黒山、棟山は、伊予市と内子町の境にそびえるお山です。
伊予灘に沿って佐田岬まで弓なりに連なる、海岸線上に屹立する標高7、800m級の山脈に属します。
この山脈は海岸線からほんの3、4kmほどの距離で一気に隆起し、海と内陸を壁のように仕切っています。
そのため、お山とお山の鞍部には必ず古峠が存在しています。
黒山の北東、牛ヶ峯との間に仏峠、黒山と棟山の間には鳥越峠が通っています。
鳥越峠は県道が通る舗装された峠に変わり、一方、仏峠は小径が交錯し、石仏が見守る、昔ながらの峠の姿を今に伝えています。
黒山は、双海下灘と内子石畳を隔てるようにそびえ、南北には険しく、東西に緩やかな稜線を延ばすお山です。
東西両肩を越える仏峠、鳥越峠にはそれぞれ石仏が安置された塚があり、長きにわたり人々の往来を見守り、安全を祈願されています。
特に仏峠の塚は見事で、斜面を利用して高高と石が積まれ、見事です。
山頂へは両方の峠から尾根伝いに登ることができます。
仏峠から登るルートの方が、登山ガイドブックに紹介されているため、入山者が多く、道も明瞭です。
山頂部には“コ”字の石積みや、段々に平坦な場所が見られます。
山頂周辺には、南北朝時代から「黒山城」という城砦が築かれていたと伝えられています。
南朝に属していた久保伊予守・源高実(応永4年(1397)9月18日没)が黒山城に居城していたという記録が残っています。
その後の記録では久保照信、その子・好武の名が見られます。
好武は、天正8年(1580)、土佐の長宗我部氏の侵攻を撃退しました。
天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国侵攻の際、小早川隆景に攻撃された由並本尊城の救援に向かうも、落城。
黒山城に戻り、60余名で籠もり、小早川の猛攻に耐えたと伝えられています。
秀吉によって四国が平定された後、窪ヶ市に隠棲しました。
伊予市のサイト、旧双海町のあゆみには、“文禄3年(1594)、久保好武が高岸漁場を専有”という記述も見られます。
山頂の段状平坦地形は往時の隆盛を今日に伝えるものです。
“コ”字の石積みは蘭塔場(墓所)と思われます。
黒山の南北には林道が拓かれました。
林道を利用すれば鳥越峠-仏峠間のアクセスも楽です。
棟山は、黒山の南西に位置し、伊予市(双海)、内子、大洲の3市町村の境に位置するお山です。
地図には山名が載っていませんが、内子町誌にその名を見ることができます。
鳥越峠から林道を利用して山頂まで一気にアクセスすることができます。
山頂にはNTTの峰成無線中継所の塔が建っています。
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