自由研究 地図から消えた
○三方ヶ森
はじめに…調べてみました!メールホームへ

文献(文字情報)でしか○三方ヶ森を発見できなかった頃に推測した、
“この辺りにあるだろう”位置です。
東三方ヶ森~福見山・明神ヶ森間の稜線で、
いずれも標高1000mオーバーのピークが林立する場所です。

高縄半島の脊梁山脈です。
手前(南)が東温市(旧川内)、奧(北)の左(西)が松山市、
右(東)が今治市(旧玉川町)です。

file No.①-1:「温泉郡誌」 愛媛教育協会温泉部会編 向陽社 明治42年3月発行

湯山村誌】【山誌】から

南三方ヶ森は、米野々の東南約一里余の連山中に聳え、本村及越智郡龍岡村、本郡北吉井村の三村に跨る高山にして、福見山と相対す、高大凡九百五十尺あり

※カタカナをひらがなに変えてあります。

湯山村は、現在の湯山、溝辺、上高野、食場、末、柳、宿野々、青波、藤野々、水口、河中、東川、大井野、 米野々、福見川、川之郷、杉立、玉谷に当たります。

資料から読み取れるヒントは、

米野々から東南約一里余の距離

湯山村、越智郡龍岡村、温泉郡北吉井村の三村に跨るところ

三村に跨る=村境の三叉路で、米野々から1里=約4kmの位置にあるといえば、白潰です。

三方ヶ森は、白潰でしょうか?


file No.①-2:同「温泉郡誌

北吉井村誌】【山誌】から

村の東北隅郡境に東三方ヶ森あり、本村第一の高山にして、其の西にあるを中三方ヶ森といひ、西にあるを西三方ヶ森といひ、尚其西にあるを福見山といふ、其他記すべきなし

※北吉井村は、現在の樋ノ口、山之内、志津川、西岡に当たります。

資料から読み取れるヒントは、

東三方ヶ森の西に中三方ヶ森

そのまた西の、福見山からは東に西三方ヶ森

わかるのは東三方ヶ森と福見山の間に、中三方ヶ森西三方ヶ森があるということ。
このエリアには、1228m峰、白潰、明神ヶ森のほかにもピークはたくさんあり、
上記の内容だけでは特定は困難です。
けれど、中三方ヶ森と西三方ヶ森と呼ばれるお山があったことがわかりました。

file No.②-1:「愛媛県地誌」 山下直平著 土肥文泉堂等 明治43年9月発行

第一編 自然地誌】【第二章 地勢】【第一節 山誌】【二、高縄山嘴地域】から

…高縄山の如きは三千四百尺の秀峰をなせり。
これより山脈は東西に走り、東山脈は北三方森より東南走して越智郡の南境に近く南三方森となり、周桑、越智、温泉の境上に東三方森を起し、幾多の支脈を出して南走す。

「北三方森」=「北三方が森」なので、「南三方森」=「南三方ヶ森」でしょう。

資料から読み取れるヒントは、

越智郡の南の境に南三方ヶ森

文章を図に表すと以下のようになります。

※赤線が山脈、黒が境界線。

file No.②-2:同「愛媛県地誌」

第三編 処誌】の【第五章 温泉】から

…東は高縄半島を形成せる諸山によりて、高峻なる地方となり、越智、周桑二郡との境を割し、中央部に南三方森、少しく北に主峰高縄山等を起して西北に走り、遂に海に没し、南方に連なりては遂に中山越に至りて石鎚山脈と境をなす。
然して、南三方森方面より西に向かひて突出したる一脈あり。

高縄山系を語るのに、東三方ヶ森ではなく、南三方ヶ森が用いられています。
当時、南三方が森はそれなりにネームバリューがあり、当地の中心的なお山だったのでしょうか。

file No.③:今治郷土史 「今治地誌集」
※東温市立歴史民俗資料館からご提供いただきました。

【山川】【南三方ヶ森】から

高さ未詳、麓回六里二十町、郡の南方にあり、東南は久米郡に属し、西は温泉郡に属し、北は本郡に属す。
山脈東は東三方ヶ森に連なり、南は久米郡福見山に亘り、西北は北三方ヶ森に通す。
山勢峻険、樹木鬱蒼、渓水六條、登路三條あり。

