二箆山・雑誌山
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ヨラキレ線~黒滝峠
徒歩部分
距離 約800m
標高差 約130m
徒歩
県道
林道
下記写真の場所
通行止め

ヨラキレ山保安林管理道へ入って行きます。



伐採の進んだ場所からは、
中津明神山から雑誌山に至る山並みが一望できます。
写真中央のピークが目指す雑誌西山です。



大勢の作業員さんらが早朝から働いてらっしゃいます。
植林や下刈りなど、斜面での作業は大変そうです。
草刈り機のエンジン音は黒滝峠の方まで聞こえていました。

※車で来られる方へ
作業を妨げるようなわがまま駐車は厳禁です。
「こんな山ん中で…」と軽く思っていると強制排除される、かもよ。

中津明神山の東の顔が見えてきました。



  

道の右側が広く整地された場所に、
黒滝峠への登り口があります。

峠に向かう前に、林道の終点まで、ちょっと寄り道。



の場所からすぐの、下りのヘアピンカーブ。

ガタガタと下っていき-



道の途中から振り返ると、
こんなパノラマが拡がっていました。
黒藤川の谷の最深部です。
見える山山は愛媛県と高知県を分かつ、県境の尾根で、
いずれも標高1300~1400mオーバーです。
雑誌山の近くまで来たようでも、まだまだ遠いです。
中津明神山は猿越山の向こうに隠れてしまいました。

林道はもう一度、急カーブして-

法面が崩落した場所で行き止まります。



下の急カーブから見た、西方向の眺めです。
黒藤川の谷です。
眼下を流れる前川は谷を流れ下り、
国道33号線沿いの仁淀川(面河川)へ。
写真右に二箆山。

もう一度振り返って。
写真中央に雑誌西山。
雑誌山は雑誌西山のピークに隠れて見えません。
雑誌西山右の尾根上にカラ池があります。
その反対、雑誌西山左にある山の更に左にある鞍部が黒滝峠です。

寄り道終了。
の黒滝峠登り口へ戻ります。


  

左へ上る作業道へ。
作業道は軽トラなら入れそうな道幅ですけど、
タイヤバリア代わりの丸太が所々にありますので、
車不可です。
広場に駐車して徒歩で入山します。



伐採され、明るい道。

取りあえず上へ、上へ。



  

変形十字路に出会います。
迷ってちょうだいと言わんばかりの迷路です。
左へ曲がるのが正解です。

帰りのことを考えて矢印を残しておきました。



基本的には右ある沢から離れないように登ります。
伐採ゾーンを抜け-

木々が混んできたら、林の向こうに尾根が透けて見えてきます。
もう一がんばり登ると-



  

黒滝峠に出ました。
尾根を走る道はいにしえの往還「土佐街道」です。

二体のお地蔵様が峠の古くからの目印。
黒滝峠は「地蔵峠」とも呼ばれていました。
“天保十二年丑四月”の銘があり、天保12年は1841年です。

真新しいポールが立っています。
いまは登山者しか来ませんが、ほんの150年前まで、
伊予と土佐を結ぶ重要な“土佐街道”でした。

「黒滝峠 雑誌超え予州高山通り」

裏は、「池川紙一揆逃散の道(1787年)
中島与一郎脱藩の道(1864年)」

  

雑誌山へは峠から右へ尾根をたどりますが、
歩き始めてすぐ、左に別れる分岐に出会います。
旧街道との別れです。

雑誌山は“カラ池”方面へ直進します。
旧街道は“←水の峠”へ、左に下ります。
雑誌山の北麓をトラバースし、東麓の水の峠に至ります。

ひとりごと

実を云うとこの日の予定は二箆山だけで、雑誌山には行けたらうれしいなぁ、ぐらいの心づもりでした。
林道の終点をまず見に行って、そこから見える県境の山並みを眺めながら、雑誌山に行こうか、やめようか、しばし、悩んでました。
一応、GPSに雑誌山の座標も入力してきてたので、道次第で迷わずに行ける自信はありました。
黒藤川方面からの登山道についてまったく情報が得られなかったこともあって、不安でしょうがありませんでした。
だけど、林道終点から見える山並みが「おいで、おいで」って呼ぶのです。
ひとまず、黒滝峠まで登ってから考えようと心を決めて登山口へ向かいました。

