天山・星岡山
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天山
一般道
徒歩
下記写真の場所

天山郵便局のY字路を左へ進んですぐ-



左側に天山神社の入口があります。
この石段から山へ登ります。

石段登り口にある歌碑。

天山

 八世紀前半に編集されたという地誌『伊予国風土記』逸文に、「伊与の郡。郡家より東北のかたに天山あり。
天山と名づくる由は、倭に天の加具山あり。
天より天降りし時に、二つに分れて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。
よりて天山といふ、本なり。その御影を敬礼ひて、久米寺に奉れり」と書かれている。
 この記述によると、まず、「天山」は、伊予郡にあり、郡役所の東北にある。
また、名前の由来は、もと天上にあった山が地上へ落ちてきたところ、途中で二つに分割されて、片方が大和(奈良県)の天香具山となり、他の一つが天山となったという。
その時の天山の絵図を久米寺に奉納したというのである。
 この久米寺の位置については、中ノ子廃寺跡、或いは国指定史跡来住廃寺跡の二説がある。
この天山の周辺には小丘陵が点在していて、皿ケ嶺を背景にして眺ある風景は、奈良県の大和三山に似ているともいわれている。

松山市 松山市教育委員会



石段を登るとなぜかガードレール。



天山神社へ。

天山神社略縁起

祭神 天照皇太神
   天櫛眞知命

 社伝に云う天山神社は人皇十代崇神天皇5年(紀元前91年)天下饑疫す。
天皇大いに懼れ群神を祀り給う時、久米麿「三輪田の祖」に勅して天櫛眞知命を久米吉井郷天山に祀らしめ神地神戸を給うとあり、続日本紀に称徳天皇天平神護元年(765)11月使を天下諸國の神社に遣すと在り続いて神護景雲元年(767)2月天下諸社に神服を奉ると在り此の時も例に與り給う。
徳川氏大政を奉遷し王政復古、明治5年(1871)5月神社沿革の際に当り村社に例せらる。


社殿の右に、すべり台やジャングルジムのある公園があります。
そちらがまだいくらか高いので行ってみます。



“風土記の森”の南斜面の森は伐採され、農地になっています。
写真右上の大きな鉄箱の周辺がもっとも高い場所です。
山頂を示すものは何もありませんでした。

この景色を売りにいつか宅地に転用されてしまうかも。

麓まで伐採されています。
川附川沿いの宅地からも登ることができます。

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