八竹山・高穴山
へ行こう!
お山について登山口・ルート登ってみよう!メールホームへ
高穴山へ
距離 約320m
標高差 約160m
国道・県道
一般道
徒歩
下記写真の場所
  

国道196号線・旧北条市府中交差点。
「高縄山→」の案内に従って右折します。

県道178号湯山高縄北条線です。
高縄山の石ヶ峠を越え、
国道317号線・九川地区へと至る道です。
高穴山まではずっと二車線です。

  

菜の花越しに高穴山(左)と雄甲山・雌甲山を。
春、この辺りの川沿いは菜の花が、
あちこちに咲いてきれいです。



  

ちょっと寄り道して善応寺へ行ってみました。
右斜めに小径を入って、雌甲山の麓目指し、
門前の家並みを抜けると-



善応寺に着きます。

お寺の下には薬師堂や馬頭観音があります。
坂を登ると-

境内へ。
「河野氏発祥之地」の石碑が立っています。
河野氏が創建した当時はとても大きなお寺でした。
ここいら一帯に数々の堂宇が建ち並んでいました。

隆盛を極めていた頃を描いた看板が掲げられています。
現在の地図にない山名も載っていて興味深いです。

建武年間、河野通盛が道後に湯築城を築き、河野氏の本拠地を道後に移し、それまでの河野の土居館を寺院に改築し、河野一族の氏寺として、好成山善応寺を創建した。
 創栄当時は、善応寺古文書によると、七堂伽藍・十三塔頭寺院が並び、近世の善応寺村全域にわたる広大な大禅刹であったが、天正年間、豊臣軍の四国侵攻により、諸堂一朝の灰塵となる。
江戸中期、徳川将軍吉宗の厚遇を受け、今の地、明智庵跡に、松山藩主松平定長により、現在の善応寺を再建した。

碑誌

河野氏は、伊予国第一の大族で、風早郡(現北条市)河野郷土居(善応寺)この地より起こる。
 中世伊予を代表する武士であった河野氏は、河野郷を中心として発展するが、確がな記録では、平安時代の末期から地方豪族として、広く世に知られるようになった。
特に源平合戦で活躍した河野通信が、確固不動の地位を獲得し、瀬戸内海に面する伊予の実権を掌握した。
 瀬戸内海に突出する高縄半島にある河野氏発祥の地、河野氏の本拠である河野郷土居は、中世伊予の軍事・経済・文化の中心で、日本の政治と深く係わり合って、波瀾にみちた歴史を生んだところである。

善応寺縁起(冶革)

 開基河野通盛(1364没)は、通有の末子に生まれ 河野総領家を継いだが、元弘の乱(1331)に失脚し、鎌倉建長寺の南山士雲をたより、旧勢を保つことができた。
この時、南山士雲の恩に報いるため、河野郷土居館を京都東福寺に擬して寺院に改築し、建武2年(1335)に河野一族の氏寺として好成山善応寺を創営した。
 通盛(法名善恵)は、南山士雲の法嗣正堂士顕を東予市長福寺から迎え開祖としたが、正堂法嗣の寺として永代住持(住職)を定めた。
この後、貞治3年(1364)には、諸山の列(官寺)に加えられた。
 古文書によれば、寺域を「東限鳩谷之透、南限揚岐庵山過山峰之透、西限裟婆山之透、北限土居山尾新宮山」とし、現在の善応寺部落全域にわたり、その面積は60町歩に及ぶ広大なものであった。
 七堂(仏殿・法堂・僧堂・万丈・庫司・東司・浴室)十三塔頭(通玄庵・萬松院・千手院・養寿院・大崇院・宗玄院・林少院・萬年寺・一心庵・見寿庵・明智庵・霊雲庵)を有する大禅利であった。
 その後、善応寺は代々河野氏の帰依を受け盛観を呈したが、天正13年(1585)7月河野氏没落と共に戦火に焼失荒廃した。
江戸時代中期、善応寺17世の黙翁士徹によって、将軍徳川吉宗の厚遇を受け、明智庵のあとに現在の善応寺を再建した。

清々とした境内の様子です。
本堂は一段高い所にあります、合掌。

  

県道へ戻る小交差点に-

「→右 城山道」の碑がありました。
ここは高縄山と夫婦山(雄甲山・雌甲山)への分岐で-

右折するとすぐ雄甲山・雌甲山の登山口です。
その登山道が城山道と呼ばれています。

  

左折して県道に戻りました。

県道はまっすぐ、高穴山に向かって延びています。
平行して流れる河野川に沿って進み、
お山に挟まれた谷間へと入って行きます。



  

谷に入って間もなく。
岩壺橋という小さな橋を渡った所が高穴山登り口です。

目印はこの階段。
登山開始です。

階段を登るとホースなどが転がる植林帯。
一段、土手を登ると-



道のように見えた場所にはU字溝があります。

  

