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水満田古墳公園
水満田古墳公園
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設
公園案内図を利用させていただきました。

山頂の丁字路から右へ曲がると水満田古墳公園に行けます。
車は(バイクも)進入できません。
物見櫓が見えています。

今回は、山の上から下る方向で巡って行きます。
まず、物見櫓から。
安全上の配慮により、残念ながら施錠され、登れません。
団体利用の際は申し込めば鍵を外して貰えるそうです。
物見やぐら
物見やぐらは、高床建物のうちのひとつで、村を敵かち守るために、太い柱をたててつくった見張りのやぐらのことです。遠くまで見えるよう見晴らしのよいところにたてられており、その高さは10m前後であったと思われます。
今回は6本柱で高さ9mのものを再現しましたが、鳥取県稲吉角田遺跡から出土した絵画土器に描かれた建物のように4本柱のものもあるようです。
また、愛媛県総合運動公園の近くの土壇原遺跡では、大きく深い4本柱のあとがみつかっており、物見やぐらであった可能性もあります。
物見やぐらは縄文時代からつくられていたようで、比較的大きな村がこのような施設を備えていたと考えられます。
なお、当時は図のように簡単なつくりだったと思われます。

A縄文時代 早期から晩期にかけて、丘陵の低いところや河岸段丘止に集落があったようです。
B弥生時代 前期の集落遺跡はみつかっていませんが、中期になると急に集落が増え、砥部川に面ずる河岸段丘上に広く存在もしています。
後期も中期に引き続き集落が多いですが、全体的に中・低位の河岸段丘上に移動します。
C古墳時代 前期と中期の集落跡は発見されていませんが、後期の集落は、弥生時代よりさらに低地に立地する傾向が強くなります。

※河岸段丘とは、何川(砥部川)の流路に沿って存在する昔の川底で、現在は数段の細長い平坦な地面になっているところです。
平成8年3月 砥部町教育委員会
物見櫓のすぐ下に石室が公開されてる墳墓があります。
こちらも施錠されています。
でも、ガラス戸で中を覗くことはできます。
扉の前の埴輪が可愛いです。
水満田2号古墳
古墳とは、そのあたりの村を支配していた人を葬るために、土を高く盛ってつくった墓のことです。
古墳はその形から、円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳などがあり、現在のところ砥部町の古墳は円墳と方墳です。
水満田2号古墳は、墳丘が直径約17m、残存高3.4mの円墳で、内部に横穴式石室をもった、この公園の中では最も高い位置にある古墳です。
この古墳は、平成5年に砥部町教育委員会が発掘調査を行い、その後、広く公開するために整備を行いました。
石室の中からは、たくさんの須恵器、鉄器、玉類と円筒埴輪1点・耳環(耳輪)4点が出土しました。
耳環と、床に分布する赤色顔料の存在から、東側に頭をむけて葬られていることがわかっています。
また、墳丘の低い位置からは、須恵器や埴輪がみつからりました。
この須恵器のうち、大型の甕や壷は墓前祭祀(祖先を祭ること)に使われたと考えられます。
この古墳は、追葬(いったん遺体を葬ってから、後世に別の遺体を葬ること)が行われています。
なお、今回の整備により、石室の中の土器は、町内の粘土を使って再現しました。

砥部町の古墳群について

砥部町は愛媛県の中でも特に古墳が密集している地域です。
砥部川両岸にある丘陵・河岸段丘上に合計10以上の古墳群があり、通谷池南部がその南端です。
財団法人愛媛県埋蔵文化財調査センターが昭和61年に実施した調査の結果、この公園には19基の古墳があったことがわかっています。
すべて古墳時代の後期につくられたものですが、一度につくられたのではなく、6世紀後葉から7世紀中葉にかけてつくられています。
そして、古いものほど大きく、丘陵稜線上の高いところにあるようです。
また、古墳の中の石室を形づくる大きな石は、砥部川などから運んできたものと思われ、当時の人々の苦労がしのばれます。
平成8年3月 砥部町教育委員会