次々に枝分かれする林道を、あっちじゃない、こっちじゃないと迷いながら、なんとか黒滝峠へ。
峠に着いてみると、草刈りされた遊歩道に、峠の歴史を記した白いポールや真新しい木の道標まで。
荒れて淋しい様を想像していたので、これなら雑誌山も行ける!と、ほっと心が軽くなりました。
旧池川町の「池川応援団」のみなさんが荒れ放題だった旧街道やカラ池への道をトレッキングコースとして整備してくれたおかげなのでした。
感謝感謝です。
一方の愛媛側は遊歩道としては整備されていません。
森林整備のための作業道が拓かれてるだけで、ウエルカムな高知側と比べて申し訳ない感じがしました。

さて、白いポールに描かれていた「中島与一郎脱藩」についてです。
中島与市郎は土佐の高岡郡新居村の郷土で当時23歳。
従兄弟らと3人で、この土佐街道を通って脱藩しようとしました。
従兄弟の中島信行(当時は作太郎)は高岡郡塚地村の郷土で当時19歳。
もう一人、高岡郡新居村の大庄屋の息子で細木核太郎、当時27歳。
けれど、道中、中島与市郎だけが命を落としました。
彼らがなぜ、脱藩という大罪を企てるに至ったかは当時の時代背景が大きく関係しています。
時は幕末、黒船来航からたった15年ほどの出来事です。
武士にとっては激動の15年。
それは、土佐の下士たちにとって、歴史に名を残す唯一のチャンスでもありました。

土佐の下士は、侍であって侍でない、身分の低い階級でした。
彼らは元元、長宗我部に属していた侍たちでした。
戦国時代末期、土佐を治めることになった山内一豊は入国時、身分の低い武士の階級におとしめて彼らを受け入れました。
徳川の時代が終わるまでの260年もの間、下士は犬猫同然の扱いを強いられてきました。

土佐は明治維新に至るまで山内家が代代藩主を務めてきました。
断絶や転封で、家主が変わることがザラだった江戸時代。
伊予松山藩も、コロコロと主が交代しました。
土佐も交代があれば、下士らの暮らしぶりも良くなったでしょうが、そうはなりませんでした。
下士となった土佐郷士は異様な身分差別の中に封じられました。
武市半平太のように下士のまま歴史の表舞台に立つことができたのは少数です。
歴史に名を刻んだ多くの志士は坂本龍馬を始めとする脱藩組でした。
上士には土下座して道を譲り、斬り捨てられても文句を云えない存在。
一生奉公しても報いられることがない生活を送らされていた鬱憤が、土佐を捨てたことで一気に弾け、開花したような軌跡を残しました。
一方、国を捨てることはなかった武市半平太ら土佐勤王党の面々も土佐から京に出てやっと、活躍する場を得ました。
けれど、それも一瞬のこと。
中島与市郎が命を落とす前の年の文久3年(1863)、会津と薩摩のクーデターによる八月十八日の政変が起きます。
尊王攘夷のトップでイケイケだった長州藩が京都を追われ、大和で挙兵した天誅組もあっさり壊滅。
世情の風向きは逆転し、脇に追い遣られていた保守派の逆襲が始まり、土佐勤王党員は次々に投獄され、大弾圧が始まりました。
翌元治元年(1864)は、長州は蛤御門の変を起こすも、返り討ちに。
各地で活躍していた土佐の脱藩浪士たちも次々と命を落とす逆風の中、土佐勤王党員にとっては苛烈を極めた年でした。
武市半平太も切腹に追い込まれ、党員の4分の1がこの時期に亡くなっています。
当時、土佐勤王党に入っていた中島与市郎らにも弾圧の影は確実に忍び寄りっていたことでしょう。
一方で、坂本龍馬ら自由奔放に活躍する脱藩組の姿もあり、大いに影響された中島は脱藩を決意します。

