旧別子銅山は、愛媛県新居浜市(旧別子山村)で旺盛を誇った別子銅山の産業遺構が残るメモリアル・ゾーンの総称です。
ここでは、日浦登山口から銅山越までのエリアを紹介します。
銅山越しにて
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日浦登山口から銅山越にかけての登山道沿いには、別子銅山華やかなりし頃の名残りが数多く点在しています。
製錬所、鉱業所本部鉱山事務所、小学校、病院、劇場など、12,000人もの人々が暮らした一大鉱山集落の跡です。
長い間、森の中に眠っていた近代産業遺跡はいま、「東洋のマチュピチュ」と呼ばれ、観光地としての脚光を浴びています。
別子銅山は、足尾銅山(栃木)・日立銅山(茨城)と並ぶ、日本三大銅山のひとつでした。
元禄3年(1690)の銅鉱床の発見から、昭和48年(1973)に283年間に渡る歴史の幕を閉じるまで、65万トンを優に超える銅を産出しました。
元禄11年の年間産銅量1500トンは、当時の世界最高の産銅量を誇るものでした。
住友家が一貫して経営し、住友財閥大躍進の基となりました。
住友グループは瀬戸内有数の工業都市・新居浜の町を造り上げてきたと云っても過言ではありません。
銅山を支えた大勢の人々は、険しい別子の山山の傾斜地を巧みに切り拓き、銅山街と呼ばれる一大集落を形成していました。
斜面に多くの家屋がへばりつくように建ち並んでいました。
中心地、目出度町には、東京や関西から芸人や歌手が招かれ、1000人以上の観客を収容できた劇場もありました。
明治6年当時の日本最高所に開校した小学校には300人近い児童が通っていました。
坑道を利用した全長4キロにも及ぶ鉄道(通称・かご電車)が、山の向こう側の東平と日浦の間を結んでもいました。
銅山はそれはそれはとても賑やかでした。
一方で、銅山の隆盛は、周囲の自然に荒廃たる多大な負荷を与えました。
銅山が開かれる前、一帯はブナなど広葉樹帯で覆われた豊かな森でした。
けれど、採掘、製錬、民家のカマドの薪として膨大な数の伐採が行われました。
更には精錬所からの亜硫酸ガスによってお山は地力を失いました。
町の周囲から緑が失われ、地肌が露わとなった、ハゲ山同然の有様でした。
明治32年(1899)、大型台風が四国を縦断しました。
台風がもたらした激しい風雨は、水の勢いを留めるもののない斜面を洗い流すように溢れ下りました。
山津波=土石流により、死者513名、倒壊家屋122戸という未曾有の大災害となりました。
銅山は常に、環境問題との戦いを強いられてきました。
製錬所、鉱業所本部等が麓へ移転した明治後半、伊庭貞剛が支配人に就任。
伊庭は、毎年100万本にも及ぶ驚くべき植林計画を立案、実行に移しました。
現在、銅山の名残がまるで古代遺跡のように思えるまでに森に呑み込まれています。
その自然優位の光景は、現代にまで続く、大植林の結果です。
自然に還ろうとするお山の力と、自然に帰そうとする人々の努力が実を結んだ、人工的・計画的に自然回復活動が行われた賜物です。
中七番にある住友の森フォレスターハウスにて、大植林計画について学ぶことができます。
銅山が位置する赤石山系はツガザクラやアカモノの大群落など、貴重な高山植物の宝庫です。
西赤石山まで足を伸ばせば、山頂一帯をピンクに染めるアケボノツツジの群落を目にすることができます。
また、国領川の上流、通称“別子ライン”や、別子山側の銅山川の渓谷美は新緑、紅葉時期を問わず見事です。
道の駅マイントピア別子には、温泉施設のほか、再現された坑道をトロッコで巡れる観光坑道が人気です。
山根、広瀬、東平地区にある記念館は別子銅山の歴史を学ぶことができる貴重な場所です。
併せて見学されることをおすすめします。
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