となりました。
実はこの日はハシゴしまくりで、合計5座、登りました。
気がつけば城址ばかりでした。
登ったと行ってもスクーター登山ですけど。
ほとんどはビーノ号ががんばってくれました。
山行の無事をありがとう、と神社にお参りして帰りました。

戦国時代に築かれた高仙山城の址が良く残った山頂です。
その気になってみれば土塁や堀切、郭の跡もどんどん見つかります。
「菊間町誌」に記載されていた見取り図を載せておきます。

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