| 「草鞋竹杖雲耶山耶」という、明治34年4月、帝国少年議会編輯局編集・博報堂出版の本から、当時の石鎚登山の記録を見つけました。 明治時代の登山の様子をちらっと垣間見ることができる貴重な資料で、山行記としても面白いので、載せてみることにしました。 山行記を寄稿したのは、文章の感じからして、山好きな学生だと思われます。 自動車は元より、公共交通機関の発達していない明治のこと、西条 - 石鎚間を全行程、徒歩で往復しています。 現在は通行止めとなっている黒川道を歩き、黒川村に立ち寄って村人に道案内を頼み、成就社からは山伏らとともに山頂を目指しています。 是非一読下さい。 ※掲載するにあたり、現代語訳+αしています(原文は文語調で、現代じゃ使われない漢字も多く、読みづらかったので)。 ※写真も追加したもので、原文に写真・イラストの類は一切ありません。 ※文中に出てくる尺貫法の数値は原文のまま、括弧はメートル法に直した数値を追記したものです。 標高が2360mになったりしてますけど、当時はそういう認識だったということですので、あしからず。 |
||
| 石槌山紀行 澱水子 | ||
| 私は幼い頃から登攀を好み、春夏の休みは険しい嶺に出かけました。 ここ数年は、愛宕、金剛、葛城、六甲、筑波、箱根、妙義などに足跡を残してきました。 去年八月、友と大和山上嶽に遊びに出かけ、役小角の遺構を訪ねました。 今年四月早々には、那須を訪れ、案内人と共に、雪を踏みしめ、茶白岳に登り、猛烈豪壮な噴煙を見ました。 今年八月、山陽方面へ旅した際、足を延ばして、石鎚山に登りました。 これはその時の紀行文です。 八月二十三日、午前三時、宿屋の老母に起こされた私と友人は準備を整えて、新居郡大保木村を出ました。 三町(約300m)ほど歩き、危なっかしそうな橋を渡り、山道入りました。 少しばかり行くと、道が二又に分かれていました。 石碑がありました。 ![]() 「右石鎚山」と刻んである右の方へ進み、河に沿っておよそ1里(約4km)あまり行き、石段を下ると、また危なそうな橋に出会いました。 渡れそうにありません。 川の流れは激しく、青々と深く澄んだ水が飛沫を上げています。 渡渉も無理そうでした。 友人が、もう少し登ったら渡れそうだ、と言うので従うと、間もなく、丸木の橋に出会えました。 ニ本の丸太を架けただけの橋で、それも滑りやすそうな岩の上に乗っていたので、渡ろうとすると、ぎしぎしと雷のようにきしみ、今にも落ちそうです。 ふたりで協力してなんとか、対岸に渡りました。 その後、石垣をよじ登り、路に出ました。 空を覆うほどに生い茂った杉の森の中を行きます。 道は暗く、凹凸もよく分からないほどでした。 加えて、濃い霧が顔を打ち、寒気が全身に走ります。 川の音が遠く聞こえる道を、また半里弱(2km)行くと、またまた沢に出ました。 今度は川幅も狭く、歩いて渡れました。 その頃、ようやく、東の空が赤く開け始めました。 目覚めたセミがうるさく鳴き始め、周囲も明るくなりました。 険しい所も無い坂道を一里(4km)、早足で歩きました。でも、疲れてしまい、湧水で喉の渇きをいやし、杖に寄りかかって登りました。 山道は落石が多く、“一進半退”、思うように距離が稼げませんでした。 ようやく、山の中腹にある黒川村を眺められる場所に到着。 元気も出た所で、励まし合いながら登りました。 けれど、道はますます険しさを増し、容易にたどり着くことができません。 切りのいい所で休息を貪ったりしながら、六時半、黒川村に到着しました。 村の犬が盛んに吠えてきます。 杖を振り上げても怯むことなく、わんわん、わんわん。 相手にするのは止めた方が良さそうです。 とある農家にお邪魔しました。 家には少し歳を取ったご老人と奥さん、ほかにおばあさんが二人に、小さい子も三人いらっしゃいました。 お茶をお願いし、ご老人に道案内を頼んでみました。 案内料四十銭で即決です。 草鞋を腰に結び、手帳、鉛筆、地図、鉄槌、杖だけを持ち、ほかの荷物はこちらに預け、出発しました。 ここから先は地元でもよく知られた五十町(5.5km)の坂道です。ここでは多くは語りませんけど、とにかく大変でした。 途中には行者堂がふたつあるのみです。 ひとつはお堂の端に鐘が吊してあり、信者の寄進人名が刻んでありました。 もうひとつ、やや大きなお堂が建つその場所は見晴らしに優れ、伊予沖を遙かに見下ろし、青い海に浮かぶ島島を指さしたりしました。 そこから更に登ると、落石が散乱し、倒木もとても多く、荒れた道になりました。 