石鎚山は西日本最高峰の名峰です。
“石鎚山”は、頂上社や頂上山荘がある弥山、最高地点の天狗岳、天狗岳とほぼ同じ標高の南尖峰など、複数のピークを持つ山体の総称です。
石鎚国定公園、日本七霊山、日本百名山。
石墨山、皿ヶ嶺、香川の小豆島、八島などが火山活動を行っていた1500万年前、石鎚山も火山としての活動を行っていました。
地質調査で頂上付近に円形に分布する安山岩が発見され、直径7、8kmに及ぶ陥没カルデラであることが認められました。
春は残雪の中に貴重な高山植物が芽吹き、夏は燃えるような緑に包まれ、秋は紅葉の錦を羽織り、冬は厳寒の純白に染まれます。
石鎚山は四季折々に移り変わる季節ごとに様々に表情を変えます。
西日本の盟主にふさわしい遮るもののない山頂から望む大パノラマは圧巻です。
足下の西条、道前道後平野はもちろんのこと、瀬戸内海の多島美、その向こう岸の中国地方。
南に目を転じれば、茫洋と広がる高知の山並みや陽の光を照り返す太平洋。
また、西の方角には条件は厳しいものの、遙か九州まで見通すことも可能です。
その一方で、季節風の影響を受けやすい石鎚山は雲の山、雨の多い山の顔を持ちます。
朝は快晴でも、昼を過ぎたころには雲の中だった、ということが多々あります。
折角の大パノラマが見られないこともしばしばですが、躍動する雲に巻かれた姿はとても幽玄です。
絶海の小島のように雲海から突き出た天狗岳、石鎚山系の尾根を乗り越え流れ下る雲の滝。
龍が這い登るように斜面を駆け上がる雲、霧に浮かび上がるブロッケン現象など。
曇り空でさえ絵にしてしまう魅力を秘めています。
雲の似合う石鎚の年間降水量は平均2、3000mmです。
2005年9月6日には一日に757mmもの雨が観測され(成就にて)、これは日本における日降水量6位の記録となっています。
1時間の降水量としては、1999年09月15日の朝6時に127.0mmが観測されています。
土砂崩れなどの自然災害も多く発生する一方、石鎚に降る雨は四国中を潤す多くの河川の水源ともなっています。
北に染み出した水は西条で「うちぬき」と呼ばれる地下水の自噴井となって現れ、南に流れ下った水は仁淀川や吉野川に姿を変えます。
時に荒ぶる河川が作り出した山裾の渓谷美も見事です。
温帯性の植物が占める四国において、山の高さ故に石鎚山周辺は日本における亜高山帯の南限となっています。
貴重な植物も多く生育しています。
森林は、ブナに代表される落葉広葉樹林から、モミ、ツガなどの亜高山帯針葉樹林に至ります。
「シコクシラベ」(愛媛県の準絶滅危惧種)と呼ばれる常緑針葉樹は、枯死した後も絵になります。
イブキザサなどに覆われたササ原で真白く立ち続ける白骨林となって独特な景観をなしています。
絶滅危惧種に指定された植物も少なくありません。
愛媛県の固有種の「イシヅチイチゴ」や「シコクイチゲ」、生育分布の南限とされる「ハクサンシャクナゲ」などがあります。
「キレンゲショウマ」もそのひとつ。
東京帝国大学初代植物学教授の矢田部良吉博士が明治21年(1888)、石鎚山を登山中に発見しました。
和名のキレンゲショウマをそのままラテン語標記して、日本の学術出版物に日本人学者が発表した記念すべき最初の植物です。
そのように石鎚山や面河渓が最初の発見地となった植物が30種を優に数えます。
四国における秋の紅葉は、石鎚山頂から始まり、山頂を真っ赤に染める紅葉は四国随一の美しさです。
国指定天然記念物や絶滅危惧種に分類される動物も生息します。
ヤマネやニホンカモシカ、ホンドモモンガなど、運が良ければ貴重な姿を見せてくれるかも知れません。
石鎚山は霊山、信仰の山です。
奈良時代の白鳳14年(685)、役の行者によって開山されたとの言い伝えがあります。
石鎚山そのものを信仰する神体山信仰もその頃に始まりました。
石鎚神社の主祭神は「石鎚毘古命」。
