へ行こう!
ヨラキレ線~黒滝峠 | |||||||||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧①②③ | |||||||||||||||||||||||||
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①ヨラキレ山保安林管理道へ入って行きます。
②伐採の進んだ場所からは、
中津明神山から雑誌山に至る山並みが一望できます。
写真中央のピークが目指す雑誌西山です。
③大勢の作業員さんらが早朝から働いてらっしゃいます。
植林や下刈りなど、斜面での作業は大変そうです。
草刈り機のエンジン音は黒滝峠の方まで聞こえていました。
※車で来られる方へ
作業を妨げるようなわがまま駐車は厳禁です。
「こんな山ん中で…」と軽く思っていると強制排除される、かもよ。
中津明神山の東の顔が見えてきました。
④道の右側が広く整地された場所に、
黒滝峠への登り口があります。
峠に向かう前に、林道の終点まで、ちょっと寄り道。
①④の場所からすぐの、下りのヘアピンカーブ。
ガタガタと下っていき-
②道の途中から振り返ると、
こんなパノラマが拡がっていました。
黒藤川の谷の最深部です。
見える山山は愛媛県と高知県を分かつ、県境の尾根で、
いずれも標高1300~1400mオーバーです。
雑誌山の近くまで来たようでも、まだまだ遠いです。
中津明神山は猿越山の向こうに隠れてしまいました。
林道はもう一度、急カーブして-
法面が崩落した場所で行き止まります。
③下の急カーブから見た、西方向の眺めです。
黒藤川の谷です。
眼下を流れる前川は谷を流れ下り、
国道33号線沿いの仁淀川(面河川)へ。
写真右に二箆山。
もう一度振り返って。
写真中央に雑誌西山。
雑誌山は雑誌西山のピークに隠れて見えません。
雑誌西山右の尾根上にカラ池があります。
その反対、雑誌西山左にある山の更に左にある鞍部が黒滝峠です。
寄り道終了。
④の黒滝峠登り口へ戻ります。
左へ上る作業道へ。
作業道は軽トラなら入れそうな道幅ですけど、
タイヤバリア代わりの丸太が所々にありますので、
車不可です。
広場に駐車して徒歩で入山します。
⑤伐採され、明るい道。
取りあえず上へ、上へ。
⑥変形十字路に出会います。
迷ってちょうだいと言わんばかりの迷路です。
左へ曲がるのが正解です。
帰りのことを考えて矢印を残しておきました。
⑦基本的には右ある沢から離れないように登ります。
伐採ゾーンを抜け-
木々が混んできたら、林の向こうに尾根が透けて見えてきます。
もう一がんばり登ると-
⑧黒滝峠に出ました。
尾根を走る道はいにしえの往還「土佐街道」です。
二体のお地蔵様が峠の古くからの目印。
黒滝峠は「地蔵峠」とも呼ばれていました。
“天保十二年丑四月”の銘があり、天保12年は1841年です。
真新しいポールが立っています。
いまは登山者しか来ませんが、ほんの150年前まで、
伊予と土佐を結ぶ重要な“土佐街道”でした。
「黒滝峠 雑誌超え予州高山通り」
裏は、「池川紙一揆逃散の道(1787年)
中島与一郎脱藩の道(1864年)」
雑誌山へは峠から右へ尾根をたどりますが、
歩き始めてすぐ、左に別れる分岐に出会います。
旧街道との別れです。
雑誌山は“カラ池”方面へ直進します。
旧街道は“←水の峠”へ、左に下ります。
雑誌山の北麓をトラバースし、東麓の水の峠に至ります。
ひとりごと | ||
実を云うとこの日の予定は二箆山だけで、雑誌山には行けたらうれしいなぁ、ぐらいの心づもりでした。 次々に枝分かれする林道を、あっちじゃない、こっちじゃないと迷いながら、なんとか黒滝峠へ。 さて、白いポールに描かれていた「中島与一郎脱藩」についてです。 土佐の下士は、侍であって侍でない、身分の低い階級でした。 土佐は明治維新に至るまで山内家が代代藩主を務めてきました。 11月20日(現代の暦では12月18日)、吾川郡名野川の百姓・西森梅造の道案内で脱藩しました。 後日、脱藩者だったことを知った田辺さんは、匿った罪を問われちゃまずいと思い、しばらく内緒にしていたそうです。 翌日、中島らは街道に戻ったものの、与市郎の脚は一向に回復しません。 脱藩に成功した中島信行のその後の活躍ぶりは目覚ましいものでした。 もうひとり、細木核太郎は、長州に渡り、高杉晋作の門下に入りました。 |
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