東三方ヶ森は、高縄半島の最高峰、近くて遠いお山です。
四国百名山。
松山-西条間の国道11号線より北に大きく突出した地形「高縄半島」を覆う山塊の中心に位置しています。
半島内では最高峰です。
大きく3方向に尾根を延ばし、西へ向かえば高縄山・明神ヶ森など、松山市東部地域の山岳を形成しています。
東へ延ばせば今治・周桑地域の西陽を遮る山岳地帯となり、南は桜三里を挟んで石鎚連峰に接続しています。
地質的には白亜紀に形成された領家帯に位置します。
山頂周辺及び北部は珪長質深成岩類(領家花崗岩類) です。
約1億年前にマグマが地下深くで固まってできた花崗岩質の深成岩でできています。
南部は東西両川に沿って延びる領家変成岩の層を見せた後、約1億年前に海で形成された海成堆積岩類になっています。
県道152号線沿いに点在する採石場などでは、縦に大きく削られた山の断面にダイナミックな地層を見ることができます。
県道奥、関屋林道沿いには、約7千万年前の波の波紋が化石となった「漣痕化石」(東温市の天然記念物)の露頭も観察できます。
山頂から稜線にかけての花崗岩類は脆く、土砂崩壊も度々見られます。
登山ルートに利用されている稜線・尾根の一部でも斜面が大雨などで崩落しています。
細く切り立った場所を通行しなければならないので足下には注意が必要です。
山域は周囲の集落から遠く隔絶した最深部にあり、自然が濃いエリアとなっています。
森は人工林も多い一方で天然の植生も豊かで、貴重な動植物も多種多様に暮らしています。
シカなどの大型の生物も自生しているほか、山頂部ではツツジ、シャクナゲの群落を見ることができます。
北部の人工林は国有林となっていて、厳重に施錠された林道(木地奥線)で管理されています。
南部の関屋林道及び支線は自由に出入りできます。
けれど、自然災害による通行止めもあり、不自由な部分もあります。
紅葉が見事な阿歌古渓谷のほか、数千本のヤマザクラが自生する「一目五千本桜」など、四季を堪能することができます。
山を覆う豊かな森は高縄半島周辺に暮らす数十万人の水源池の役目を十二分に果たしています。
南に降った雨は道後平野一の河川・重信川となります。
北に落ちた雫は今治平野に流れ込む蒼社川に、東にあふれた水は周桑平野の田畑を潤す源となっています。
特に重信川はその流域に松山市をはじめとする2市2町、約596,000人の人口が集中、その生活を支えています。
東三方ヶ森山頂部は東温、今治、西条の市境が交わる位置にあります。
“三方”の文字は越智、周桑、久米の3地域を分ける頂きだったことも表しています。
明治の始め頃は、越智郡、桑村郡、周布郡、久米郡の4つが交わっていました。
旧越智郡では“暃ヶ森”、桑村郡では“三ッ森山”とも呼ばれていました。
文献によって、“ヶ”が付かない“東三方森”や、“三方”部分に“みかた”と読み仮名を振っているものもあります。
現代の地図には同じ“三方ヶ森”の仲間では、「北三方ヶ森」が載っています。
明治・大正の頃までは、東三方ヶ森と北三方ヶ森の間に、“中”、“奥”、“西”、“南”を冠した三方ヶ森が存在していました。
往時、山間部に暮らす人々は炭焼きや薪、狩猟などで生計を立てたり、ブナやケヤキで椀や盆を作る木地師などが居住していました。
炭焼きは戦前頃まで盛んで、阿歌古渓谷奥に当時の集落跡が残っています。
生業のために入山する人がほとんどでした。
登山の対象にされ始めたのは大正時代の末頃です。
旧制の松山高等学校や松山高等商業学校の登山部(旅行部)が競うように登攀・縦走したのが初めでした。
更に遡ると、お山を山岳信仰・修験の場としていた時代は、尾根伝いに修行の道が存在していました。
修験者らは丹原の西山興隆寺から入山して尾根伝いにまず、黒瀧神社を参詣しました。
東三方ヶ森に向かって稜線をたどり、越え、中三方ヶ森から北へ、楢原山山頂の奈良原神社に参籠しました。
いまでは稜線沿いの道はほとんど廃れてしまいました。
東三方ヶ森付近の稜線上のみ、夏でも通行することができます。
主に利用されている登山口は南麓にあり、阿歌古渓谷、林道関屋線の2ヶ所から登ることができます。
北側は木地奥林道で稜線付近まで迫れます(徒歩でのみ)。
標高差(登山口からの比高約600m)は南からでも北からでもあまり変わりません。
そのほか、西方にある南三方ヶ森(白潰)から中三方ヶ森越えの縦走も可能です。
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