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朝倉平林から
朝倉山越から
世田山(せたやま)
愛媛県今治市朝倉/西条市楠
標高339m
※三角点はありません。
笠松山(かさまつやま)
愛媛県今治市朝倉
標高357m
※三角点はありません。
▲中間にある三角点
点名 笠松山
種別等級 二等三角点
地形図 高知-西条
緯度 33°58′49.1783 
経度 133°02′11.7651 
標高 327.73 m
所在地 愛媛県今治市大字朝倉上字庄屋山乙1156番地
世田山笠松山は、標高300mほどの尾根や小ピークが繋がりあった山塊を形作っています。
道前(周桑)平野と今治平野を分かつ場所に位置しています。

瀬戸内海国立公園。

山頂は350m足らずと低い割に、田園風景から瀬戸の海、石鎚連峰や高縄山系の山並みまで、盛りだくさんの展望が楽しめます。
その見晴らしの良さと交通・防衛の要衝という側面から「伊予の剣」と呼ばれ、中世には山頂に城砦が築かれました。
特に、世田山に築かれた世田山城は、「世田山城が落ちると伊予の国は亡ぶ」といわれる程の最重要軍事拠点でした。
南北朝の争乱以来、3度の激しい戦の舞台となった一帯は古戦場蹟として保護され、「歴史のこみち」と命名された登山道(遊歩道)も整備されています。
世田山合戦と朝倉村の歴史
 延元元年(1336)6月、九州から東上した足利尊氏の軍勢が京都に侵入したので、後醍醐天皇は京都の花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。
ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並びたち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な合戦が各地で展開された。
伊予でも、南北両朝廷の運命をかけた世田山合戦が行われた。
 府中朝倉郷の東方に聳える世田山は標高339メートルの中世の山城である。
山項に達すると展望はひらけ、北に広大な府中平野を望み、南に四国連峰、東に波穏やかな瀬戸内海をみおろす、まさに風光絶佳の地である。
また、世田山は天然の要害であるだけではなく、古来、国府防衛上の要衝ともなっていたので、畿度な合戦が繰り返された。
 興国3年(1342)5月、後村上天皇は南朝の勢力を西国で盛り返すべく、新田義貞弟脇屋義助を南軍の総帥として伊豫にくだした。
しかし義助は不運にも、その直後病に斃れ、国分寺に急死した。この報せをうけた北朝の武将細川頼春に義助の死を好機と見て、阿波、讃岐の兵七千を卒いて伊豫に来攻、土肥義昌がたて籠る川之江城を攻め落とした。
ついで千町ヶ原の合戦に完勝した細川勢は、椎ノ木峠を越えて府中朝倉郷に攻め入り、行司原城を護る岡武蔵守を攻め滅ぼした。
そして南朝方が最後の砦とたのむ世田、笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。
南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。
この戦いで、特に野々瀬ロは激戦となり、敵味方の屍が谷を埋めたという。
また、笠松城主篠塚伊賀守は豪腕をふるって唯一人敵中を突破し、遙か内海の魚島に遁れた。

朝倉村教育委員会
朝倉側に立つ解説板より

南北朝の合戦の後もこの地は戦渦に巻き込まれます。
正平19年(1364)には河野通朝と細川頼之との戦いが、100年後の文明11年(1479年)には細川義春と河野通生との戦も繰り広げられました。

世田山の東麓には、「世田薬師」の愛称の方が有名な栴壇(せんだん)寺があります。
四国曼荼羅札所・第36番。
神亀元年(724)、四国を訪れた行基が教えを施し歩いた際、世田の山上に出現した薬師如来の姿を栴檀の木に刻み、寺を開いたことから、栴壇(せんだん)寺と名付けられたそうです。
(ちなみに、ことわざの”栴檀は双葉より芳し”の“栴檀”は白檀の木。栴檀と白檀は似ていますけど別種です。)
世田薬師は「きうり封じ」で有名です。
きうり封じは江戸時代より伝わる秘法で、キュウリに病気を封じ込めます。
どんな難病も三年続けて“きうり封じ”されると「ね」が切れるほどだそうです。
夏の土用丑の日に行われます。
 → 世田薬師オフィシャルサイト
世田山山頂直下に奥の院があります。
昭和2年に麓に移るまで本堂だった場所、旧本堂の竜の彫刻は左甚五郎の作とも伝えられています。
登山道沿いのうぐいす谷にはお大師さん由来のあかの水、船曳き地蔵、訪問当時は石を切り出して建立中の大きな石仏にも出会えます。