11月20日(現代の暦では12月18日)、吾川郡名野川の百姓・西森梅造の道案内で脱藩しました。
途中、番所で役人を斬る大騒ぎな関所破りをしてしまいます。
龍馬のようにそっと抜けられれば良かったのですが、大勢の追っ手に追われるハメになってしまいました。
追っ手の役人たちは名野川村・大平村・池川村・大崎村から猟師らを招集し、後を追わせました。
雑誌山を越える土佐街道は不自由な雪道となっていて、急ぐ道中、中島与市郎は足を傷めます。
なんとか国境まで達した中島たちですが、日も傾いて山越えを断念し、二箆の集落へ下って農家に一夜の宿を求めました。
現在は廃校になっている二箆小学校の横に住む田辺さん宅がその農家だそうです。
「上方へ用事があって行く途中だ」と云う彼らを親切にもてなしたそうです。

後日、脱藩者だったことを知った田辺さんは、匿った罪を問われちゃまずいと思い、しばらく内緒にしていたそうです。
国境まで道案内した梅造は、関所破りの大事になったせいか、名野川には戻らず、旧中津村の久主くすへ下山。
大正の中頃に亡くなるまで、そこで暮らしたそうです。

翌日、中島らは街道に戻ったものの、与市郎の脚は一向に回復しません。
与市郎は脱藩をあきらめ、ひとり、土佐に帰ることにしました。
足手まといになることを嫌ってのことかも知れません。
国境を越えて土佐に戻ろうとした与市郎は水の峠の大師堂にて捕り方に追い詰められ、銃撃され、命を落とします。
自刃したと云う話も伝わっています。
また別の話では、与市郎は一度捕縛され、池川の番所へ。
そこで隙を見て脱走し、水の峠の大師堂まで逃げますが…、後は同じ結末です。
与市郎が足を痛めたのは、脱藩を悟った与市郎の家族が神仏に足止めを祈願したため、と云う話もあります。
足止め祈願が効きすぎたせいで彼が命を落とすことになったとしたら、家族にとってはちょっと複雑な話です。

脱藩に成功した中島信行のその後の活躍ぶりは目覚ましいものでした。
渡った長州で三条実美を警護したり、龍馬の海援隊に入って活躍。
龍馬暗殺後、長州にいた龍馬の妻・お龍を土佐の坂本家に送り届けようと、三吉慎蔵に託したのも信行でした。
維新後も神奈川県令、元老院議官、イタリア特命全権公使、衆議院議長を務め、男爵を授けられるほどになりました。
正直なところ、信行の維新後の活躍がなければ、与市郎の死に光が当たることもなかったかも知れません。
でも、与一郎が自らの命をもって追っ手を食い止めたのだとしたらどうでしょう。
信行の栄光は、与一郎の最後の煌めきに端を発していると云えるのではないでしょうか。
与一郎がもし、無事にこの峠を越えていたならば、歴史は少し違ったものになったかも知れません。
その“もしも”の辺りが、多くの人が幕末という時代に惹かれる由縁かも知れません。

もうひとり、細木核太郎は、長州に渡り、高杉晋作の門下に入りました。
以降、尊攘運動家と云うより、武人としての頭角を現して行きます。
長州兵の一員となった彼は、幕府による長州征伐では神機隊士として幕兵と戦いました。
戊辰戦争では、司令士として因州軍に属する山国隊を率いて各地を転戦。
脱藩の罪を許されてからは、土佐の迅衝隊士として会津若松城攻略戦に参加しました。
維新後は高知に戻り、県庁に出仕するなどし、郷里に戻ったのは明治17年のことでした。

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