険しさが一層増して、玉のような汗を流し、十歩進んでは休み、二十歩進んでは水を飲みます。 ようやく、というかやっと草原に出て、九時十分、成就に到着しました。 ここは黒川の里から三里(12km)、石鎚遙拝所のある所で、石鎚神社社務所の大きなお堂がありました。 ![]() 老人は、ここから山頂までは更に三里(12km)余りだと教えてくれました。 でも、本当は二里(8km)に過ぎませんでした。 社務所に入り、ご飯を食べ、お茶を頂きました。 神官と山伏、下男の三人がいらっしゃいました。 神官は、大阪の鶏肉屋の息子さんだそうで、とっても面白い人。 山伏はヒゲを蓄え、黄色い顔色した一見風変りな五十歳位の男の人でした。 食事の終わり頃、六人の行者がやって来て、山頂まで一緒に登ろうという話になりました。 私と友人、案内の老人、六人の行者を加えた九人で出発しました。 まず、社前の遙拝所へ。 ここから山頂を拝します。 空には一朶の雲もなく、希に見るほどの快晴でした。 行者さんが云うには、この山は大抵、九時以後は雲が掛かってしまうんだそうです。 私たちはとっても運が良かったみたいです。 思えば昨日の夕方は小松の町にて夕立に遭いました。 轟く雷鳴は凄まじくて、私と友人はなんて運が悪いんだろうと嘆きながら、石鎚の頂を覆う黒雲を恨めしそうに眺めていました。 なのに一転してこの晴天。 まさに神様がくれた贈り物。 私と友人は大いに喜びました。 石鎚の幾つかある尖った頂は、巍然(ぬきんでて偉大なさま)として、深紫色をたたえ、おごそかで神々しい姿をしていました。 東寄りにある三角形の頂は天狗岳、と案内のご老人。 その西にある最も高い頂が御本山だと教えてくれました。 有名な鎖は三段あり、一直線にぶら下がる様はまさに壮観の極でした。 ニつ三つスケッチした後、山へ向かいました。 道はしばしばぬかるむ泥道状態です。六人の行者が急に「南無阿弥陀」を大声で唱え始めました。 でも、「アマイダ」と聞こえるのが可笑しくてついつい、吹出してしまいました。 行者らはとても建脚で、飛ぶ様に歩いて行きます。 いろんな山に登り、一度だって先頭を譲ったことがないのが私たちの自慢だったけど、行者らの姿はまるで山猿のようです。 行者らの間にいた私たちは着いていくのがやっとの有様でした。 行者らは石鎚山にまつわる歌を大声で歌い、少しも疲れた素振りも見せません。 歩む早さも全然衰えないので、案内の老人に耳打ちし、私たちだけ木の根元で休憩を取ることにしました。 行者らはそのまま行ってしまいました。 私と友人は茫然とその姿を見送ると、汗をぬぐって再び歩き始めました。 道は狭く急で、息も絶え絶えの有様です。 木がヤブのようにわだかまり、潜ったり越えたりしながら進みました。 そんな時、思いっきり木に足をぶつけてしまいました。 さっき、行者の「南無阿弥陀」を「アマイダ」と笑ったバチが当たったせいでしょうか。 痛いし、可笑しいし、やれやれと歩いているうちに、ようやく禅定森山に達しました。 その峰は山頂よりおよそそ一里(4km)の下にあって、荒神を祭る祠がありました。 時々、けが人が出るため、登攀禁止だそうで、鎖も取り外してありました。 少し行った所にある梯子を下り、今度は左へ登り、五町(500m)進んだ所で振り返ると、鬱蒼とした木々に包まれた禅定森山が深緑色に帯びて見えました。 更に数町(数百メートル)登ると、金属音が響いてきました。 案内の老人が言うには、行者らはもう鎖に取り付いたらしいとのこと。 私たちももうひとがんばりと登り、鳥居を通過し、一の鎖に取り付きました。 一の鎖は長さ十七尋(31m)と云われ、一節は一尺五寸(45cm)位です。一の鎖を登り切り、また一休みした後、数町(数百メートル)ほど岩場を歩いて、二の鎖に到りました。 これは三十五尋(64m)だそうです。 一の鎖の倍です。 それから、約一時間、ゴツゴツした岩場、まばらな熊笹の間を登り、遂に三の鎖に到達しました。 ここにも小さな祠がありました。 振り返ると、円い頂を空に向けた瓶ヶ森が見えました。 見下ろすと、谷間から雲のような霧が湧き始めています。 私たちは先を急ぐことにしました。 三の鎖は、石鎚一の難所で、七十五尋半(138m)だそうです。 まさに板を直角に立てような岩盤で、上を見ると青空に白い雲が走り、下を見ると雲が渦巻く千尋の深い谷です。 自然と手足が震え、鳥肌立って頭がくらくらしてきました。 