地図、アクセスなど、お山に関する各種情報登山道・登山口登山ルートを多数の写真を使って詳細に解説ご感想はこちらのメールフォームからお願いします「お山へ行こう!」のトップページへ


玉川ダム~鈍川温泉・渓谷~湯の谷林道~楢原山登山口
国道・県道
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設


今回のスタートは、モノクロームな冬が終わり、春爛漫で色を取り戻した玉川ダム湖のほとりから。
水辺を縁取るようなサクラが満開で、毎年恒例のお花見まつり中でした。

龍岡地区の直販場になってる地域活性化センター「玉川湖畔の里」の駐車場には大型バスも駐まってたりで大賑わいでした。

センター前の駐車場には屋台も並んでました。

普段は何にも置いてない向かいのJAではお花売ってました。

国道317号線からは一段低い場所にある龍岡キャンプ場へ降りて、向こう岸の公園で咲き誇る桜並木を。
競技用ボートが湖面をすいすい横切って行きました。
ボート競技の会場にもなる玉川湖には、高校や大学のボート部の艇庫があります。
水上から見るサクラもまたきれいなんでしょうね。

体育館側のサクラ。
夜桜見物向けの提灯もスタンバイOK。

国道の天神橋から原田川上流方面、こちらもサクラがきれいでした。

天神社の参道もサクラ、サクラ。

お花畑を後にしてダムの方へ坂道を登って行き、下り坂に変わる峠状の場所から南に向かって楢原山を遠望。

尖り独立峰な楢原山山頂。



上りは追い越し車線がある
急坂を下り切った場所にある-


信号交差点を右に曲がって県道154号東予玉川線へ。

しばらく2車線が続くいい道。

今度は進行方面奥に-

楢原山山頂がひょっこり。




信号交差点から約1.5kmんとこにある丁字路が鈍川温泉・渓谷の入口。
右折し、坂を登って行きます。

分岐んとこの看板。

四国のみちの道標。
「←窓の峠 4.8km 鈍川温泉 1.3km→」



坂を上がったとこにある「鈍川せせらぎ交流館」。

交流館は、露天風呂・うたせ湯・ジャグジー風呂などがある日帰り入浴施設で、手軽に美肌の湯を楽しめる施設です。
営業時間は、10時30分~21時00分、入浴料は、大人(中学生以上)400円、小人(3歳以上小学生以下)250円(2014年現在)。

交流館の南側、
木地川をはさんで建つ鈍川発電所。



鈍川温泉街の入口へ、手前左は温泉スタンドとバス待合所、左奥の広場はせとうちバスの転回場になってます。

楢原山もですが、奥道後玉川県立自然公園内。

「観音湯」って名付けられてる温泉スタンド。

観音様とガソリンスタンドみたく温泉を買える装置。

100円で100リットル、温泉を買うことができます。
一般家庭の浴槽は200リットルほど、300円分も買えば充分かな。
ポリタンクとか用意しなきゃですけど (^^;)

伊予鈍川 観音湯の由来 

旧記によると
湯野谷(ゆのたに)と呼ぶ処は昔から湯の湧き出る所であり温泉の神大己貴命(おおなむちのみこと)(大黒さん)と少彦名命(すくなひこなのみこと)(一寸法師)の二神並びに観世音菩薩を祀る古跡があった
天平6年(734)4月の大地震で湯口を塞がれたがその後盛衰を繰り返し1250年余りを経た平成元年(1989)地下3百米より多量の湯が噴出し再び観音湯として蘇った
この観音湯は不老不死の妙湯と伝えられる

