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林道終点~奈良原神社・楢原山山頂
距離 約600m
標高差 約140m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所

林道終点、写真中央奥にある登山口へ向かうと、その途中、右側の斜面、その木立に-

石像と石碑が祀られています。
これは往時、奈良原山が修験山伏等の行場・霊山だった時代に、この地にあった蓮華寺を記念したものです。

奈良原神社と蓮華寺には常時、行者がこもっていたそうです。

石碑の後ろの尾根に登ってみました。

そこは思った以上に平らかな土地が拡がっていて、それなりのスケールのあった寺院が建っていたとしてもおかしくない場所でした。
写真右奥へ進むと、先に寄り道した地デジ中継施設です。

林道に戻り、木のベンチに足をかけて靴紐を整えてたとき、
一段下がったところに丁石が立っているのが目に入りました。

「五丁」でした。
と云うことは、そこが旧参道なのかな。

落ち葉に埋もれてよく分かりませんが、舗装路の終わり、すなわち、林道の終点が登山口、奈良原神社の入口です。

楢原山はえひめ森林浴八十八カ所の第72番です。

注連石(しめいし)をくぐれば奈良原神社の神域です。

古風な字体で「奈良原神社」。

「よにあらば 光も月も宿すらん
 丹生玉川の清き流れに 長慶天皇 御製」
長慶天皇は奈良原神社ゆかりの謎多い天皇です。



注連石の脇に立つ「奈良原山道案内図」。 

ちなみに、以前はこんな案内図でした。

緩やかな登り坂、右へ、そして左にカーブ。



昔はズルズル滑るただの坂だったんですけど、
いつの間にか階段状に丸太が整備されてました。
左脇に-

「四丁」、ありました。
って、5丁~4丁間、短すぎな気が…。



近年、整備された階段をとぼとぼと登っていたら、右になにやら道標が。

新旧参道の分岐とな。
旧参道は不明瞭だったので、整備された新道を登ります。



長かった坂道もなだらかな尾根に出て一旦、一休み。
訪問時は冬枯れたシーズンだったので木立の外の景色が見えてますけど、夏は木漏れ日揺れる緑の道です。

道ばたに巨大な切り株がふたつほどあります。

かつて、奈良原神社の参道沿いにはスギの巨木が立ち並んでいたそうです。
この切り株はその名残です。
十数年前のことですが、これらの巨木、11本もが違法伐採されるという事件が起きました。
それも人知れず伐り出されていったそうで、大胆にも程がある、神罰も恐れぬ所行じゃ (-_-;)



なだらかな坂の途中に小さなお社があります。

「壬生川上神社」と「馬神様」です。

境内社 壬生川上(みぶかわかみ)神社
またの呼び方 勝手明神(かってみょうじん) 馬神様

水源の神様
修験者の信仰が篤かった神社
御祭神は、満良親王
後醍醐天皇の皇子で征西将軍として南朝再興のため当地で活躍

馬神様から間もなく「二丁」。

木のベンチの先で-




登山道は二手に分かれます。
整備された階段コースは左、昔ながらの坂道は右です。
写真左の四国のみちの道標は、元々は写真中央の白看板の道標が立ってる位置にありました。