世田山山頂には展望台が、南へ尾根を辿ると巨石が露頭する見晴台があり、海から山から素晴らしい眺望が得られます。
笠松山山頂には姫宮神社観音堂が、朝倉・今治の町並みを見守るように建っています。
石段を北へ下ると広々とした山頂広場が設けられています。

笠松山北麓から田園拡がる朝倉谷一帯は、古代・弥生時代中期末の遺構も多数、出土しています。
「朝倉下経田遺跡」と呼ばれ、世田・笠松の山裾だけでも、行者原古墳群、山越古墳、野田山古墳群、野々瀬遺跡、野々瀬古墳群・七間塚古墳などがあります。
2008年8月24日夕方、笠松山にて山火事が発生しました!
山全体が燃えるような勢いで、発生から48時間で107haの山林が焼失しました。
26日になって雨が降ったこともあり、26日午後5時、ようやく鎮火が確認されました。

民家がある集落方向への延焼は食い止められ、けが人や民家への被害はないものの、一時、最も近い集落まで約150mの距離にまでに迫りました。
今治市と西条市および県は対策本部を設置し、今治市は約50世帯に避難勧告を出して4世帯5人が避難しました。
延焼の恐れが出てきた西条市側も、障害者施設など2施設の計100人以上が自主避難となりました。
消防隊員や自衛隊員ら、約970人態勢でヘリコプター十数機による消火活動が行われ、けれど、笠松山には登山道のほか、消防車両車が入れるような道がないため、消火活動は困難を極めました。
ニュース映像では、闇夜に赤々と燃え上がる炎や、森に隠れて見えなかった登山道が黒く煤けた山肌にくっきりと露出する姿、遠くたなびく煙などが映し出されました。

後日、山火事の原因は、当日行われていたアンテナ工事に参加していた業者と地元住民らのタバコの火の不始末だったと報道されました。

山火事の原因には落雷など、自然現象もあるにはありますが、ほとんどは人間が原因です。
タバコのポイ捨て、たき火の不始末、放火、麓での野焼きの飛び火などです。

この夏は渇水対策協議会が招集されるほどの小雨傾向で、県内のお山はどこも酷く乾燥していました。
小さなタバコの火が、カラカラに乾いた松葉や落ち葉に引火し、お山ひとつ、灰にしてしまったのです。

山火事によって失われた自然は、十年単位の時間をかけないと元には戻りません!
緑が失われた山肌は雨などで地滑り、崩落を引き起こす危険性があります。
そのため、今治市は森を復元するための植林活動に億単位の税金の投入を余儀なくされています。

必要のない火は絶対、山に持ち込まないようにしましょう!
(笠松山・世田山で火なんか必要ありません!)

山火事直後の笠松山の様子は、「山火事後の笠松山へ」をご覧下さい。
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7.4km 2.5km
31.3km 玉川長谷 今治片町
10.6km 7.5km
2km 2km 石打
朝倉上 1.3km 朝倉支所 1.3km
今治湯ノ浦IC
32.6km 笠松山 野々瀬登山口 2km






世田山
1km
世田薬師 7km
11km 三津屋南
湯谷口
松山自動車道
松山IC 小松IC
JR予讃線
松山駅
今治駅
伊予桜井駅

↓せとうちバス
↓小松総合支所前行き

↓〃
↓小松総合支所前行き
今治駅前 桜井駅口 世田薬師
せとうちバス
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