松山市の東部、山が始まる場所にそびえるのが淡路ヶ峠です。
「峠」は「とうげ」ではなく、「とう」と読みます。
松山に住んでいれば、必ず見ているお山です。
地図上では無名峰です。
故に、知名度はかなり低く、とても身近でありながらマイナーなお山です。
多数の登山道があることや山頂に展望台があることも知られていません。
平成9年、ハイキングコースとして登山道が一部整備されました。
その時、山頂には立派な展望台と東屋が設置されました。
展望台からは松山平野が一望のもとに見下ろすことができます。
松山市街はもちろんのこと、砥部、松前、伊予市、海岸線沿いに佐田岬へと連なる山並み。
対岸の山口県の屋代島など、驚くほどのパノラマが拡がっています。
桑原小学校の校歌の1番、その冒頭に淡路ヶ峠の名が登場します。
『淡路がとうに朝日映え 石手の川に夕日浮く 眺めすぐれし学び舎に 集うわれ等ぞ幸多き…』
明治政府の要職を務めた伊藤博文との縁もあるお山です。
400年ほど昔、道後湯築城城主・河野道直が伊予の支配者だった頃、道直の家臣・林淡路守道起の砦がこの淡路ヶ峠にありました。
(淡路ヶ峠の名の由来です。)
1585年、豊臣秀吉の四国侵攻により、河野氏は降伏、河野道直は有馬温泉へと落ち延びます。
それから広島の竹原辺りに隠遁した際、つき従った約50人の家来に林淡路守道起もいました。
その後、林道起は山口県に移り住みます。
約300年の後、道起から数えて11代目の子孫として生を受けたのが伊藤博文(幼名は林利助)です。
父・林十蔵は、長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となりました。
その武兵衛は、安政元年(1854)に周防国佐波郡相畑の足軽・伊藤弥右衛門の養子となったため、伊藤姓を名乗るようになりました。
博文は1909年の春、道後温泉を訪れました。
その際、淡路ヶ峠を仰ぎ見、「来年、再訪し、先祖の供養をしたい」と語ったと伝えられています。
伊藤博文は、その年の10月、満州外遊中にハルビン駅で暗殺され、叶わぬ夢となりました。
登山道や登山口は地元有志により整備、管理が行われています。
近年、宝ノ谷砂防ダム周辺に新たな登山口が二つ、ダム奥の登山口から山頂まで登山道も整備されました。
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