「←水ヶ峠 4.0km 楢原山 0.2km→」

「登山道(1)山頂へ250m→
←登山道(2)山頂へ270m」

「子持ち杉」に迫れるのは左の登山道(2)の方です。
ひとまず、(2)を登ります、(1)は後ほど紹介します。



えっちらおっちら、歩幅に合わない階段にやきもきしながら登っていたときに見えた、木立のブラインド越しの山並み。
冬枯れた季節だから見えた景色でした。



支尾根みたいな場所に乗りました。
ここは、上木地からの登山道(四国のみち)が合流・分岐する場所です。


四国のみちの道標が立ってる場所が上木地コース合流分岐点。

「←上木地 2.3km 楢原山頂上・奈良原神社→」
「←上木地 参道口 駐車場↓」

上木地に下れる道、麓からは1時間ほどです。


四国のみちの道標から右に向きを変えると、山頂への道が右に、子持ち杉が左奥に目に入ります。

奈良原神社

 楢原山(標高1042メ-トル)の山頂にある奈良原神社は、昔、奈良原権現と呼ばれ、牛馬を守る神として信仰されていました。
 南北朝時代に長慶天皇が戦争に敗れ、牛に乗って楢原山深く逃げ延びたという伝説から、牛追、馬斬、干疋峠などの地名が残っています。
 また、奈良原神社経塚からは、国宝の銅宝塔(平安期)をはじめとする遺跡が見つかっており、町立玉川近代美術館で展示されています。

「←二代子持杉 山頂へ(牛神様)→ 自然遊歩道へ 約600m↓」
道標、解説看板の後ろの道みたく見えるスロープは通行止めです。

神社はまだ先ですが、もう解説してくれます。



県の文化財指定・天然記念物の「子持ち杉(二代目)」はすぐそばです。
丈も幹周りも規格外なので、離れてみないと全体を視界に収めることができません。
当然、レンズに収めるのも一苦労、パノラマ撮影じゃないとまるっと撮れません。

子持ち杉の隣の木もデカいです。
二股なのか、それとも二本が一本に繋がったのか、
変わった格好の木です。

2代目の子持ち杉のデータです。
樹高は、24.0m、胸高幹周は、657cm、樹齢はなんと1000年!




山頂へ向かう坂道、その途中で、で分岐した、
登山道(1)と合流分岐します。

「←自然遊歩道へ 山頂へ→」



と云うわけで、からの登山道(1)を紹介します。



「登山道(1)→」の方へ進むと-

こちらは階段整備されていません、昔のまんま、急坂です。



たまった落ち葉で滑る坂道な尾根筋をえっほらえっほら登ると、また大木の切り株に会います。

生きてた頃の姿を見てみたかったなぁ。

切断面は、ちょっとした家族が食卓を囲めるくらいの広さ。

冬枯れじゃなく、立ち枯れた大きな木もあります。

立ち枯れは落雷の影響だそうです。

尾根筋をどんどこ登ると-



はい、さっきんとこに合流です。

んじゃ、山頂へ向かいませう。

坂を登り切ると-



境内社 水分(みくまり)神社
またの名を 兒守明神(こもりみょうじん) 牛神様 

水源を守る神。
「みくまり」が「みこもり」となまり子授けの神として信仰されています。
御祭神は 尊聖皇子(長慶天皇の皇子)および観子姫(かんこひめ)命(長慶天皇妃=夏姫)。

水分(みくまり)神社」「牛神様」、あります。

南から西にかけて、東三方ヶ森山系の中三方ヶ森から南三方ヶ森(白潰)、明神ヶ森、福見山にかけての山並み。



「牛神様」から目と鼻の先に、さらに巨大な株が目に飛び込んできます。
こちらが初代の「子持ち杉」だった株です。

初代は樹齢尽きて枯死したのですが、
残った部分だけでも圧倒的な存在感があります。

願かけすると子宝が授かるとか、木の窪みに溜まった水を持ち帰って胸につけると乳の出がよくなって子供が元気に育つなど、
故に「子持ち杉」と呼ばれたり、「乳杉」の別名もある、子宝や子供が健やかに育つ御利益がある神木として崇められてきました。

“念ずれば子宝授く子持ち杉”。

山側に回ると人が入れるくらいの裂け目があり、
溜まった朽ちた木くずを温床に-

数百年後には三代目子持ち杉にになるかもしれない、
新しい命が育ってました。

後で分かったのですが、裂け目で育っている若いスギは、実は初代のDNAを引き継いでいる苗が植樹されたものだそうです。
初代が枯死する直前、採取されていた挿し木苗が玉川町内の神社に植裁されていたことが後日、判明。
挿し穂と呼ばれる、スギ本来の性質をそのまま次世代に引き継ぐことができる方法で養成した苗が、この裂け目に植え込まれました。
この若い命は将来、大木になること確実です (^_^)
大切に見守ってゆきましょう!



