だらり権現・大森山
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大森山へ
距離 約400m
標高差 約40m
国道・県道
一般道
林道
徒歩
下記写真の場所
  

林道だらり線の起点に戻り、
県道56号線を再び、上ります。



  

左カーブで泉谷の棚田まで下れる道、発見。
帰りはここを下った方が近道だったりします。



  

泉ヶ峠に到着。
右の砂利道は、耳取・石上峠や大迫山、
京の森へ尾根伝いに向かう林道です。
カーブを曲がれば-

  

「大洲市」の標識があって、右の土手には-

  

宿間へ向かう「坂本竜馬脱藩の道」の階段があり-

  

旧泉ヶ峠から下ってきた脱藩の道が県道と合流する場所です。
ちなみに、この脱藩の道をここから東へ歩いても大森山へ行けます。
登山口まで1kmもかからず、高低差もさほど無いので、
ハイキングのつもりで歩くのも楽しいかも。

  

脱藩の道についての解説があります。

坂本龍馬脱藩の道

泉ヶ峠

文久2年(1862年)春、土佐の郷士坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し、自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。
3月24日、同志沢村惣之丞と高知を発った龍馬は、25日梼原の那須俊平、信吾
父子の家に泊まり、翌26日(新暦では4月24日)大野ヶ原は韮ヶ峠の国境を越えた。
その夜ここ泉ヶ峠に着き、沢村惣之丞、そして道案内の那須俊平とともに一夜の宿をとった。
かつてこの峠には、旅館などがあり、土佐街道の交通の要所としてにぎわっていた。
脱藩後の最初の夜、龍馬はこの峠でどんな夢を見たであろう。

平成19年3月

河辺坂本龍馬脱藩の道保存会
河辺観光推進協議会
内子町教育委員会



  

峠からずっと下り。
河辺町の山鳥坂へ下る分かれ道がある場所からは、
これから登る大森山のほか、町木山、高森山など、
河辺町の山山が見えました。



  

大森山へ行く林道入口です。
地図上の接点より、さらに下ったカーブにあります。
左折するその角に-

また「脱藩の道」の案内。



  

道なりに進めば石城峠、日除地区へと至る三叉路。
左折します。
丸い案内には、「行き止まり(国営パイロットファーム)」とあります。
その行き止まりがすなわち、大森山の登山口です。
なだらかな道を行くと-



  

農場に到着します。
車道はもう少し奥まで続いていますけど、
後から写真のように車が来ちゃうと出られなくなるので、
農作業の迷惑や邪魔にならないところに駐車しましょう。
脱藩の道は、写真右から来て右折し、左奥の道へ、消えて行きます。
訪問時、ラジオが大音量で農場中に響き渡っていました。

ハウスを左に見ながら砂利道を登ります。

ハウスを覗いたら、トマトがいっぱい実っていました。



  

農場から一段高い場所は雑草生い茂る広い空き地でした。
砂利道は空き地に沿って右へカーブして行き、
また脱藩の道の案内が現れました。
V字分岐の脱藩の道を登り、
森の中へ入って行きます。

V字分岐の右の階段で登っても-

V字分岐の左の坂を歩いて-

  

実はすぐに合流。
お好きな方で。

脱藩の道はよく踏み固められ、雑草に覆われてもいず、
明瞭で歩きやすいです。
尾根に沿って歩いていると-

?な小屋があったり-

白いキノコがむにゅむにゅいっぱい生えてた。



  

脱藩の道は尾根から左にそれて行きます。
脱藩の道と別れ、尾根を直進します。

脱藩の道から離れた後は踏み跡程度です。
枝に刺さった空き缶が目印のようにあったり-

とても古い墓石があったり。
明治以前、この辺りは土佐往還で賑わっていたので、
その頃の建てられたお墓でしょうか。



段々と踏み跡が不明瞭に。

  

そしてとうとう、踏み跡も消えてしまいます。
踏み跡の終わりには、アンテナがありました。

山頂を目前にしてヤブに塞がれます。
歩きやすい、ヤブの薄い場所を選んで突破して下さい。
左(北。内子側)から回り込むのが楽かも。

道はないものの、ピンクリボンが-

ふたつほど、ヤブの中に見つかりました。
ヤブは一見、濃いようでもすぐ終わります。



ヤブを抜けたら、境界の石柱がありました。

「河辺」の文字がありました

ふと、目を上げたら数m先に-

三角点発見!
大森山山頂に到着です!