「古事記」では、六柱の神様のひとり、「石土毘古神」と称されています。
弘法大師空海は24歳の時に著した「聾瞽指帰」の中で、石鎚を石峰、伊志都知能太気と呼称。
山岳修行をしたと書いています。
平安時代の天長5年(828)、瓶ヶ森にあった石土蔵王権現が石鎚山に移されました。
以降、神道と仏教を同時に敬い、信仰する神仏習合の修験の霊山となりました。
石鎚山の名が登場したもっとも古い文献は、日本最古の説話集「日本国現報善悪霊異記(略して「日本霊異記」)」です。
ソノ山ニ石鎚ノ神有リテ名也。
ソノ山高クサガシクシテ凡夫は登リ到ルコト得ズ。
タダ浄行ノ人ノミ登リ到リテ居住スベシ
(神様がおわす石鎚山は普通の人は登れないほど高く険しく、身を清めた修行者のみが登ったり住んでいる)
天皇や朝廷、地方の豪族らが所領や宝殿を進んで寄進するなど、極めて篤い崇敬を集めました。
日本七霊山の一つとして全国に深く浸透してゆきました。
江戸時代には、西日本各地に「石鎚講」と呼ばれる、石鎚山を信仰する人々の集まりができました。
先達(講の頭)を中心に登拝する先達制度が確立されたのは、延宝年間(1673~81)です。
石鎚大神様の氏子を証明する「先達会符」も発行されました。
三津ヶ浜の木地屋市左衛門が石鎚登拝先達第一号の会符を受けたのは安永4年(1775)のことです。
近隣の市町村では石鎚に登れてこそ一人前とされました。
毎年7月1日~10日にお山開き夏季大祭が行われ、日本中から多くの信者が訪れます。
(お山開き大祭中、一般登山者は登山保護料500円が必要です。)
1日のみ女人禁制となっており、女性は登頂することができません。
(昭和22年の大祭で解禁されるまで、大祭中の10日間、女性は中宮の成就社までしか登山を許されませんでした。)
まず、麓にある石鎚神社から信者が担ぐお神輿で「仁」「智」「勇」3体の御神像が成就へと運ばれます。
御神体は、成就で一晩明かした後、信者らがそれぞれ背負い、山頂社へと向かいます。
御神像を背負った信者が鎖場も走るように駆け上がる様は勇壮です。
大祭中はホラ貝の音が山山にこだまし、登山道には白装束を纏った老若男女の信者であふれます。
西日本最高峰の高峰ですが、アクセスは容易です。
表参道は標高1400mの成就までロープウエイやリフトを乗り継いで行けます。
1492mの土小屋には石鎚スカイラインや瓶ヶ森林道で乗り付けることができます(4月から11月まで通行可能)。
参道として古来より利用されてきた道がそのまま登山道として整備されています。
山岳信仰らしさが漂う鎖場が4ヶ所ありますが、すべてに迂回路が用意され、子どもでも山頂に立つことができます。
(鎖場の迂回路も急斜面や崖を通っているため、気は抜けません)
近年、山頂周辺が整備され、頂上山荘や石鎚神社山頂社、鎖場の迂回路もリニューアルしました。
山頂社は神主さんが常駐していらっしゃいますので、西日本一高い場所で祈祷を受けることができます。
二の鎖、三の鎖元にあった小屋はすべて撤去されました。
二の鎖元小屋があった跡地には、環境配慮型トイレを備えた小屋が完成しました。
石鎚スカイラインは昭和40年8月15日に着工、5ヵ年の歳月と21億5千余万円の事業費を費やし、昭和45年8月31目に完成しました。
当初は有料道路でしたが、現在は無料で通行できます。
ただし、夜間は通行止め、12月から翌3月までは冬季閉鎖されます。
計画では、第Ⅱ期工事として土小屋から西条市西之川(石鎚ロープウェイ山麓駅付近)まで開通させる予定でした。
けれど、経済活動より自然保護が最優先され、国民宿舎まで開通した時点で中止されました。
当時の手荒な工事手法も中止となった原因で、残土をそのまま、最寄りの谷に捨てるなど、自然破壊が横行していました。
土小屋以東はスカイラインとは別に瓶ヶ森林道が寒風山まで開通しています。
|