次は再現された竪穴式住居。
竪穴住居
竪穴住居とは、地面を数十センチ掘りこんで床をつくり、柱をたて屋根をふいた住居で、夏涼しく冬は暖かく住みやすいといわれています。
床には炉またはカマドなどがあり、床面はかたく踏みかためられています。
また、周囲には浅い溝をめぐらしていることもあります。
竪穴住居は、日本では縄文時代から平安時代にかけて使われていたらしく、その床面の形は円形、方形、隅丸方形などがあります。
砥部町では、全体的にみると弥生時代には円形が多く、古墳時代には隅丸方形が多いといえます。
町内で発見されている住居跡は、縄文時代、弥生時代、古墳時代のものがほとんどで、愛媛県総合運動公園付近や、砥部川の河岸段丘にある集落遺跡からたくさん出土しています。
これらの住居跡には、弥生時代には、ものを煮炊きするための炉の跡が中央にあることが多く、古墳時代の中頃からは、炉にかわってカマドが壁ぎわにとりつけられていることが多いようです。
今回は、5.5m四方、地上高3mでカマドがある竪穴住居を再現しました。
なお、一棟に一家族(5~6人程度)がくらしていたといわれています。
平成8年3月 砥部町教育委員会
隙間から覗くと、かまども再現されているのが見えました。
焚き口辺りが黒ずんでいましたので、社会見学時にでも火を焚いたのかな。
竪穴式住居の向かいにある3号墳も内部が覗けます。
施錠された扉の格子越しに中を覗けます。
見事に石積みされているのが凄いですね。
金毘羅山3号墳
この古墳は、標高182mの丘陵上にある直径20m前後の円墳で、古墳のまわりに溝は埴輪はありませんでした。
石室は、遺体を納めた「玄室」と、その部屋に入ってゆく通路の「羨道」からできています。
真上から見ると、ちょうど羽子板のような細長い形をしており砥部地域の典型的な「横穴式石室」のひとつです。
発掘したところ、玄室には、数人の人が、武器(刀や弓矢)や馬具(轡など)、さらには、工具(斧や小刀)や土器(壷や皿)とともに、次々と葬られていたことが判りました。
壷や皿は、「須恵器」と呼ばれる灰色の堅い焼き物ですが、この焼き物の年代から、この古墳が、6世紀の中頃から7世紀の初め頃(古墳時代の後期)に営まれた、有力者一族のお墓であることが判りました。
墳墓の真裏に送電鉄塔。
松山線No.76

ちょこっと広い所があります。
凸っとした所はみな古墳ですけど-
案内表示が無いとただの芝生の広場みたいです。
古墳が出た時は芝主なんかじゃなく森林だったでしょうから、古墳を見つけた人、すごいなぁ。

4号墳の左を下ると、更に池の方へ下る階段があります。
ひとまず、ここは降りずに右へ曲がり-
再現された高床式倉庫へ。
こちらも施錠されてるので、外観のみ見学です。
高床式倉庫
高床式の建物は、地上に柱をたてて床を高くすることによって、湿気やねずみの害を防ぐ効果があります。
日本では、弥生時代に、とれたお米を貯蔵するための倉庫(高床式倉庫)として使われたのが最初といわれており、ねずみが入らないように「ねずみ返し」というしかけがつくられています。
この倉庫は、長方形や円形のものがあり、砥部町では長方形のものが多かったようです。
現在のところ、愛媛県総合運動公園付近や、砥部川の河岸段丘上の集落遺跡から、高床式建物の跡がたくさんみつかっており、なかには倉庫以外に
住居として使用されたものもあるようです。
なお、高床式倉庫に関係する遺物として、松山市の古照遺跡から倉庫の建築部材を転用したものが、また今治市の中寺州尾遺跡からは倉庫の扉が出土しています。
高床式倉庫の向かいに4号墳。

箱式石棺が屋根付きで展示されています。 これらは他所からこちらに移設されてきたもののようです。
箱式石棺
箱式石棺とは、緑泥片岩などの板石を長い箱形に組み合わせてふたをした、遺体をおさめる棺です。
箱式石棺AとBは、愛媛県総合運動公園建設に伴う埋蔵文化財発振調査に
より、釈迦面山1号古墳(方墳)の中から出土しました。
また箱式石棺Cは、国道33号線から愛媛県総合運動公園への進入路工事中に、大下田2号古墳の北側から出土しました。

箱式石棺A(右)
和泉砂岸と緑泥片岩の組み合わせでつくられており、床面に敷きつめられた川砂利にはペンガラが赤く付着していました。
この石棺は、まわりを粘土で厚くおおわれ、ほぼ完全な状態で保存されており、中には人骨とともに剣・刀子などがおさめられていました。
なお人骨は、熟年の男性と女性が1体ずつ埋葬されていました。

箱式石棺B(中)
緑泥片岩の組み合わせでつくられており、床面には緑泥片岩の川砂利が敷かれていました。
このBもAと同じように、粘土で密封されていたために完全な状態で残っていました。
また、中には熟年女性の人骨が1体埋葬されていました。

箱式石棺C(左)
緑泥片岩の組み合わせでつくられており、床面もその板石を敷いています。
周囲は粘土でおおわれており、中には人骨や副葬品はまったくありませんでしたが、腐食したものと思われます。
なお、工事により西側が一部破壊・消滅していました。