バスの待合所「鈍川温泉駅」、トイレも併設。

6軒の温泉旅館の名前が書かれた歓迎門。


歓迎門の脇にあるバス停横の観光案内図はもう色あせちゃって、
白枠のところの文字がほとんど判読不明状態。-

楢原山周辺ですが、白い枠にはそれぞれ、
「奈良原神社」「楢原山」「蒼社峡」「五丈の滝」が入ります。

まず最初にあるのが「美賀登」さん。

その奥に「鈍川温泉ホテル」、「門田旅館」、「カドヤ別荘」さん。

最後の旅館まで少し間があります、その間のカーブに道標やらが立ってます。


四国のみちの道標。
「←窓の峠 6.0km 木地 8.1km→」

「四国のみち(四国自然歩道)案内図」。
ルート的には、楢原山から降りてきて今治に出る案内になります。

「玉川町指定 名勝鈍川谿谷」。



「皆楽荘」さんが温泉街の一番奥。
向かいの駐車場の上には楢原山山頂から出土した埋蔵文化財が収められた国宝収蔵庫があります。



温泉街を過ぎたところ、湯の花橋のたもとに遊歩道の登り口があります。


ここいら木地川周辺の森は体験学習向きに整備されていて、
川には橋が架けられ、遊歩道で巡ることができます。

生活環境保全林「ふれあいの森」の案内図。

湯の花橋から見たエメラルドグリーンな渓谷。

近くの岩場に咲いてたツツジ。

ツツジも咲いて、お山にも春が来たよう (^_^)



遊歩道のひとつの「ふれあい橋」。

暇があったら遊歩道、探検してみたいなぁ。

鈍川温泉

 この温泉は、奈良時代後期から湧出していたと伝えられています。
本格的に開発されたのは、今治藩主が湯治場を建設したのが始まりで歴史的にも由緒ある温泉郷です。
 泉質は、フッ素及び硫化水素を含む低張性アルカリ性冷鉱泉で極めて肌触りがよく、神経痛、筋肉痛などに特効があるといわれています。
「山辺ながらも鈍川名所道後まがいのお湯が出る」とも俗謡にうたわれています。

その少し先にある東屋。



次に出会う橋は「水源の森橋」。

赤い橋を渡ると-

「← 紅葉のみち あじさいのみち キャンプ場 →」
紅葉のみちの方へ左折したら-

「←松林のみち さざんかのみち」に通じる坂道が分かれてました。

水源の森橋のすぐ先に「ふれあいの森 森林館」と云う学習施設があります。


三角屋根が目印。

「今治越智地方ふれあいの森案内図」。

とんがり屋根の右隣はオープンデッキなテラス。

とんがり屋根の学習館が開いてるのは週末だけ。

だいぶ前に撮ったものですが、学習館の中の様子です。

テラスはこんな感じに大勢で話を聞けるようなスペース。

学習館の先には林道岩スジ線の分岐がありました。 

林道「岩スジ線」。

その脇には「水源の森」と彫られた石碑も。

ふれあいの森を過ぎたら道幅は狭くなり、
1.5車線の山道っぽくなります。

途中、水力発電の鈍川発電所もあったりして。

心洗われるような清らかな水の流れです。



そんな木地川の水を利用した釣り堀があります。
川に沿って左にカーブするところ、対岸の石垣の上に生け簀が並んでます。

カーブの先の駐車場から-

欄干が一部破損した橋を渡って対岸へ。

橋から見た河床。

釣り堀はこんな感じで、「誰でも釣れる」が売り文句だったりします (^_^)



木漏れ日な道を奥へ奥へ進むと、道ばたに民家ではなく別荘が点在していますが、そのなかでもひときわ目立つのが、こちら。

高い塀とシャッターで隔絶されたお宅。

シャッターの脇に110、119専用の緊急電話がありました。
もしものときはお世話になります。


その高い塀に沿って進むと、楢原山の登山口、奈良原神社の参道に通じる湯の谷林道の起点があります。

林道の入口、終点までは延長7.2kmあります。

四国のみちの道標。
「←上木地 3.4km 鈍川温泉 4.4km→」

「奥道後玉川県立自然公園 楢原山登山口」



1.5車線な林道、くねくね山道です。

起点は標高約300mで、終点は900mほど、標高差は600m。

急坂ではないけれど、標高差600mを7kmかけて上ります。



林道の中間地点。

3.8+3.8=7.6km?

山側に小さな滝があったのですが-

誰が捨てたのだろう、子供のくるまのおもちゃがぽつり…。
思い出も一緒に捨てたのかなぁ。



楢原山の尾根と丸山の尾根が出会う鞍部付近。
新たな道ができてました。

治山工事用らしいですが、
丸山の林道とは繋がってないんかなぁ。

標高も600mを越え、空が近く感じるロケーションに。

落石、多少の崖崩れも見受けられます。



尾根のすぐ下を走って行きます。

「林道 湯の谷線 幅員4.0m 延長7.2km」



おっ、久しぶりに来てみたら、なんかまた道ができてるぞ。

尾根に上がれるみたい、ちょっち、寄り道じゃ。

北に向かって尾根沿いに道ができてます。
間伐伐採作業でもしてるのかな。

そんな尾根からの見晴らしです、今治方面です。

麓をアップ。

さらにアップ。
この春、30倍ズームな新しいカメラを買ったので、試してみましたが、なかなかのアップが撮れました。
曇ってはいたけど空気が澄んでたおかげで、今治のランドマーク・タワー、今治国際ホテルの窓も判別できるほどの画質で撮れてました (^_^)

