古峠黒滝峠をはさんで西に二箆山、東に雑誌山はそびえています
黒滝峠は、かつて伊予松山と土佐高知を結んでいた土佐街道沿いにあった、当時の国境の古峠、現在でも県境です。
二箆山の「二箆」は麓の集落の名前です。
「二箆」の「箆」とは矢に用いる矢竹、矢柄のことです。
この地域には、節のそろった竹が二本ずつできる珍しい双生矢竹があり、夫婦竹とも呼ばれています。
二箆地区の入口付近で見られます。
二箆とは、双生の矢竹を意味しています。
双生の矢竹については、山上にある「赤蔵ヶ池」のヌエ伝説にまつわる物語が語り継がれています。
矢竹の看板から-
双生ヤダケ
伝説では、源三位頼政が八百年の昔、紫宸シシン殿の怪物鵺ヌエを射落し大功を立てた。
その矢は二箆の赤蔵アゾヶ池に隠棲の母親が二箆の矢竹で造ったものだった。
母は池の主竜王に子の立身を一心に祈願、鵺に化身して久万山の夜霧に乗って京に飛ぶ。
紫宸殿に頼政が鵺を射落すと二箆赤蔵ヶ池の水が真赤になったという。
二箆とは二箆フタツノで、箆は矢竹の意。
その二つの矢竹が地名となった。
ここの矢竹は節のそろった竹が二本ずつできるので双生矢竹、夫婦竹といわれる。
ヤダケの特色
1.笹の一種で竹の種類ではない。
2.皮が竹のように落ちないでいつまでもついている。
3.一節から枝が左右に出る、どの枝も同じ方向で出るので扇形をしている。
4.葉がしのべ竹より広くてつやがよい。
所有者美川村
文化財村指定 昭和48年2月21日
美川村教育委員会
※↑看板のぬえの字は「空」に「鳥」と書きますが、第3水準漢字なので、第2水準の「鵺」を用いました。
赤蔵ヶ池の看板から、ぬえ伝説について-
赤蔵ヶ池
この池は美川村の沢渡・二箆・筒城の山頂にあって湧水による自然の池で、水は農業用水に使われ、四国でも珍らしいジュンサイが生育していた。
池の周囲は雑木林で四季おりおりの変化があるが、池はつねに蒼然と不気味にしずまりかえっている。
古書にも「鴨住ヶ池」、「阿蔵ヶ池」または「遊ヶ池」といろいろに記されているが、源三位頼政が退治した怪獣(ぬえ)はこの池に棲み、雲に乗って京の空へ住来していたと伝える。
周囲五七五メートル、
面積一万四七〇平方メートルという。
この池から南東に三キロ下った県道の傍らに竹の群生が見られる。
「矢竹」と呼ばれ頼政がぬえ退治に使用した矢の竹がこれであったと伝え、村は文化財に指定して保護育成につとめている。
美川村教育委員会
怪鳥ヌエは、赤蔵ヶ池に住んでいたとも、源三位頼政の母が息子の立身出世を思いやった挙げ句に化身したとも、伝えられています。
ヌエの最後は母が送った矢竹で退治されます。
雑誌山にも姥捨てや妖怪・山姥の話が語り継がれています。
二箆山山頂手前にある「猿楽大師堂」の前には土俵と「猿楽石」と呼ばれる大岩があります。
また、この周辺には「姥捨て山の伝説」が残っています。
かつての旧街道、予土往還・土佐街道を東へ行くと、黒滝峠、そして雑誌山へと至ります。
お地蔵様が2基ある黒滝峠の周辺は、「雑誌越え予州高山通り」とも呼ばれ、「池川紙一揆」の舞台にもなりました。
天明7年(1787)、池川、用居、名野川の農民が土佐藩による紙の統制を反対、一揆をおこし、総勢711名もの農民が伊予へ逃散しました。
その際、名野川の農民は「雑誌越え」して伊予へ逃散しました。
また、幕末期に中島作太郎、細木核太郎が脱藩した道としても知られています。
ふたりと共に脱藩した中島与市郎は雑誌山の東にある水ノ峠で歩けなくなり、土佐藩の追っ手が迫る中、自害しました。
雑誌西山から雑誌山にかけてブナやササが生い茂る、自然の残る静かな尾根歩きを楽しめます。
麓にある「カラ池」は貴重は湿原です。
名前通り、水量は少な目ですが、雑誌山を覆うブナが保水した水が標高1200mもの高地にオアシスを形成しています。
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