階段を下ります。
階段取り付きにも古墳があるようです。
中央手前に5号墳、奥が6号墳、左奥に8号墳。
まさに、山を歩けば古墳に当たる状態。

階段を下りる途中にも左右に- 7号墳。
10号墳。 11号墳。

西の谷上池のほとりまで降りてきました。
順路は左ですけど、右に行くと-

池の土手を通って裏道に出られます。
一応、公園入口はこっちじゃありませんので。
写真右の山は坂面山です。

に戻ります。

池のほとりにはベンチのある休憩所や水飲み場があります。
水鳥たちが水面をスイスイと平和そうに泳いでいました。

道が二手に。
トイレや公園入口のある方と、埴輪が焼ける窯へ行く方に分かれます。
ひとまず、窯を覗きに上がってみました。

埴輪を焼いた穴窯を再現したものだそうです。
斜面を利用して徐々に熱が上へ上へ上っていく構造ですね。
現代の砥部焼の窯元でも同じような窯が使われています。
古代にはもう、こんな技術が確立してたんですね。
はにわ窯
砥部町では古墳や集落の遺跡のほかに窯跡がたくさんみつかっています。
現在の砥部焼の起源は江戸時代にさかのぼりますが、町内にはそれよりも古く、古墳時代後期から奈良時代にかけて、須恵器などを焼いていた窯跡が多くみつかっています。
愛媛県総合運動公園付近の窯跡群からは、県内でもめずらしい、埴輪を焼いた窯(谷田1号窯)跡が発見されました。
はにわ窯は、この窯跡をもとに、砥部町教育委員会が平成3年に再現したものです。
谷田1号窯は、愛媛県教育委員会が昭和51年6月から9月にかけて現地発掘調査を行いました。
この窯は、ゆるやかにのぴた稜線上にあり、6世紀末から7世紀初頭にかけて、須恵器と埴輪を焼いていた半地下式の登り窯(あな窯)です。
付近には、須恵器などをつくる工房や、その仕事をしていだ人たちの墓(古墳)もみつかっています。
この地域で窯業が営まれたのは、
①窯を作るのに適した10度位の傾斜地が多い、
②近くに土器を作るのに適した粘土があった、
③窯を焚くための薪の原料となる木が豊富にあった、
などの理由が考えられます。
須恵器とは、ロクロなどを使って作った土器を、あな窯で還元炎焼成により焼いたものを須恵器といいます。
摂氏千二百度位まで温度を上げて焼いており、灰色または青灰色をしています。
須恵器は従来の野焼きの土器に比べてはるかにかたく、また窯で焼くことにより一度にたくさん作れるようになりました。
須恵器づくりの技法は5世紀前半(古墳時代中期)に朝鮮半島から伝わりました。

一方、トイレの前を通ってくと- 公園の入口があります。

21号、20号墳の前を通って、道は山上へと戻ります。 お!また笑顔のはにわ君発見。

ため池側の入口へのアクセスも紹介しておきます。
理正院の前から田ノ浦方面へ。
300mほど進むと-


金毘羅山公園への遊歩道があります。 横から見るとこんな感じ。
春は桜でめっちゃ綺麗そう。

その少し先に分岐があります。
右の道を上がります。
「水満田公園 あと300m」の道標があります。

西の谷下池がまずあって、土手沿いに上がると、
U字カーブがあり、公園専用の駐車場が設けられています。

そして、公園の入口に着きます。

金毘羅山がお花見に最適な場所だってことも知らなかったぐらいなので、古墳公園も当然、知りませんでした。
一部の地図には古墳公園と書かれていましたけど、こんなにたくさんの古墳があるとは思いませんでした。
松山市内にもあちこちに古墳があります。
天山にある小山たちは、あの山全体が古墳みたいなものです。
松山市の古墳については市のサイト【松山の埋蔵文化財包蔵地】を参照すれば、古墳や城址の位置を記したPDFファイルを見ることもできます。
現代の道後平野は水不足を除けば自然災害による被害も少ないですけど、多くの古墳があることから察するに、古代の道後平野も多分に住みやすかったんだろうなぁ、って想像しちゃいます。
古代の道後平野はどんな光景だったんでしょうね。

物見櫓、登りたかったなぁ。
なんで鍵なんかしちゃうのかなぁ。
イタズラとか邪悪そうな察しは付くけど、やっぱり、もったいないですね。

物見櫓と云えば、以前、スクーターで九州まで行った時、佐賀の吉野ヶ里歴史公園に立ち寄り、物見櫓に登ったことがあります。
この古墳公園なんて相手にならないくらい、吉野ヶ里はそれはもう広大でスケールがデカくて、圧倒的。
物見櫓もでっかいのがたくさん再現されてて、高床式倉庫もふっとい柱で建てられてました。
古代の木造建築って想像以上の巨大さだったりするんですよね。
九州に渡る前に寄った出雲大社では発掘されてた、大昔の本殿を支えていたんだろう柱を見学。
昔から、太古の本殿は高さが約48mもあったと伝えられていたそうで、発掘された柱はそれを裏付けるものとなりました。
三本の巨木を束ねてひとつの柱としたもので、それも古絵図に書かれていたものと一致。
48mといえば、東大寺の大仏殿より高いんですよね。
なかなかやります、古代人。
道後平野も住みやすさから考えれば、吉野ヶ里級の集落や、出雲並みの神殿とか、出てきそうな気もします。

それにしても、砥部って知らない所ばかりです。
もっと、探検せねば!



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