しまなみ海道の来島海峡大橋も見えました。



カーブミラーのところに木地地区からの古道が横切る場所があります。
2005年に来たときはこの先の林道が路肩崩落で通行止めとなり-

林道脇から古道を登るこのルートで崩落カ所を迂回していました。

古道は尾根をたどるのでアップダウンがあります。
距離的にも林道を行った方が楽です。



2005年に路肩が崩落、道路が寸断されてた場所です。

山の陰だったせいか、雪がこびりついてました。

いまはもうきれいに修復され、通行に支障はありませんが-

2005年当時はこんな有様でした。
国道・県道でもないから、このまま放置もあり得るかもって-

酷い有様だったので、当時はあきらめた気持ちでいましたが、
終点に奈良原神社があるおかげか、きれいに治っててよかったです。

修復カ所を抜けると以前はなかったアンテナ施設が…。



…とその前に、四国のみちと合流する場所です。

四国のみちの道標。
「←楢原山 0.6km 水ヶ峠 3.6km→」

からの古道もここに通じています。
坂を登ってみましょう。

からの道は写真奥から。
水ヶ峠からの四国のみちは写真左から。

四国のみちの道標。
「←水ヶ峠 3.5km 楢原山 0.7km→」

こちらが四国のみち、手すりがありますね。

角には奈良原神社の参道だった当時の名残の丁石や地蔵さん。
奈良原神社まで、あと「六丁」。

アンテナ施設の境界石もありました。

ここからは少しだけ-

今治市街地が望めました。

林道に戻り、もう少し進むと-

アンテナ施設へのスロープがありました。

地デジの中継施設です。
NHK、あいテレビ、愛媛朝日放送のアンテナです。



そして間もなく、林道、終点となります。

林道の終点は、奈良原神社の入口、楢原山への最短の登山口となります。
ちょっとした広場のようになっていますので、複数台の駐車も可能です。
写真中央奥が登山口です。



久しぶりに楢原山を訪ねることにしました。
気がついたら、前回から10年近く経っていました、月日が経つのは恐ろしく早いものです。
前回登ったときの記憶は断片ながら、かなり明瞭なのに。
まぁ、前回は湯の谷林道が大きく崩落して通行止めになっていたので、印象に残りやすかったんだと思いますが。

鈍川温泉・渓谷筋も久しぶりです。
今治の富田にある温泉には仕事疲れを落としに度々出かけるのですが、ずっと手前にある鈍川温泉には、これまた何年も入ってないです。
今治方面によくスクーターで探検に行ってた頃は「鈍川せせらぎ交流館」にも入りました。
トロッとしたお湯の肌触りが心地よかったです。
温泉街のホテル・旅館でも日帰り入浴を行っているところは多いみたいで、木地川の流れを見ながら入れるところもあったりするのかな、一度、お試ししてみたいです。

その鈍川温泉について、少しまとめておきます。
道後温泉や本谷温泉とともに古くから「伊予の三温泉」として知られた温泉です。
ずっとずっと昔から温泉が湧き出していたそうで、「湯野谷」と呼ばれていたのですが、奈良原神社に繋がる林道「湯の谷」線の名はそこから来ています。
江戸時代には、馬の背に湯桶を積んで源泉をお持ち帰りしていたそうです。
万病に効くと評判がよかったそうな。
温泉街としての開拓が始まったのは、明治4年(1871)。
今治藩の旧藩主で今治藩知事になった松平定法が浴場の開発に着手したのがきっかけでした。
大正10年(1921)には、鈍川村の有志、越智重太郎・越智直三郎・正岡太八・小林豊三郎が発起人となり、村内1戸1株以上の加入で1株20円、約650株、資本金1万3000円の会社を組織して温泉開発に取り組みました。
大正14年(1925)9月18日、温泉場は無事落成、鈍川温泉組合が経営する鈍川温泉が発足しました。
鈍川温泉本館のほかに旅館・店屋なども4、5軒できて繁盛したそうですが、第二次世界大戦の勃発で寂れてしまいました。
戦後復興は昭和27年、株を買収した瀬戸内海運輸と瀬戸内海汽船が鈍川温泉観光を設立、観光ホテルを建設したのが始まりでした。
渓谷の一部を利用した遊園地や浴場なども建設され、道路の改修などインフラ整備も行われた結果、国鉄周遊地の指定を受け、バスは日に26往復も通ったそうです。
この頃から内湯つきの旅館が次々と建ち始め、新たな源泉を求めてボーリング工事も行いました。
泉質はラドンを含むアルカリ単純泉、しっとりツルツル、なめらかで美肌に効果がある、いわゆる“美人の湯”系です。

