「車でちょっとお出かけ…」なんて想像だにしなかった時代に生きた人たちはとにかく丈夫ですね。
石鎚山山頂と西条市内を往復するんですから、凄まじい健脚ぶりです。
19時間半、64キロ、歩き通し…。
恐るべし!!
そう云えば、ウチの叔父も石鎚山まで歩いて行ったって話をしていました。
それは戦前で、重信の横河原までは電車で行ったそうです。
でも、そこからはずっと歩いて石鎚山に登ったんだそうです。
マイカーなんて高嶺の花だった時代。
いや、自分の足が最大の移動手段だった時代は、それが当たり前でした。
まぁ、お伊勢さんとかに行くのに比べたら、石鎚山はまだ近い方かな。
当時、松山から石鎚を目指す場合、
小松から横峰寺へ入り、河口に下りて黒川や今宮の参道を登るルートや、
川内の黒森峠を越え、梅ヶ市集落から堂ヶ森・二ノ森と踏んで行くルートもありました。
いまは廃墟と石垣のみになってしまった黒川の集落。
上黒川と下黒川があり、明治末期、上黒川には12軒、下黒川には11軒の季節宿があったそうです。
季節宿というのは普段は農家で、参道が賑わうときだけ、宿として旅人を泊めていました。
夏休みだけやってる民宿みたいなものです。
もっとも賑わったのは大正の頃。
今宮道の今宮集落では、お山開き中、12,470人もの宿泊者があったと伝えられています。
いつか歩いてみたい黒川道ですが、現在は台風災害でかなり荒れているそうで残念です。
往時の登山者は、窮するとよく、農家に立ち寄り、米を分けてもらったり、夕食を馳走になったりしていました。
農家側もよっぽどのことがない限り、追い返すようなことはせず、温かく迎えました。
道案内を頼まれれば貴重な臨時収入にもなりました。
「人を見たら泥棒と思え」などという冷たい言葉が横行するまで、暖かい交流がありました。
山頂での一文に水場の話が出て来ます。
あれは石鎚三十六王子社の35番、裏行場王子社にあったらしい「あかのお水」のことでしょう。
いまはどこにあるのやら…。
いま、山頂で水を得ようとすれば、山頂小屋でお金を出すか、面河への登山道を二ノ森分岐まで下ってシコクシラベの森のわき水のみ。
標高も不正確だった時代のこと。
距離や地名など現代とかなり異なっているので、以下にまとめておきます。
・「老人は、ここから山頂までは更に3里(12km)余りだと教えてくれました。でも、本当は2里(8km)に過ぎませんでした。」
→ 成就社~山頂は3.6km、1里に少し足らないほどです。
・「ようやく禅定森山に達しました。その峰は山頂よりおよそそ1里(4km)の下にあって」
→ 禅定森山はいま、前社ヶ森と呼ばれ、成就社からの距離は2km。
・「一の鎖は長さ17尋(31m)」「二の鎖…は35尋(64m)」「三の鎖は、石鎚一の難所で、75尋半(138m)」
→ 一の鎖は33m、二の鎖は65m、三の鎖は68m
また、堂ヶ森山は、堂ヶ森のことです。
○○山を○○森と云うように“森”の字を当てるのは四国独特です。
けれど、地図を作った関東に住む役人らはそのことを知りません。
“瓶ヶ森山”のように、森の後に山をわざわざ付け足した山名が当時の地図に多数、記載されてしまいました。
戦後、かなり訂正されたのですが、いまでも石鎚の東にある「大森山」は語尾に山が付いたままです。
さて、この本を出版した博報堂は、CM業界で有名なあの博報堂です。
創設者の瀬木博尚は明治28年10月、日本橋本銀町に教育雑誌の広告取次店・博報堂を開業しました。
編者の「帝国少年議会」が「帝国少年議会議事録」という投書雑誌を編纂。
とりまとめたものがこの「草鞋竹杖雲耶山耶」です。
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