一度でも足を止めたら、以前、撤退した時の二の舞になりそうだったので、ただただ、まっすぐ登りました。 そして十一時五十分、鎖の終わりが見えた時、頭上から声が聞こえてきました。 石鎚山山頂に到着したのでした。頂に険しくそびえ立つ岩はノコギリの歯の様です。 畳十四、五畳ほどの平らな場所に銅の祠がひとつ安置されています。 祠は高さ三尺(90cm)、幅四尺(1.2m)位。 ご神体なく、トウモロコシが一束、お供えしてあるだけでした。 行者らを見ると古参の方が合掌念仏して珠数をすり付けたお米を、地べたに座った五人に分け与えていました。 その有り難く押し戴く様はとても興味深いものでした。 喉が渇いたので私たち三人は水を汲みに、南の方へ一町(100m)程下りました。 水は岩窟の内に湧いていて、柄杓が置いてありました。 下が痺れるほど冷たいお水でした。 私たちは力を取り戻し、再び山頂に戻りました。 山頂からは、馬の背越から伊予峯へと連なる稜線や、三角点がある堂ヶ森山、土佐矢筈山、尾根が包囲する面河川源流の渓谷などが眺望できました。 ![]() 東には天狗岳があり、数町(数百メートル)ほどの間に聳えた頂は、岩ツバメが飛び交い、よじ登れそうにありませんでした。 視界一杯にうねうねと山並みが走り、空と山が擦れあうように接していました。ただ、阿波の剣山が雲に隠れて見えなかったのが、ただただ残念でした。 北には禅定森を初め、足下には山々が筍のように並んでいました。 山頂は海抜七千七百八十八尺(2360m)。 関西一の高山です。 白い雲が次第に沸き上がってきました。 まるで虎と龍が争っているみたいでした。 そこへ、雷のような轟音を伴ってもの凄い強風が吹きつけ、雲や霧を吹き散らしました。 途端に灼熱の陽光が降り注ぎ、まぶしさに目が眩むほどでした。 わずかの間に様々に変化する景色は、金や銀の粉を振りまいたようでした。 十二時、清く晴れた空から降り注ぐ直射日光で玉の汗をかいても、谷間から北風が吹き上がると途端に爽快になります。 山頂は岩だらけで、わずかに背の低い樹木があるだけです。 十二時十分、記念に削った一番高い所の岩の欠片と、二つ三つ書いたスケッチを土産に、山を降りました。 三つの鎖を下り、黒川村では案内の老人の農家で食事をし、危なっかしい橋を渡って、五時五十分、大保木村に到着。 宿賃を払うと急いで幾つかの峠を下りました。 太陽はすでに沈んでしまい、森はすでに真っ暗です。私たちは、詩吟を辺り構わず大声で歌って怖さを紛らわしながら、灯りを目指し、急いで下りました。 鴨川に着くと、船橋(船を並べてつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの)の番人が田舎芝居に出かけておらず、渡賃が浮いたと喜んで渡りました。 浮いた分、甘酒数杯、飲み、十時半、西條の海岸にあった宿に泊まりました。 この日の山行時間は十九時間半、およそ十六里(64km)を歩き通しました。 西条の人が云うには、氷見から頂上迄は、往復十八里半(72km)だそうです。 十一時、床につきました。 |
||
| 「車でちょっとお出かけ…」なんて想像だにしなかった時代に生きた人たちはとにかく丈夫ですね。 石鎚山山頂と西条市内を往復するんですから、凄まじい健脚ぶりです。 19時間半、64キロ、歩き通し…。 恐るべし!! そういえば、私の叔父も若い頃、松山から歩いて石鎚山に登ってきたという話をしていました。 昭和の戦前の話ですけど、重信の横河原までは電車を使い、後もうはずっと歩いたんだそうです。 今は廃墟だらけの黒川の集落にも人々の営みを垣間見られます。 黒川は上黒川と下黒川があり、明治末期、上黒川には12軒、下黒川には11軒の季節宿があったそうです。 もっとも賑わった大正頃、もう一方の参道である今宮道の今宮集落では、お山開き中、12,470人もの宿泊者があったと伝えられています。 いつか歩いてみたいと思ってた黒川道ですけど、現在、台風災害で通行止め、すでに荒れ始めているそうです、残念。 山頂での一文に水場の話が出て来ます。 あれは石鎚三十六王子社の35番、裏行場王子社にあったらしい「あかのお水」のことでしょうか? さて、この本を出版した博報堂とは、CM業界で有名なあの博報堂です。 創設者の瀬木博尚は、明治28年10月、日本橋本銀町に教育雑誌の広告取次店・博報堂を開業しました。 編者の「帝国少年議会」が「帝国少年議会議事録」という投書雑誌を編集し、それをまとめたのがこの「草鞋竹杖雲耶山耶」です。 |
||