初代の少し上で、2代目「子持ち杉」を、
真横から見ることができる場所がありますう。

樹齢1000年も納得の猛々しい立ち姿。

近くにまた切り株。
きっとこの木も子持ち杉に負けず劣らずの
大木だったに違いない。



最後の登りです。
整備された階段を一段一段、踏み踏み、登ります。

空が近くなってきたら-



楢原山山頂に到着しました!
山頂はイコール奈良原神社境内で、お社が建ってます。

「東経132度56分49秒 北緯33度56分13秒 標高1042.00m
 平成6年度 玉川中学校製作」
裏に製作に関わった生徒らの名前が彫ってあります。

奈良原山経塚

 奈良原山経塚は、標高1042mを測る楢原山山頂に位置する。
昭和9(1934)年8月26日、奈良原神社にて雨乞い祈祷に伴う清掃作業中に、東南隅の盛土から偶然発見され、調査により二基の経塚が造営されていることが明らかとなった。
上部には花崗岩製の石製宝塔(建徳二<1371>年銘)が置かれていた。
 当時の記録によると、石積みの下からたくさんの中国の銭貨が見つかり、掘り出したところ、地上より約45cm下から九輪の層塔をもつ銅製の宝塔が発見された。
経筒には種字曼荼羅(しゅじまんだら)が線刻されており、木製の蓮弁の台が残存していた。
内部には砂と複数の経巻が残存していた。
扁平な石を敷き、短刀を並べた上に宝塔が安置され、伏せた(かめ)で二重に覆われていたという。
甕と宝塔の間には中国製の青白磁の小壺、銅鏡が、甕の周囲には檜扇(ひおうぎ)、短刀などが埋納されていた。
 さらに1.2m離れた場所からもう一基、伏せた甕に覆われた経筒が見つかった。
経筒は平らな石の上に置かれており、宝珠の蓋をもつ筒型の銅製経筒で、底部には鏡が嵌め込まれ内部には経巻が残存していた痕跡が見られる。
甕の内側には青白磁の小壺、外側に銅鏡、檜扇、(こうがい)が埋納されていた。

 檜扇には引目鉤鼻(ひきめかぎばな)の男女の像や花など平安王朝の絵画が描かれていたことが明らかになっている。

 経塚造営の年代推定の手がかりになるのは、出土した土師器椀(はじきわん)(内面黒色)と外容器の甕である。
土師器椀は12世紀前半と推定され、甕はいずれも12世紀前半の香川県綾川町陶の十瓶山(とがめやま)窯の製品と考えられる。
 出土した宝塔や銅鏡、檜扇は畿内で製作されたと考えられる工芸品で、とりわけ宝塔は京都鞍馬寺経塚出土銅製宝塔と双壁をなす優品である。
平安末期に流行した末法思想の影響を受け、これらの経塚が造営されたと考えられる。
 経塚埋納品は平安末期の優れた工芸品として、一括で昭和12年に国宝保存法により国宝に指定され、昭和31年に文化財保護法により国宝に指定された。
現在、今治市玉川近代美術館に保管されている。

〈国宝 奈良原山経塚出土品(一括)〉
 所有者 奈良原神社  管理団体 今治市

お社の前には石でできたテーブルセットが設置してあります。

お社の横に立つ石碑。

奈良原神社は、社伝によると、持統4年創建、牛馬の守護神として、県下に広く信仰普及していたが、牛馬の減少に加え、木地部落民(氏子)全員が今治地域に移住するに至り、やむなく昭和47年3月今治市別宮、大山祇神社境内に分霊を鎮座する。

