二箆山・雑誌山
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登山口~二箆山山頂
距離 約600m
標高差 約100m
徒歩
林道
下記写真の場所
  

写真左の道へ、登ります。
道の右側が広いのでスクーターを駐め、歩いて登りました。

道の左側は国有林です。
右側は伐採・植林整備が進んでいます。



100mくらい登ったら右に猿楽石が見え、猿楽大師堂境内へ。
二箆山山頂は林のずっと後ろに頭をのぞかせています。



猿楽大師堂です。

「猿楽大師堂」

この大岩が猿楽石です。
丸く土色が違うのは土俵だそうです。

大師堂左の道の入り口に-

「旧土佐への道 十二里石」の看板。
十二石は背の高い石柱で、左写真の石ではありません。
猿楽石の近くに立ってます。



  

その道を少し入って小屋の手前で右へ曲がります。

緩やかで分かりにくいですけど、
尾根伝いに北へ登ります。



道のようですが、杉の苗が延々植えてあるだけです。
苗をくれぐれも痛めないように登ります。

傾斜がアップ。
山頂は稜線へ出てもまだ右の方へ進んだ先にあります。



山の南側はものすごく伐採整理が進んでいます。

苗木もたくさん植樹完了。



尾根の沿いの一部に切り捨て間伐の丸太が山になっています。
乗り越えるのは無理だし、時間がかかる。
途中で出会った作業道に移動して山頂下まで進んだ方が楽でした。
がれきの周辺も植樹されています。
苗を踏んだり傷つけないように!



山頂部分に残された林の中に三角点があります。



二箆山山頂に到着です!

奥のは三角点じゃない?

手前にある方がどうやら正しい三角点みたい。

「二箆山 1169.1m」

礎石の上面に「+」も刻まれてます。

ひとりごと

二箆山は林道からホントにすぐ山頂に立つことができました。
猿楽大師堂、猿楽石…。
その昔はここで猿楽が奉納されてたんでしょうか?
大師堂の前を土佐街道が横切ってますから、江戸の頃は大変賑やかだったのかもしれませんね。
ひっそりとした境内では、文字通り、サルだけが静けさを楽しんでるのかも。
土佐街道を旅人が行き交っていた頃はホントにサルが沢山いたそうです。

その土佐街道の名残を残すのが「十二里石」。
訪問時はよく調べもせずに行ったので発見できませんでしたが、お遍路さんの道しるべ石みたいな石柱があります。
十二里は松山城堀之内の北西隅、札の辻からの距離を表しています。
(松山から土佐国境までは12里18丁)
松山から12里ということですが、ホントは現在地より400m土佐寄りに立っていました。
移動させたのは土佐から来た相撲取り。
猿楽石の前にある土俵の跡はその昔、相撲が奉納されたり、街道が栄えていた頃の名残です。
相撲大会に招かれた土佐の相撲取りが力自慢に道端にあった十二里石を引っこ抜きました。
そして、なんと、いまの場所まで肩に担いできちゃったんだそうです。

さて、いまはもう見る影も無いほどに廃れてしまった土佐街道。
ほんの150年前までは重要な街道・予土往還道の一つでした。
高知の人は“土佐街道”と呼び、松山の人は“久万街道”、久万の人たちは“殿様街道”なんて呼んでたそうです。

ちなみに、いま国道33号線のルートが開通したのは明治27年で、県都を結ぶ“四国新道”の一部として建設されました。
でも、二箆山の北の谷を通っている“酷道”っぽい国道494号線の方が少し早く、明治12年に一等県道として設定されました。

昔は牛馬が通れれば良し、だったので、こんな山越えの街道でもちゃんと機能していました。
二箆山~雑誌山の山道は、美川の仕七川から高知の池川を繋いでいます。
仕七川にある十一里石から猿楽石の前の十二里石までうんとこしょっと登ります。
二箆山山頂前を通過して黒滝峠(当時は地蔵峠)へ向かい、雑誌山の北麓を横切り、東麓にある水の峠から池川に下っていました。
また、この前後も山越え峠越えの連続です。
久万~仕七川間も現在の国道33号線と県道12号線の間を対角線的に突っ切る山道でした。
池川以降も黒森山にある鈴ヶ峠840mを越えなければなりませんでした。

明治維新の初めには、朝敵となった松山藩を征伐するために土佐の藩兵がこの土佐街道を通って松山入りしています。
幕末、親藩だった松山藩は徳川に味方し、長州征伐にも兵を送りました。
その際、大島でなにやら狼藉を働き、長州人の恨みを買っていたらしいです。
御維新後、長州に睨まれた松山藩は一時、土佐から来た兵隊に占拠されました。
藩主は蟄居、15万両もの賠償金を取られ、経済はガタガタになってしまいます。
錦の御旗を先頭に土佐の藩兵はこの二箆山の前を通って行きました。
その数、2000人(越知や池川、用居などで徴発した荷物運びのための人足も含む)。
そんな大勢が通っても大丈夫な街道でした。

猿楽大師堂は、街道を行き交うウマを、猿楽石の東100mほどの場所にある底無し沼に棲む大蛇から守るために建てられたそうです。
いまはカヤで覆われた凹地ですが、往時は沼だったそうです。
この黒藤川周辺も山深いところだけあって魑魅魍魎の伝説も多く残っているようです。
行き倒れも毎年のようにいたでしょうから、そういう類の話の種は尽きなかったに違いありません。

二箆山周辺は伐採・植林作業が大がかりに行われています。
二箆山山頂周辺も林がすっかり伐採され、日当たりのいい斜面が顔を見せています。
植樹された苗木の回りにはちゃんと肥料もまかれてます。
その苗木を守るように並べられた丸太の列はまるで等高線のようでした。

二箆山から先、旧土佐街道を往くと道端に古い石積みが残っています。
いまは誰っちゃ住んでいませんが、戦前までは炭焼きやミツマタを加工する人たち、50軒ほどの集落があったそうです。

僕の祖母方はこの麓の黒藤川出身でした。
伯父が子供の頃は向かいにある中津明神山の麓にある畑へミツマタを採りに行ったりしていたそうです。
また伯母は黒藤川(くろふじがわ)とは呼ばず、昔の呼び名の“つづらがわ”をよく使います。

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