四国カルスト
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※今回は西の玄関口、西予市野村にある韮ヶ峠から紹介します。
※松山方面からは、国道33号線~440号線経由の
久万高原町旧柳谷村からアクセスするのが一般的です。

高知との境にある韮ヶ峠は、
「坂本龍馬脱藩の道」として人気上昇中の峠です。
「坂本龍馬脱藩の道」はその名の通り、
幕末の志士・坂本龍馬が脱藩した際に歩いた歴史街道です。
“脱藩の道を歩いてみよう”ツアーが行われるなど、
龍馬ファンに人気の道です。

韮ヶ峠へは、肱川から県道36号野村柳谷線でアクセスできるほか、
大規模林道の東津野城川林道も便利です。

高知側に案内看板、多数。

  

「維新の道 坂本龍馬脱藩の道」

覚書の解説

文久2年(1862)3月24日、土佐郷士、坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。
24日、同士沢村惣之丞と、梼原村の那須俊平信吾父子の家に泊まり、翌26日那須父子の道案内で宮野々関を破り、韮ヶ峠を越えて伊予国へ出た。
途中、泉ヶ峠、長浜村に泊まり28日船出して29日三田尻に着き4月1日、目的地の下関白石正一郎方に着いた。
 これはその道中の記録である。

日本の夜明け維新の道へようこそ

日本人の心に生き続ける英雄、坂本龍馬は、この韮ヶ峠に立ち国の夜明けをしかと見て維新の道を駆け抜けていきました。
どうかこの脱藩の道を探ねられる皆さん龍馬の大志をしっかりと受けとめ、現代にこそ龍馬以上の希望を抱いて世の中にはばたいて下さい。
足元に気を付けてご無事に

惣川自治会 惣川公民館

関雄之助 口供之事
三月二十六日 四満川ヨリ韮ヶ峠ニ至ル
信吾コレヨリ引返ス
小屋村ヨリ榎木ヶ峠~横通リ~封事ヶ峠~三杯谷~日徐~水ヶ峠ヲ経テ 泉ヶ峠ニ至ル
龍馬 俊平ト共ニ泊レリ
二十七 北表村ヨリ宿間村ニ至ル
俊平コレヨリ引返ス
宿間村ヨリ 金兵衛邸ニ至ルマデ大洲城下ヲ経 渉スルコト七里半
金兵衛邸ヨリ招賢閣三田尻マデ 二日ヲ要セリ
明治六年十一月十五日 自宅ニテ誌ス

高松小埜

写シ

韮ヶ峠から県道36号線で東へ向かいます。
峠から3.5kmで、「カレン」と呼ばれる白い石灰岩が、
路端に顔を見せ始める大野ヶ原に入ります。



大野ヶ原に行くと必ず立ち寄るのが「ポニー牧場」。
牧場といっても猫の額ほどの広さの敷地に、
ウマやシカ、ヒツジ、ウサギなどの小動物がいる、
ふれあい動物園です。
入場料を写真中央の白い缶に入れて入場すると、
早速、仔ヤギがメーメーすり寄ってきましたよ~。

小さな小さな牧場だけど、気がついたら30分くらい時間が経ってます。
ベンチなど、屋根付きのテーブルセットもあるので、
お弁当を食べる場所に最適です。

ログハウスの中にはウサギなどの小動物がいます。

牧場の隣は牧場のサイロじゃないよ、大野ヶ原小学校だよ。

隣はペンションとおみやげ屋さんがいっしょになった「もみの木」。
しぼりたての牛乳に自慢の自家製チーズケーキが人気のお店。

道を挟んだところにあるのが-

竜王神社と竜神池。

カルスト地形のひとつ、「ドリーネ」に水が溜まったもの。
でも、水が抜けない形状は珍しいんだそうです。
もう少し暖かくなればスイレンが水面を埋め尽くします。
葦でできた浮島が浮かんでいます。
地名の“浮穴”は、小松ヶ池の浮島に由来するという説があります。
また、大野ヶ原と呼ばれ始めた江戸時代以前の地名、
“浮島ヶ原”はこの浮島に由来するという話もあります。
この池には、両親の強欲加減が堪えられなくなった娘が、
何者かに導かれるように大野ヶ原にやってきた後、
姫ヶ淵に身を投げ、娘が化身した竜が棲んでいる、
そんな伝説があります