資料から読み取れるヒントは、

久米郡、温泉郡、越智郡の3つに接している

東三方ヶ森、福見山、北三方ヶ森に連なる

図にするとこうなります。

地図的には、白潰南三方ヶ森になりそうです。

file No.④:「山之内村地誌」
※東温市立歴史民俗資料館からご提供いただきました。

】【明神ヶ森】から

高さ未詳、麓回二十町、村の北方にあり。
北は温泉郡湯山村に属し、東南は本村に属す。
山脈、坤位(西南)福見山に連なり、艮位(東北)西三方ヶ森に亘り、樹木茂生す。
渓水一條、黒滝谷と云う、南に向け下流久米川に入る、裾幅一五間、支流三條あり。
 同【西三方ヶ森】から
高さ未詳、麓回三十町、村の北方にあり。
嶺上よりこれを三分し、西は温泉郡湯山村に属し、北方は越智郡龍岡村に属し、東南は本村に属す。
山脈、坤位(西南)明神ヶ森に連なり、東中三方ヶ森に亘り、樹木茂生す。
渓水一條、音地谷と云、南に向け下流久米川に入る、裾幅二十間、支流八條あり。
 同【中三方ヶ森】から
高さ未詳、麓回二十町、村の艮位(東北)にあり。
東西北三方は越智郡竜岡村に属し、南は本村に属す。
山脈、西は西三方ヶ森に連なり、東は東三方ヶ森に亘り、樹木茂生す。
渓水一條、竹屋敷谷と云、南に向け下流久米川に入る、裾幅一五間、支流三條あり。

同【東三方ヶ森】から

高さ未詳、麓回二十町、村の艮位(東北)にあり。
山脈、西は西三方ヶ森に亘り、樹木茂生す。

※()内の方角は当方が追加。

山之内村は江戸時代からあった村で、明治22年、山之内、樋口、志津川、西岡と合併し、北吉井村になります。

図にするとこうなります。

 ※青線は谷。

これを実際の地図に当てはめてみます。

ピークに当てはめるとこんな感じになりました。

中三方ヶ森白潰東三方ヶ森の間になります。

西三方ヶ森の場所は、湯山村誌と愛媛県地誌、今治地誌集に登場した南三方ヶ森と同じ場所(白潰)と似ています。
この村地誌には、南三方ヶ森が出てきません。
村は山脈の南に位置しているので、村から見て北にあるお山に「南」の字は付けづらいからかもしれません。
北部にある越智郡から見れば南三方ヶ森、南東部にある山之内村から見れば西三方ヶ森という風に。
村が違うと山名が異なることは昔は普通でした。

file No.⑤:「愛媛の山岳」北川淳一郎著 昭和36年発行

※東温市立歴史民俗資料館からご提供いただきました。

82ページ、東三方ヶ森山頂から福見山へ縦走するくだりから

…いたずらの雲は石鎚石墨を隠し、これから踏み破る西三方ヶ森、白潰、明神ヶ森を朦朧の中に包んでいる。(中略)
…白潰までの中間に
西三方ヶ森、1232米、1200米などの峰峰を越える。

これを実際の地図で眺めてみると、

残念ながら、現代の地図には1232米、1200米のピークはありません。
取りあえず、東三方ヶ森と明神ヶ森の間に西三方ヶ森があることは分かります。

この山行記では、東三方ヶ森の標高を1234米と表記しています。
実際は、1232.7mです。
1232米は東三方ヶ森(1234米)よりたった2mだけ低い高峰です。
東三方ヶ森と明神ヶ森の間にあるそれほどに高いピークは1228m峰です(現在の数値でも4m差です)。
また、歩いた順番通りに書いてると仮定して、
西三方ヶ森→1232米→1200米→白潰、の順番通りなら、
西三方ヶ森は1154mピークになります。

