天山・星岡山
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星岡山
一般道
徒歩
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設

ちょっと離れて、南から見た星岡山。
右の建物は城南高校。
三角点のある山頂は写真中央の、森の頭に切れ込みが入ってる場所です。

小野川沿いを行きます。
川には大きな黒い鯉が何匹も悠々と泳いでいます。



雲門寺。から山頂を目指します。
お寺に向かって左にある小径を上り、墓地の方へ。

雲門寺の本堂。
伊予十二薬師霊場の第八番です。



近郊のお山は不思議と墓地に登山口があったりして。

更に奥へ行くと左手にまた別の墓地。



ちょっとした峠っぽい場所を右折します。

峠から振り返って。
写真右の道から左の道へ上がって行きます。

少し広めの土の道を登ります。

ちょっとした山歩きが味わえます。



お堂が見えてきました。

雲門寺の奥の院、岡薬師堂。

本堂の左奥へ進むと-



星岡山山頂到着です!
三角点はすっかり草に埋もれてしまってます。
その代わりみたいに大きな石碑が堂々と目立っています。
「星岡表忠之碑」。
鎌倉幕府が崩壊する争乱の先駆けとなった星岡古戦場の記念碑です。

星岡古戦場

 元弘の変(1331年)後、次第に衰微してしいく鎌倉幕府を倒し王政復古を目指した後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受け、久米郡の土居通増、桑村郡得能(周桑郡丹原町)の得能通綱温泉郡忽那島(中島)の忽那重清越智郡大三島の大祝安親らが兵を挙げた。
 元払3(1333)年、長門探題の長官であった北条時直は、伊予の勤王軍討伐を目指し兵を率いて、2月2日越智郡の石井浜(今治市近見)に上陸したが敗退した。
続いて3月に入り、水居津(松山市今出か三津付近といわれる)、に上陸、星の岡城を占拠した。
3月12日、付近に集結した土居、得能らの連合軍の攻撃開始で激戦となり、戦線は平井付近まで及んだ。
 探題府の軍は全滅に近い敗北となり、時直は身ひとつで逃れたといわれる。
この戦いが諸国を動かし、朝廷に応じる武士が次々と出て、建武新政と呼ばれる王政復古成立の大きな原因になったといわれる。

松山市 松山市教育委員会

もう一つ、雲門寺の墓地から登れる道があります。



で通り過ぎた墓地の中へ入ります。

登山口には石仏があります。

ミニお四国みたいに石仏が登山道沿いに並んでいます。

石仏をたどって登ります。

最後の石段を登るとの岡薬師堂の正面へ。


星岡山は4つのなだらかなピークを持つ、横に長いお山です。
北側の峰にも登れる道がありますので、ご紹介します。

国道11号線から望む星岡山の北側の尾根には、
不釣り合いに大きい電波塔がすごく目立ちます。
その電波塔の下まで登ることができます。



11号線からお山へ向かう道は城南高校の通学路と同じです。
墓地の前で左折し-



城南高校の校門のすぐ右前にある-

辰岡天満宮へ。
石段をとんとんとんっと登ったら、すぐに-

拝殿。
二礼二拍手一拝。

拝殿の左にある小さな鳥居をくぐります。

登ってすぐの小さな祠の右上が山頂です。



山頂の広場には「菅公御腰掛石」があります。
菅公は菅原道真のことです。
同様な菅公腰掛石は、東温市重信の天満宮にもあります。
そのほかにも西日本のあちこちに存在します。
太宰府へ左遷の途次に立ち寄った際、腰掛けた、そんな謂われの石です。
ちょいと腰掛けた石が後世まで語り継がれるなんて、
道真自身が一番驚いてたりして。

鉄塔は、ドコモの星ヶ岡無線中継所です。
周囲は雑草まみれでも、中継所の周りだけ、きれいです。

西側から登れる階段が雑草に埋もれていました。
階段を下れば星乃岡温泉です。

車が上がってきてたらしい道もできてました。

少し下ってみると、土亀山と天山が見下ろせました。

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