高台から見下ろした緑の草原拡がる大野ヶ原です。
小松地区のパノラマの奥に見える、
なだらかな弧を描く大きなお山が源氏ヶ駄場です。
源氏ヶ駄場の右(西)の肩にある楕円状の緑濃い森は、
一夜ヶ森(または、入らずの森、降りの森)で、弘法大師ゆかりの森です。
集落には先程立ち寄ったポニー牧場など、
大野ヶ原小学校や牧舎が集まっています。



  

県道を東へ向かって登った「笹ヶ峠」には、
季節営業のお店や公衆トイレがある広場があります。
その広場から源氏ヶ駄場への登山道がついています。
源氏ヶ駄場へは車でも上がれますが、暇なら歩いてみましょう。



遊歩道はやがて牧場に沿って登る坂道に変わります。
牧場の牛は、いるときといない時があります。
牧草を育てるため、ローテーションで場所を変えてるからです。

麓を見下ろして。
柵に沿ってずんどこ、空に向かって登ります。



白い石灰岩のカレンが点在する尾根に着きました。
空にはハイジのオープニングに出て来た綿菓子みたいな雲。
手を伸ばせば届きそう。
宇宙に近いせいか、空の色も少し濃い気がしました。

山頂と反対の東側にドコモの中継所があります。
圏外の心配無しです。
太陽電池パネルと風車で電力をまかなってる、
とってもエコな中継所です。

西へ続く舗装路を歩きます。
舗装が途切れたところから少し登れば山頂です。
この看板までは車で来られますが、
途中の道での路肩駐車は禁止、地元車優先。
ルールを必ず守って下さいね。



さえぎる物ひとつない、源氏ヶ駄場山頂に到着です!
源氏ヶ駄場という名前からも推察できるように、
四国各地に残る平家の落人伝説の地です。
壇ノ浦の戦いで敗走した平家の残党は、
四国の山の中の、そのまたこんな山の中まで落ちてきました。
源氏はあきらめることを知らず、大野ヶ原へも追っ手を差し向けました。
すでに戦う気力を喪失していた落人らの目に飛び込んできたのは、
朝陽の中、白馬に跨った多勢の源氏方の武者の姿でした。
落人らは這々の体でまた落ちて行きました。
けれど、彼らが源氏の白馬と思ったものは、
実は、カルストの白い石灰岩だったのです。
そんな伝説が源氏ヶ駄場の由来となりました。

石灰岩をテーブルにお弁当タイム。
今回は野村町から登ってきたので、
昼食は内子のスーパーで買い出ししたおにぎりとコロッケで。

祠の脇にある、「薊野峰」一等三角点。
標高は、1402.77mです。
源氏ヶ駄場は四国百名山です。



地芳峠へ向かう県道383号四国カルスト公園縦断線の、
途中から見た寺山地区です。
昔から変わらぬ、なだらかな地形です。
明治時代には帝国陸軍が大砲の演習場にしようと、
兵舎や砲車道と呼ばれた軍用道が建設されたこともありました。
カルスト台地を覆い尽くす緑の牧草地は、戦後に開拓された比較的新しい農地です。
マツ林の伐採から始まった開拓民の苦労は想像を絶するものがありました。
この風景は汗と涙の結晶の美しい草原です。
開拓の歴史を伝え学べる博物館でもあればいいのに…、と思う今日この頃です。



こんな景色の中で育った牛たちからの頂き物の牛乳はとっても美味しいです。
松山市内の大型スーパーでも「四国カルスト高原牛乳」の名前で売ってます。



大野ヶ原を後にして地芳峠・五段高原方面へ向かいました。
源氏ヶ駄場の登山口のある広場から地芳峠は約7km。
牛城(標高1342m)などの山裾を、
県道383号四国カルスト公園縦断線を東へ向かいます。
県道は県境に沿っています。
高知に入ったり、愛媛に戻ったりしながら進みます。