file No.⑥:「県立自然公園ガイドブック」 愛媛県 昭和?年発行
※東温市立歴史民俗資料館からご提供いただきました。

概念図

拡大

唯一手に入った地図情報でした。
県が発行したガイドブックなので信用性は高いと思われます。
この地図から推測される西三方ヶ森の場所は、北に尾根を伸ばす1228m峰になります。

file No.⑦:「愛媛県誌稿」愛媛県著 大正6年発行
※東温市立歴史民俗資料館からご提供いただきました。

二 高縄山脈

高縄半島地域は燧灘・伊豫灘の間に於て北に突出せる幅広き半島にして、 越智・周桑・温泉の三郡に跨り、西条町・松山市間の街道によりて南の方石槌山脈と分たる。
この半島地域はその周緑の海に沿える処は丘陵平野相連なれるも、 その大半は花崗岩及和泉砂岩層より成り、処々に安山岩の露出を見、 高さ500米乃至千米内外の山地をなす。
本山脈は瀬戸内海の陥没により中国山系の離存せるものにして、南方石槌山脈と地質学上の成因を異にす。
半島の中央部より少しく西に偏して高縄山(986米)、大月山(940米)等の秀峯あり。
これより連嶺東西に蜿蜒し、西にわたれるものは七、八百米の高度を保ち、立岩川と重信川の一支流五明川との分水嶺をなせり。
東に延びるものは始め湾曲して東南に向い、北三方森(977米)、水ケ峠(705米)、白潰山(1159米)、明神ヶ森(1217米)、福見山(1054米)等、幾多の高峯を成して、道前・道後の平野を分画し、その支脈更に東北に向い、蒼社川・重信川の分水嶺をなす。
本山脈の最高峯たる東三方森(1233米)ここに崛起し、山支更に北方に走り二脈となり、頓田川を挾みてその東西両岸を南北に走る。
西岸に於けるものは五百米内外の連山にして金山(510米)最も高く、東岸のものは南部に於て梢高く、七、八百米の高度を保ち、五葉山(840米)の如きもあれと北するに従いて低下し、龍門山(439米)世田山(328米)等となり、其北は著しく陵夷し遂に頓田川ロの南岸に終る。

明治43年発行の「愛媛県地誌」を一部改訂したような内容でほぼ一緒です。

大正時代になって白潰山(白潰)が登場します。
一方で南三方ヶ森の名は消えてしまいました。

標高がメートル法に切り替わっています。
明治期の尺貫法表現の資料は誤差ありまくりでした。
けれど、明治の後半から、軍部の参謀本部陸地測量部が日本各地に三角点を設置し、
正確な測量、地図作製が行われています。
この資料の数値は当時の三角点標高を採用したのだと考えられます 。

この資料には上記の後に県内の主山岳のリストが載っていて、
東三方ヶ森を東三方森、北三方ヶ森を北三方森と書いています。
但し、フリガナは「サンポウ」ではなく、「ミカタ」となっていました。

明治期の資料では南三方ヶ森西三方ヶ森が混在しています。
昭和期の資料では、西三方ヶ森以外は出てこず、変わって白潰が出てきます。
西三方ヶ森の位置は東三方ヶ森の西にあることぐらいしか共通性がありません。

調べるほどにますます混乱です。

現代のように共通・正確な地図がなかった時代、村が違えば山名が異なることは当たり前でした。
(広範囲から眺められる富士山は1500もの呼び名があると云われています。)
温泉、越智、久米、周布、桑村の各郡で呼び名が異なるのは当然です。
東西南北の方角を冠にしている山名は視点が異なると南と北が入れ替わることがあります。

この辺りの山脈は郡・村の境界線にもなっています。
温泉、越智、久米、周布、桑村の各郡の境界が複雑に交わっています。
山名の基本部分、“三方ヶ森”は、ひとつのお山を三つの集落が分け合っている状態や、
山頂で三本の境界線がY字に交わっていることを示します。

一望できない奥地、複雑に交わる境界などが要因となって、
資料によって山名がばらつく元になっていると考えられます。

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