「三久保」三等三角点。
標高は、729.11mです。

山頂の様子です。
山頂部はこのようになだらかに広いので、
季節によっては三角点探しに苦労するかも。
人工林が混んでて展望はありません。
一部、北東方向に-

窓のような空間があって-

  

アップにすると、久万方面の山並みが霞んで見えました。
桂ヶ森、石墨山、そして堂ヶ森まではかすかに見えました。
石鎚山は輪郭がぼんやりですけど、
肉眼では見えました(カメラでは撮れませんでした)。

ひとりごと

だらり権現を降り、泉ヶ峠へ向かった時はすでに午後2時半。
秋の陽は早く暮れるので、心持ち、急ぎつつ、山道を駆け上りました。

龍馬脱藩の道として有名な泉ヶ峠。
脱藩コースはこのルートのほか、城川の方へ抜けた九十九曲峠越えのルートも考察されています。
というか、昔は九十九曲峠越えの方が通説でした。
泉ヶ峠はその昔、土佐往還の十字路で、旅館が数軒もあったほどの賑やかでした。
そこを脱藩者が越え、さらに一泊したとは考えにくかったからです。
けれど、「関雄之助口供之事」という資料が見つかったことから、今はこちらがメジャーになっています。
(写しをさらに写した資料で原本もないため、100%信頼できるものではありません。)
河辺町の「河辺坂本龍馬脱藩の道保存会」が中心となって道を保護・整備。
そして、文化庁選定「歴史の道百選」に選定されました。
夏は歩こうイベントが開かれたり、道はしっかり踏み込まれています。

泉ヶ峠から大森山まで、脱藩の道を歩いても行けます。
でも、今回はもう午後過ぎてたのでやめました。

僕は昔、龍馬ファンでした。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」も3、4回は読んだかな。
でもいまはアンチ龍馬。
どっちかというと、佐幕派、新選組びいきです。
だからと云うわけではなくて、龍馬については、冷静に調べれば調べるほどに、捏造疑惑満載でして。
有名な薩長同盟は、彼が周旋するずっと前に話はまとまっていました。
当時の様子を描いた薩摩の資料に名前は載っているのですが、中心となっていたような記録はありません。
龍馬裏書きの書類も、その内容は同盟の内容とは云いがたい、長州側の言い分ばかり。
船中八策は後世に捏造された疑惑があります。
のちの政権構想に繋がったかのような内容は、当時の有識者はみな、知っていた事柄でした。
なにも真新しいものではなく、上記の「関雄之助口供之事」同様、原本もありません。
薩長独占の明治政権から干され気味の土佐が、名誉挽回とばかりに話を盛り盛り。
竜馬を維新のフィクサーだったかのように仕立て上げた、というのが真相っぽい。
小中学校の歴史の教科書からも消えましたし、ね。
真相を知ってか知らずか、司馬遼太郎も「龍馬」ではなく「竜馬」と、漢字、変えてます。
…これ以上書くと過剰に反応する人が(web上は特に)多いので、ここいらで止めておきます。

大森山の登り口にあった、ビニルハウスがいっぱい並んだ農場にはちょっとびっくりしました。
まさか、あんな山の上で、それもトマトがいっぱい作られてるとは!
山の上の畑って不便なせいで、放棄されてるところが多いんだけど、さすが山村・河辺町って感じがしました。
学校の運動場にあるようなスピーカーからクラシックが流れてました。
長野にいた頃、よく、ラジオとか聞きながら農作業してたなぁ。
なんか、懐かしい…。

大森山の登山道は地図にも載っておらず、ヤブこぎ必死!?かと覚悟してました。
でも、山頂目前まで脱藩の道があったので、楽勝で歩けました。
最後の最後でヤブのカーテンに阻まれ、ちょい苦労したけど。
山頂はなだらかに広いので、無闇にヤブを突っ切ろうとすると、多分、三角点探しは苦労します。
南側・河辺側は比較的雑木が多いので、北側・内子側の人工林から回り込む感じで入ると簡単だと思います。
三角点はヤブを抜けたすぐの場所にあります。
下草がわっさわっさ生えてたら、GPSでも無いと見つけにくいでしょう。

大森山も登り終えた後、予定ではさらに東進し、鎧掛山も登り、小田へ抜けて帰るつもりでした。
でも、思った以上にガソリンを消費。
小田までたどり着けなさそう…。
内子で補充給油しとけば良かった。
本日最後の失敗でした
まぁ、午後3時も回ってたし、登山道がハッキリしてない鎧掛山は無理だと判断。
内子へ下ることにしました。
気が付けば、折角作ってきた弁当も食べてなかったし…。

だらりへは下らず、途中から泉谷へ下りました。
コスモスが咲く駐車場で棚田を見ながら弁当しました。
やっとほっと一息。
傾いた陽は少しオレンジがかっていて、刈り取りが済んだ棚田をほんわかと染めていました。
そんな風景をぼーっと見ているだけで、心がどんどんと和んでいきます。
まるで、心に刺さってたささくれがぽろぽろ取れてくみたいに。
“平穏”というのはこういうことを云うのかな、なんて。
とっても贅沢な時間を過ごした後、山道を下りました。
朝はパンクしたり、大変だったけど、終わりよければすべて良し。
また近々、足を伸ばしてみたいと思う今日この頃です。

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