県道の右(南)側は、四万十川源流の山谷となっています。
山並みがどこまでも、どこまでも続いてるような不思議。

県道沿いは広くないですが、小さいながら牧場も点在しています。
騒音で驚かさないよう、優しく走ってね。



国道440号線と合流します。
左へ下れば柳谷経由・国道33号線です。
右の梼原方面へ曲がり、300mほど上ると-



五段高原の入口、地芳峠です。
左折方向が五段・天狗高原です。
国道を下れば梼原ですが、かなり、くねくね道です。

ちなみに、国道440号線の大ショートカット・トンネル、
「地芳トンネル(長さ2,990m)」が峠の下を通っています。
2010年完成し、柳谷~梼原は大きく短縮されました。

ひとりごと

四国カルストとは直接関係ないんですが、韮ヶ峠のところで紹介できなかった龍馬と大洲藩のお話。
龍馬が大洲へ抜けるこのルートを選んだのは、長州への最短ルートだったことと、大洲藩が勤王派だったのが理由と云われています。
ただの脱藩浪士だった龍馬が薩長同盟に立ち会うなど、歴史の表舞台に顔を出し始めた頃でした。
龍馬ファンならご存じの「いろは丸事件」で、大洲と龍馬は再び接近します。
龍馬率いる海援隊が大洲藩の蒸気船「いろは丸」を借りて航行中、紀州藩の明光丸と衝突、沈没させてしまった事件です。
元元、大洲藩は蒸気船なんか欲しくなく、大洲藩士・国島六左衛門が長崎を訪れたのは鉄砲の買付が目的でした。
そこで出会ってしまった龍馬に説得され、蒸気船を買ってしまいます。
ノープランで買わせた蒸気船に龍馬は「いろは丸」と命名までしてしまいます。
操船技術を持たない大洲藩は海援隊に頼るほかありません。
悪く云うと、貿易で儲けようとしていた海援隊にはめられたようなものでした。
貿易を試みるも上手くゆかず、なんと、国島六左衛門は責めを負って腹を切りました。
船は結局、海援隊に貸し出され、大洲藩はレンタル料を得ようと目論みます。
そんな矢先に起きたのが「いろは丸事件」でした。
衝突相手の紀州藩は将軍徳川家側の大藩でした。
なのに、8万3000両(最終的には7万両)もの賠償金をふんだくられました。
ちなみに、交渉の際、「万国公法」を使ったと云われていますが、万国公法は海上交通規則に関した本ではありません。
これは作り話だと思われます。
また、事故を再検証すると、どちらかと云えば、海援隊の側に落ち度がありました。
仲介に入った五代才助を始め、薩摩・長州藩の影が見え隠れする龍馬と、彼を全面サポートした土佐藩にねじ伏せられた格好で終結しました。
が、多額の賠償金を受け取ったのは、なんと土佐藩。
大洲藩が得た記録は残っていないのです。
龍馬もそのことは気にしていたようで、新しい船を紹介したりしています。
でも、そのうち、龍馬自身が暗殺されてしまいました。
新しい船(洪福丸)も、幕府軍を追撃する薩長に徴用されてしまいました。
還されたときには台風に遭ってボロボロの姿でした。
新政府に対し、修理代等を請求するも無視。
そのうち、廃藩置県で大洲藩自体が無くなってしまい、最終的には泣き寝入りのような状態となりました。

韮ヶ峠に県道36号線で野村側からアクセスすると、「男水」という美味しい水が飲める休憩所があったりします。
龍馬が飲んだと云われるお水です。
大洲“藩”としては龍馬との出会いはあまりいいものではありませんでした。
いまは、龍馬脱藩の道は日本中の龍馬ファンを大洲に呼び込んでくれる観光スポットとなっています。

さて、尾根地形で開放的な五段高原に比べ、大野ヶ原は凹地で閉じてる感じが少しあります。
そのせいか、人気は五段高原側の方が上です。
大野ヶ原もカルスト地形の特徴がありまくりですし、入植・開拓も大野ヶ原の方が先です。
中世には土佐から攻めてきた長曽我部との合戦、「笹ヶ峠合戦」の舞台になりました。
の笹ヶ峠をピンポイントで差したものではなく、この場合の笹ヶ峠は大野ヶ原全体を差していると思われます。
大野ヶ原についての詳しいことは、大野ヶ原のお山を特集した大野ヶ原へ行こう!も、どうぞ。

大野ヶ原の山山を巡ったお山歩記録もご覧下さい → 大野ヶ原へ行こう!

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