平成4年8月吉日 氏子中

本殿は平成13年10月に改築再建されました。

合掌。

境内の南側、立ち並んだ石碑の奥、こんもりと地面が盛り上がっているところがあります。

お社の脇から入ることができるこの場所は、上の解説に出てきた、
国宝に指定された銅製の宝塔が出土した経塚です。

狛犬と石塔がお祀りしてあります。

狛犬コレクション、吽と-

阿。

「経塚発掘後」。

後ろから。
石が積んでありました。

木立のブラインド越しに見えた高縄山や北三方ヶ森、西向きのパノラマです。



いきなりですが、林道終点で装備を調え、お山へ歩き出そうとした瞬間、歩きながらはめていた手袋が、なんと両方とも右手用でした…。
家を出る直前、袋を破いてザックに入れてきた新品だったのに… (-_-;)
スクーターのメットインに別の手袋を入れてあったので、事なきを得たけど、こんなことってあるんですね。

さて、今治市内の大抵の場所から、その山頂を見つけることができる楢原山。
松山市内からも西の方に下がれば、市境尾根越しに覗く山頂を見つけられます。
尖りお山なので分かりやすいです。
だから、霊山として選ばれたんでしょう。

前回に引き続き、今回も林道で楽して山頂直下まで登りました。
徒歩なら高縄山方面から今治市街へ抜ける「四国のみち」を利用します。
急な登りもありますが、どちらも片道1時間半ほどで林道まで登ってくることができます。
植林が進み、しばらく景色は単調ですが、自然林に入ると巨木が出迎えてくれる自然たっぷりの遊歩道になっています。
元は奈良原神社の参道だった道ですが、参道はほかに、力石から尾根伝いに登るコース(いまの地形図にも点線で描かれています、が、いま歩けるかどうかは不明)や、東三方ヶ森方面から稜線をたどり着く修験者の道も存在していました。
奈良原神社は県下に広く信仰されていたので、山を越え越え、神社を目指すルートがたくさんあったようです。

鳥居代わりの注連石から奥は大木にも出会えるゾーン。
可哀想に無断伐採された跡の大きな切り株も、切り株だけど想像力をかき立てるし、台風で倒れた初代の子持ち杉は株だけしか残ってないのに圧倒的な存在感です。
大木の伐採と云えば、ここ数年、大木・巨樹に指定されていたご神木が狙われた事件が相次ぎましたね。
根元にドリルで穴を開けて除草剤を注入し、立ち枯らせるという醜悪な手口で、おまけに立ち枯れる前後には木を売ってくれと話を持ちかける業者が(偶然とは言いがたいタイミングで)出入りしていました。
姫路城の改築や伊勢神宮、出雲大社の遷宮などで、大木の需要が高まっていたことが事件の背景にあったのは確実です。
無断違法伐採は許しがたい行為です。
でも、一度切られた木は元には戻せません。
せめて100年は軽く保つだろう、お城や寺社の柱に生まれ変わって欲しいと願うばかりです。

登山道が整備されてました。
以前は、急坂では溜まった落ち葉で滑ったり、尻もち付いたこともあった坂道でしたが、丸太で階段状に整備され、靴裏に気を遣わずとも登れるようになってました。
個人的には、階段は歩幅が合わないから、正直、嫌いなんですけどね。
往時は牛や馬をつれて参拝した人もいた登山道、ルートは明瞭です。
登り切れば奈良原神社です。

奈良原神社は、水源に位置する関係で雨乞の神様でもあり、牛馬守護神として衆庶の信仰をあつめてきました。
ご神体は、楢原山(奈良原山)そのものです。
県内ではほかに石鎚山や豊受山、翠波峰、赤星山、善神山、篠山も山体がご神体です。
(そのような信仰の山のことを「権現山」と云います。)
概ね、独立峰や麓から特徴的に見える峰が霊地や霊山として選ばれ、雨乞い、豊作を祈りました。
奈良原山はいろんな場所からよく見える尖りお山なので権現山となったのでしょう。

御祭神は、伊佐奈伎命(いざなぎのみこと)、大山祇命、宇気母知命(うけもちのみこと)予母都事解男命(よもつことさかのおのみこと)寛成帝命(ゆたなりていのみこと)(長慶天皇)です。
もともとは古権現山にあった白山権現を山伏が背負って現在地に遷したと伝えられるほか、文武天皇の大宝元年(701)、勅願によって徳蔵上人が開いたとする記録や、持統天皇4年(690)、当時の国司であった小千宿禰玉興が役小角を大和の葛城山より迎えて開山したという話もあります。