林の中を上へ登る、
けもの道のような不明瞭な踏み跡が見つかります。
ここからはハッキリした登山道がありません。
ひとまずは、目前の植林帯を登り抜けるのが目標です。

下刈りされているので登りやすいけど-

結構な斜面なので、ずるずる滑ります。
植林の切れ目を目指し-

これくらいの傾斜を、まっすぐ直登してもOK。
または、右にある、露出している大岩の方へ行き-

浅い谷間状の地形を登って-

イノシシが掘り起こしてふかふかの地面を横切り、
右方の尾根を目指し、トラバースするのもありです。

  


尾根にトラバースしてみると、
邪魔な潅木があったりしますが、
後は尾根伝いに登るだけなので、
幾分、安心してルート取りができるかと思います。

  

植林の上は伐採され、若木が育つ、
陽が差して明るい斜面になっています。
植林帯を直登したときは、
若木を決して傷つけないように登りましょう。



若木ゾーンの上はずっと自然林。

  

ちらと振り返って、来た道を振り返ってみました。

さて、後は尾根伝いに登ります。
先人が残した赤テープなども目印。



木のうろに水が溜まっていました。

若い木が可哀想に踏まれて折れていました。
道無きところを登る時はなるべく、
自然を傷つけないようにしたいものです。



登るにつれ、尾根には岩が露出してきます。

浮き石に気をつけて慌てず急がず、登りましょう。



ちょっとした平らかな場所に着きました。
城跡の曲輪の跡です。

早春までは木木のスリットの向こうに海も望めます。

尾根沿いに岩を並べた道のように見える所を通り-



次は、先より狭めの曲輪跡があり-

石積みに挟まれ、凹んだような地形、
堀切もあって-

また、岩がゴロゴロする急斜面を、
木の根を階段代わり、枝を手すりに登ります。



境界の杭に出会います。

少しだけ斜面が緩やかな、肩のような部分を歩き-

  

山頂部の最後の登りです。
向かって左側からが登りやすかったです。

山頂が近づくにつれ、
岩山みたくなってきます。

急斜面にはイノシシやけものたちの足跡が残っていました。
ひづめもずるずる滑る斜面です。
動物たちがなぜ、がんばって登るのかは後ほど解明。



高穴山山頂に到着です!
山頂は東西に横長く平らな形状をしています。
高穴城の本丸跡です。
登り着くのは西の端っこ。

すぐそこに三角点があります。
完全に露出しちゃって恥ずかしい状態です。
「高名」三角点、標高は292.08mです。

城址らしく、小さな祠がお出迎え。合掌。

祠の向こうに凹んだ所があります。
覗いてみると、それは-

干ばつでも涸れないと云われる池でした。
山頂にあってホントに涸れないなら不思議です。
高縄山からの水脈でも通じてるのかな。

手前にスロープがあり、動物の足跡が付いていました。
動物たちが山頂を目指すのは水浴びするためのようでした。

山頂の東側の様子を。

  

海側(西端)に戻って、海を遠望。

  

山頂からは高縄山もちゃんと見通せます。

  

鹿島も。

ひとりごと

高穴山には登山道がありません。
やっぱり、地図に名前が載っていないお山の宿命でしょうか。
加えて、城址的にもマイナーな感じだからかも。
ゼンリンの住宅地図には山頂手前まで道が描かれています。
でも、現地に行ってみると見つかりませんでした。
結局、がしがし、斜面をよじ登り、尾根を伝って山頂へと至りました。
多分、夏とか、草や枝葉が伸び放題なシーズンは相当に登りづらくなると思います。
地元の方が登山道を設けよう(切り拓こう)と計画されてらっしゃるようです。
いつか、もっと登りやすい道ができあがっているかもしれません。

遠くから高穴山を見ると3つの頂があるように見えます。
城址もそれぞれのピークにあるようです。
天正年間の豊臣秀吉による四国侵攻時、高穴山の急傾斜な地の利が功を奏しました。
なかなか落城せず、攻め手の小早川勢は大変苦労したそうです。
重たい甲冑をまとい、岩や矢、煮えたぎった油やらが雨あられと降ってくる斜面を登らなくちゃいけないわけです。
僕がまるっきりの軽装で登り降りしても落ち葉やドングリに足が滑って一度か二度、尻餅。
立木があったから楽に登れたくらいだから、当時の兵(つわもの)たちの苦労たるや、想像に難くありません。
なかなか攻略に至らず、業を煮やした小早川隆景が自ら山を登り、遂に落城させたそうです。
その後、小早川勢は鹿島城、善応寺城、横山城を堕としました。
河野氏の本丸、道後方面へと駒を進め、伊予の国は河野氏から秀吉の支配下となるのです。

山頂の池は小さいです。
明治の頃の複数の資料には、いずれも「旱魃かんばつでも涸れない」と記されてる不思議な池です。
池の水は茶色くて、いかにも動物たちの水浴び場って感じです。
登山道もないし、動物たちも安心して浸かってることでしょうね。

ブログパーツ
     
inserted by FC2 system