僕個人的には、背の高いホテルに囲まれて情緒もへったくれもなくなった道後温泉より、山間にあって圧倒的に静かで移ろう自然を堪能できるロケーションに立地する鈍川温泉の方が好きです。
あ~(わざわざ)温泉に来たなぁって感じが凄くするから。
九州の黒川温泉みたく、旅館やホテルの趣が異なる露天風呂を巡ることができる温泉手形みたいなのを始めてくれたらいいのにってなぁ。

さて、温泉街を過ぎると、木地川沿い、鈍川渓谷沿いをさかのぼって行きます。
木地川は蒼社川の支流です。
奥道後・玉川県立自然公園に属しています。
山間へ入り込むごとに、沢の水の透明度は増し、エメラルドグリーンの流れに心洗われる想いがします。

この谷間の地域は「木地」と云いますが、全国的に「木地」と云う地名は、木工細工を生業としていた職人集団、「木地屋」の集落があったことに由来します。
楢原山周辺、旧玉川町内には、水ヶ峠トンネルの方にも木地という地名があり、こっちは「鈍川木地」、あっちは「竜岡木地」などと区別されています。
「木地屋」は実はただの職人ではなく、そのルーツは文徳天皇の第一皇子である惟喬(これたか)親王までたどることができる、高貴な身分の人の血を引く一族なんだとか。
ちなみに、惟喬親王は、平安時代前期の皇族で、皇位継承を巡る大人たちの思惑に翻弄され、結局は天皇になれなかった人です。
そんな方がなぜ「木地屋」のルーツとなったのか。
それは、表舞台から姿を消した後、近江小椋郷という山深い里に隠棲、読経三昧の日々を過ごしてた親王が、ある日のこと、法華経巻の紐を引くと軸がくるくる回る様から、轆轤(ろくろ)の原理を思いついたから。
さらに、池にできた渦でくるくる回るカシの殻を見て、んじゃ、轆轤で木椀を作ったらいいんじゃない?!って感じで、近隣の里人に轆轤の技術を伝授したんだそうです。
(世界的には、轆轤技術は、紀元前6000年前から紀元前2400年前の間に発明されたとされていわれています。)
そして、承平5年(935)には、諸国山々切り次第という御綸旨を得た近江小椋郷の人々が全国各地に散らばって行きました。
木地屋は「木地屋文書」と云って、木地免許・往来手形・宗門手形・縁起書・御綸旨の写しなどを所有していたそうです。
木地師のはじまり=惟喬親王=自分達は高貴な身分の人の血を引いている、という流れがあって、木地の人たちはよその集落の人とは結婚しなかったなんて話もあったりします。
いま、木地には人は住んでいません(別荘みたいな家はありますけど)。
明治44年(1911)編纂の鈍川村郷土誌には、37戸141人が住まいしていた記録が残っています。
戦後、今治の町へ一家総出で引っ越す家が相次ぎ、昭和35年には21戸、昭和43年にはついに集落廃村となってしまいました。
木材も炭もお金にならない時代が訪れ、奥地はなにかと不便だし、子供が今治の高校へ進学するのをきっかけに町場に出た家も少なくなかったそうです。

木地川から離れ、湯の谷林道を上り、奈良原神社参道へ。
林道ですが、終点まで舗装されてダートはなく、走りやすいです。
行き止まりな道なので、対向車もほとんどありません、奥でお山仕事、林道工事などが行われていたら、その限りではありませんが。
2005年訪問時は林道終点目前で路面が大きく崩落して、手前から旧道を歩いてかなきゃなりませんでしたが、2014年の訪問時にはすっかり復興、終点まで乗り付けることができました。

ブログパーツ
inserted by FC2 system