牛馬の守護神とする信仰は江戸時代中期以降のことで、古くは修験者や山伏らの行場として発達しました。
林道終点に跡が残る蓮華寺にも修験者らが常住していたようで、でも、冬はさすがに暮らしがたく、鎌倉時代末期の記録に「下山常住三十八人」という一文がみられます。
ちなみに、蓮華寺は、奈良原神社、勝手明神、子守明神の別当である光林寺(玉川町畑寺)の別坊でした。
江戸時代中期以降に始まった牛馬の守護神とする信仰は、その頃から組織されはじめた「奈良原講」によりさらに広まりました。
昭和30年には約400の講があったそうで、けれど、牛馬の減少にあわせ講数も急速に減少しました。
盛んだった頃は牛や馬をつれて参拝する姿も見られたそうです。
奈良原講を広めたのは光林寺のお坊さんだった光範上人という、奈良原山に7日間籠もって雨ごいを成功させたことで有名な人です。
南予の方にも講があったようです。

牛馬の信仰の始まりについては、南北朝の末に長慶天皇が奈良原山に隠れた伝承に由来します。
南北朝時代は皇室が南北2つに分裂した時代で、長慶天皇は南朝方の第3代天皇ですが、その在位の事実に関してはしばらく議論のあった人です。
院の御所を襲おうと北軍が謀を巡らしていたことを察知した長慶天皇は、紀州から阿波、そして伊予へと落ち延びました。
伊予の豪族らは大いに驚き、天皇を当初、西条丹原にあった赤滝城へ奉遷しようとしましたが、北軍の代官に察知され、敵勢迫る夜中に密かに小舟で、いまの今治市国分、国府の浦に渡りました。
なおも追っ手が執拗に迫ってきたため、天皇を民家に飼っていた白赤毛の牛に乗せ、玉川町の光林寺へ、さらに奈良原山へと落ち延びて行きました。
その際、敵軍の追跡を免れるべく、牛を後ろ向きに歩かせ、蹄の跡を逆にして下山していったかのように見せかけました(「牛追」の地名の由来)。
また、天皇の威徳に怖れて動けなくなった軍馬を斬ったことから、「馬斬」という地名が生まれました。
天皇の御霊を奈良原神社に合祀するとともに、皇軍に従った牛と馬に関わる伝承から、牛馬の守護神とする信仰が生まれたのでした。
ちなみに、楢原山へ逃れた道沿いを「御道筋」、天皇警護の兵1千騎が1万にも及ぶ敵兵を打ち負かした峠を「千疋峠」、そのときに勝ちどきの声を上げた場所・鬨ヶ成がなまって「竹ヶ成」、再び押し寄せて来た敵に発見され、崩御した場所を「御最期」など、現代に至る地名が残っています。
ただし、これら長慶天皇潜幸の話は伝説の範疇で、実は全国各地に似たような話が残されています。
例えば、青森・岩手の名物「南部せんべい」も天皇に食事として出したのが由来だったりします。

山頂で発見され、国宝に指定された銅宝塔については、山頂の解説板に詳しいので省略しますが、銅宝塔が埋設されていた経塚について、少し付け加えておきます。
「経塚」とは、文字通り、経典を土の中に埋めて塚を築いたものです。
天変地異が招いた末法思想から、人々は競って経塚を築き、自分やその一族、果てはこの世の無事平穏を強く願い求めました。
塚の中には経文のほか、経筒、仏具、和鏡、宝塔などが一緒に納められました。
奈良原山山頂ほか、県内では松山市北斎院の岩子山や興居島、中島、新居浜市郷中、大洲市五郎慶雲寺、野村町松渓、宇和神領、西条市実報寺、小松町新屋敷など多数、発見されています。
伊予市大平堂ヶ谷で発見された経塚の金銅製経筒は県有形文化財に、北条善応寺の石経は県有形文化財にそれぞれ指定されています。
石経と云うのは、経を印刻した小石を積んだものです。

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