伊台のお山
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菅沢~松山市野外活動センター~横山
距離 約0.5km
標高差 約20m
一般道
徒歩
下記写真の場所

伊台松組交差点から上ること3.3km。
五明地区の入口、老人ホーム五明苑前の丁字路です。
右折します。
左折すると北条、堀江。

曲がって400mほど。
「← 松山市野外活動センター」の方へ左折。

狭かった五明地区の道路もだいぶ改良、拡張されました。
石手川ダムの赤い橋(黒田橋)までずっと2車線化されてます。



S字カーブが見えたら間もなく-



松山市野外活動センターのゲートです。
右の錆びた「レインボーハイランド」は愛称です。

車は先にある駐車場に駐めてください。
横山登山口近くには駐められません。
二輪は芝生広場入口に駐輪場があります。

園内の地図。
目指す横山は、中央上部-

体育館の左上に記述されています。



バス停はあるけど、バスは来ません。
イベントの時のみ稼働します。

バス停に掲げてある案内図。

別の案内図。

またまた違うデザインの案内図。

園内に犬猫、ペットの類は連れて来ちゃいけません。
きっと、放し飼いや糞を片付けなかったり、
非常識な飼い主がいっぱいいたからでしょう。



園内の道路は一方通行です。
一番高い所がキャンプ場・芝生広場入口です。
横山は、道なりに左、体育館の方へ進みますが、
逆に右に曲がると-

キャンプ場の入口です。
車は進入不可です。

さて、キャンプ場に行かずに曲がると、
左に体育館、右の斜面にソーラー発電システムがあって-



体育館を通り過ぎた、左に曲がる角が横山登山口です。

『横山城跡ハイキングコース』(片道10分)

 横山城は建武年聞(1334~1336年)に、河野通武が築いた城です。
海抜460mのけわしい山の上にあり、眼下に瀬戸内海を一望することができます。
通武の子孫南氏が代々ここを居城としていましたが、天正13年(1585年)に小早川隆景に攻められて落城しました。
その後400年を経た現在、わずかに昔の面影をとどめています。
 この城跡は西北にのびた「本丸」「馬乗り駄場」があります。
城跡に到るまでの山道には、10条に及ぶ堀切(城防備のため人為的に造った凹凸)があります。
「本丸」の中ほどには「太鼓岩」と呼ばれる大岩があり、この上に物見櫓が、またその右側に城門や角櫓があったと考えられています。
横山城跡の特徴は何といってもこれらの建物に使われた柱の柱穴が数十個、また石段や貯水槽などがそれぞれ岩に彫りつけてあることで
す。
これらの構造は戦国時代の城郭建築の研究のために重要かつ貴重なものです。
柱穴などの大きさや位置から、昔のお城の雄姿を想像するのも楽しいでしょう。

階段を登るとコンクリート製の廃屋。
道が右にも左にもありますが、まっすぐ進みましょう。

横山城跡

 横山城跡は、ここから尾根伝いに歩いて約5分のところにある。
場所は、北条市麓の横山の山頂にあたる。
愛媛県指定の史跡である。
現在は樹木に覆われてはっきりわからないが、大小さまざまな、柱穴と思われる穴があいた岩、岩に穴をあけて造った貯水槽、井戸等の遺構も点在し、六つの郭で構成されていたといわれる。
横山城跡は、戦国時代の城郭の構造を研究する上で貴重な資料となっている。
 横山城の築城は、河野通盛が根拠地を風早から道後湯築城に移した建武年間(1334~1337)といわれ、湯築城の背後、北方を固める役目を負っていた。
初代城主は、河野氏の一族の河野通武で、その後、子孫が南氏を名乗って代々、城主であった。
 天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐のとき、小早川隆景が東予地方から風早郡に攻め入り、落城したと伝えられる。

松山市 松山市教育委員会



ツリークライミング用のロープが巻き付けてある木から、森の中へ。

オリエンテーリングの1番ポスト。

地形が凸凹しているのは、横山城の名残りの堀切跡。



尾根の左側を進むと-

木立の合間から、興居島が見えました。



竹林を抜けて行き-

大きな岩が見えたら-



横山山頂に到着です!
大岩の向こうは-

ちょっとした広場になっています。
周囲の木が成長しちゃって、
パノラマが断片的にしか望めないのが少しもったいない。
見晴らしが利いたら瀬戸の海もよく見渡せられるんですけどね。

反対側から。
横山城があったこの場所にどんと腰を据えた大きな岩は、
「太鼓岩」とも「天狗岩」とも呼ばれています。
この岩には所所に-

横山城があった当時に穿かれた穴が残っています。

こちらは直径10cmほどの小穴。

岩屋にはお地蔵様。

大岩の上からの展望です。
10年前なら、海もきれいに見えたでしょうね。

大岩の北側に下る道があります。
降りればすぐ-



「馬乗り馬場」と呼ばれる場所です。

突端まで進むと-

北条鹿島が見えました。

高縄山と、大月山の紅白な鉄塔も見えました。

ここの岩にも穴が残っています。

旧北条の麓地区へ降りられる道があります。
「これより獣道 危険」の看板がありますが、
北条側の小学生らが遠足で登れるような道になっています。

ひとりごと

横山は旧北条の麓地区に属します。
伊台じゃないぞ!って、伊台の人にも北条の人にも叱られてしまいそうです。
伊台から登ってきたってことで含めさせていただきました。

東大栗町辺りから眺めると、尾根が真横に長く伸びて見えるから、“横”山なんでしょうか?
山と云うより尾根ですね。
北条側から見上げると山っぽくは見えますけど。

体育館横の登山口からは、ほとんど登りも下りもせず、楽々、山頂へ。
キャンプ場でバーベキューした後の腹ごなしにちょうど良い場所かも知れません。

登山道には、横山城創建当時に掘られた“堀切”と呼ばれる溝があります。
敵の足を止めるために掘られたそうです。
中世頃は、充分怪我するくらいもっと深々と掘ってあったのかな?
で、戦になったら堀切の底に先の尖った竹がずらっと仕掛けて、落ちた敵は即、串刺し状態。
あー、怖い、怖い…。
その罠にイノシイなんかも追い込んで、鍋にして食べちゃったり…。

堀切はいまじゃかなり埋まってます。
登山口の看板で予備知識を仕入れてなかったら、気付かず、通り過ぎてたかも。

一応、大岩のあるところを山頂としていますけど、最高地点は登山道の途中にあります。
道が尾根の左に外れてる所があって、右側の小高い林が最高地点です。

山頂の大きな岩は、城址の名残というより、巨石文化な感じがします。
岩の上に立てば瀬戸内が遠望できて、お山の大将気分が味わえます。
本文でも触れましたが、気が大きくなりすぎて北条側の遠望が利きません。
木の頭、ちょこっと剪定してもらえるとうれしいんだけどなー。

粟井の宅並山を整備・保存されてらっしゃる方が、麓地区からの登山道を整備されてらっしゃるそうです。
野外活動センターからでは登った気がしない方はぜひ、トライしてみて下さい。
粟井小学の児童らも野外授業の一環で登ってるそうです。

さて、横山城は、戦国時代末期、河野氏十八将の一人、南美作守通方が城主でした。
通方は、宅並山の宅並城の領民との水争いの末、宅並城城主の通妙に不意打ちされてしまいます。
通方の子、通具が城主となりましたが、秀吉の四国侵攻では小早川隆景軍の猛攻を受けます。
通具ら二百騎のみが守っていましたが、兵糧が尽き、夜、風雨にまぎれて脱出。
その後、横山城は陥落し、通具が最後の城主となりました。

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